ウクライナといえば「ひまわり」というイメージが自分のなかにある。
イタリア映画『ひまわり』(1970年)によるものだが、「ウクライナ戦争」がらみで、いま日本全国で上映会が行われているということもあって、じつにひさびさに最初から最後までDVDで視聴してみた。
(『ウクライナ100の素顔』東京農大出版会、2005)より)
約40年前に名画座の「イタリア映画2本立て」で見て以来だ。抱き合わせは、『ラストコンサート』という、お涙ちょうだいものの甘ったるい映画だったな。
それはさておき、『ひまわり』はおおまかな筋は覚えていたが、やはり40年ぶりともなると、さすがにディテールまで記憶にはなかった。 「目覚まし時計がさす6時」など、なかなか細かいところに目がいってしまう。
(MIAを探す張り紙 画面キャプチャ)
32歳で徴兵されていた北部出身の主人公とナポリ出身の妻は、仮病を装って脱走しようと試みるが、ムッソリーニのイタリアがヒトラーのドイツと同盟を結んでいたこともあって、懲罰として対ソ戦線に行かされることになる。
(雪中行軍のイタリア軍兵士たち 画面よりキャプチャ)
真冬の凍てつくウクライナで行き倒れになった主人公、彼を探しにソ連までやってきたその妻。セラヴィと言ってしまうには、あまりにもひどい現実。大義なき戦争によって引き裂かれたカップルの悲劇。
(まさに「独ソ戦」のまっただ中に投入されたイタリア軍)
妻が夫を探しにソ連にいくのはスターリン死後のことだから、1950年代のソ連が舞台設定となる。撮影が行われたのは1970年の公開前ということになろう。この映画を見ていると、現地ロケで見るあの当時のソ連が、いかに貧しい状態だったかがよくわかる。
(モスクワにて 画面キャプチャ)
登場するのは、モスクワとウクライナの農村、工業都市。主人公の命を救ったウクライナ人女性と家庭をもった主人公。ウクライナらしさがでているのは、ウクライナ南部で撮影したらしい「ひまわり畑」の風景(*)だけでなく、特徴的な女性の編み上げヘアスタイルもそうだ。ティモシェンコ元首相のあれだ。
(*)これまでウクライナ南部のヘルソン州でロケが行われてきたと説明されてきたが、そうではないようだ。「映画「ひまわり」ロケ地を取材 見えてきた国家のうそ」(NHK鹿児島 2022年4月11日)を参照。
(ウクライナの農村にて 画面キャプチャ)
田舎の一軒家からあたらしく建設された団地に引っ越すシーンがあるが、なんだか日本の昭和40年代のようだな。
(ウクライナの地方都市 画面キャプチャ)
イタリア北部のミラノが舞台だが、戦争終了後にミラノ駅でロシア戦線からの帰還兵たちを迎えるシーンを見ていると、舞鶴生まれの自分は、引き揚げ船によるシベリア帰りの兵隊のことを想起してしまった。リアルタイムで見たわけではないのだが・・。
(ミラノ駅の「ロシア戦線復員兵」歓迎風景 画面キャプチャ)
日本で公開されてから約半世紀。「絶滅戦争」となった「独ソ戦」の舞台となったのがウクライナであり、イタリア軍またドイツ側に立って参戦した歴史的事実も再確認しておくべきだろう。
(美しいひまわり畑の下には・・ 画面キャプチャ)
美しいひまわり畑の下には、イタリア人兵士たちとロシア人捕虜の死体が埋められているのだ、と。 ドイツ軍の命令で穴まで掘らされて・・。
<関連サイト>
・・「実際の映画のシーンと比較してみたところ、丘の傾斜などがそっくりで、複数の村の住民の証言からも、チェルニチー・ヤール村で映画「ひまわり」が撮影されたことは、ほぼ間違いないと見られます。(・・中略・・) 確たることはわかりませんが、取材を進めると、自国にとって不都合な歴史を覆い隠そうとしたソビエト指導部の思惑が見えてきました。(・・中略・・)東部戦線で実際にイタリアが派兵したのは、映画が撮影されたポルタワ州から現在のロシアにかかるエリアです。犠牲者が埋葬されているとすれば、このあたりになるはずです。しかし、撮影場所が明らかになって遺族などが現地を訪れ、遺骨の返還などを求められると、ソビエトにとって非常に都合が悪いわけです。そこであえて、イタリア兵の主戦場ではなかった南部ヘルソン州を撮影場所に仕立て上げたとも考えられます。(・・中略・・) 結局、映画「ひまわり」は、ソビエト国内で上映されることすらありませんでした。撮影現場となったチェルニチー・ヤール村の人々も、ソビエト崩壊まで作品を目にすることはなかったと言います。ロシアの教育現場では、ソビエトあるいはロシアは絶対的な善だという神話がすり込まれ、戦後のシベリア抑留や近隣諸国への軍事侵攻などについては、国民の多くが「相手の国が悪かったのだ」と考えています。(・・中略・・)私は、映画「ひまわり」のロケ地にまつわる謎も、今回のウクライナへの侵攻も、根は同じ問題なのではないかと見ています。」
(2022年4月12日 項目新設)
<ブログ内関連記事>
・・「ウクライナといえばチェルノブイリ」となってしまった
・・パルチザンだったレーヴィは逮捕されたのち、ユダヤ人であったがゆえにアウシュヴィッツ送りになる。そこからの陸路による生還の記録を残した文学者であった
(2022年12月23日発売の拙著です)
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