2020年にCOVID-19(=コロナウイルス感染症)の感染爆発が始まった当初、ミラノの高校の校長先生が生徒たちにあてた手紙のなかで、『いいなづけ』を読んで、ペストが大流行した400年前の混乱状況を思い起こすように語ったことが報道されていた。これが文庫版の「復刊」につながったようだ。2006年に文庫化されてから14年ぶり(!)の復刊である。
地方の農村で生まれ育ち、結婚を誓い合った若い二人が、結婚をまじかにして運命に翻弄されて離ればなれになりながらも、最後はハッピーエンドを迎えるという内容だが、もちろん小説の山場はペストに襲われた大都市ミラノの混乱ぶりにある。
小説の設定は1628年から1630年にかけて、舞台はイタリア北部のミラノ侯爵領のミラノとコモ湖畔の農村。当時はミラノ侯爵領はスペイン帝国の統治下にあった。川をはさんで「国境」を接していたのがヴェネツィア共和国である。イタリア統一は1860年、著者のマンゾーニ自身もイタリア統一の精神的指導者であった。
(第34章より ペストの死者が運び出されていく光景)
文庫本で1000ページを超える分量なので、なかなか読むのは大変だ。しかも、海外文学の長編小説にはあるがちだが、本筋とは直接関係ないような描写もけっこうあるので読み進めるのは一苦労。だが、文庫本で下巻となる第28章から、物語は怒濤のように一気に展開していく。ペストの大流行が始まったのだ!
そうでなくても、すでにうちつづく飢饉のためミラノでは食糧暴動が発生していた。そこに「ドイツ三十年戦争」(1618~1648)のさなか、マントヴァ侯爵領の攻略のため南下してきたドイツ人傭兵たちによる略奪と虐殺で農村が荒廃していた。そのうえ、さらにペストの大流行が始まったのである。 「17世紀の危機」はイタリアも襲っていたのである。
ミラノの校長先生が生徒たちに『いいなづけ』を読むように語ったのは、自分たちが生活しているミラノが舞台だからであろう。 だが、ミラノの人間ではなくてもパンデミックがいかに大きな混乱をもたらしたか、読ませるものがある。これでもかこれでもかというほど、ディテールにこだわった描写にリアリティがあるからだ。
(文庫版の帯より 上から㊤㊥㊦の帯)
なるほど、こういう大混乱のなかでは、人間が考えることも行動も変わらないな、と。 そしてまた、パンデミックが去ったあとに、幸運にも生き残った人たちの言動についても、十分に説得力があることが読むとよくわかる。この点にかんしても、400年前と変わらないな、と。
ペストを題材にして描いた文学作品には有名なカミュの作品のほかいくつかあるが、ダニエル・デフォーの『ペスト』は、1665年のロンドンでの大流行を扱ったものだ。この『いいなづけ』は、1630年のミラノでの大流行を扱ったものだ。
そろそろ「コロナ」の大流行も終わりに近づいているいま、この貴重な体験を振り返り、今後のパンデミックに備えるためにも、記憶が薄れないうちにペストを扱った欧州の文学作品を読んでおく意味はある。
大事なのは、事実をベースにしたイマジネーションの力なのだからだ。 事実の羅列だけだは、イマジネーションを働かせるには限界があるからこそ、文学のもつ力が必要となる。
著者プロフィールアレッサンドロ・マンゾーニ(Alessandro Manzoni 1785~1873)19世紀イタリア最大の国民作家。ミラーノの貴族出身。1860年上院議員となり、イタリア統一の精神的指導者として国民的尊敬を受けた。翻訳者プロフィール平川祐弘(ひらかわ・すけひろ)1931年東京生まれ。東京大学名誉教授。比較文学者。著書多数。イタリア関係では『マッテオ・リッチ』など。
PS 『いいなづけ』が扱っている時代は、17世紀前半の混乱期だが、拙著『世界史から読み解く「コロナ後」の現代』(ディスカヴァー、2020年12月)執筆の際には時間がなくて読めなかった。書き直す機会があれば(・・ないだろうが)、『いいなづけ』についても言及したいものだな、と。
<関連サイト>
・・さすが「国民文学」だけあってイタリア語版の情報が充実。
<ブログ内関連記事>
(2024年8月24日 情報追加)
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
end