『頼山陽とその時代 上・下』(中村真一郎、ちくま学芸文庫、2017)を読了。上下あわせて千ページを超える大冊を読み終えるのに1週間もかかってしまった。
下巻の巻末の人名索引を利用して、必要な部分だけ読めばいいと思っていたのだが、それではもったいない、最初から全部読んでみようと思って読み始めたら、思ったより時間がかかってしまったのだ。
それは、この本が分厚いだけが理由ではない。江戸時代後期に生き、漢詩・漢文をよくした頼山陽(らい・さんよう 1781~1832)が遺した作品だけでなく、その家族や一族、交友関係や弟子たちにいたるまで、網羅的にその作品をつうじて理解すべく、膨大な量の漢詩漢文が取り上げらているからだ。
いずれも原文は読み下しされているとはいえ、漢文読み下し文を読みこなすのは、なみたいていのことではない。
(頼山陽の一般に知られているのとは違う肖像画 Wikipediaより)
1971年に単行本初版がでたこの本は、いまやすでに古典といっていいのであろう。読みながらそう思ったし、読み終えたあとは、よりいっそうその感を強くしている。なぜなら、一般的に流通している頼山陽のイメージを一変させた内容となっているからだ。
頼山陽というと、どうしてもそのライフワークで、幕末の志士たちを奮い立たせたベストセラー『日本外史』の著者であり(・・さすがに読んではないが)、「鞭声粛粛夜河を渡る・・」で始まる「川中島」などの漢詩(・・といっても、自分は詩吟をやるわけではない)の豪放磊落なイメージが固定化している。
また、個人的には、頼山陽というと、灘の銘酒「剣菱」というイメージが大学時代に形作られてしまっている(・・なぜかわたしが属していた体育会合気道部では「酒は剣菱」と決まっていたのだ)。
ところが、文学者の中村真一郎氏の代表作の一つともいうべき本書を読むと、頼山陽と文人が、そんな固定観念ではひとくくりにはできないような人物であったことがわかってくる。
巻末の結びともいうべき文章を引用しておこう。この作家が、重度の神経障害を患ったという、きわめて個人的な関心から接近したのが頼山陽なのであった。
アンシクロペディスト的な教養と趣味。そして多くの性格的欠点を有し、やり直すことのできない人生に、多くの致命的な失敗を演じて、生涯を悔恨の堆積たらしめ、しかも執拗な神経障害のために、絶えず躁と鬱との状態を繰り返して、感情の平衡を保つことのできなかった人物。その病状のために時に、感覚の粗大と鈍感さとを免れなかった人物。しかしまた極度の自己中心主義によって、結局は己れの欲するままの生活を貫き通した人物。知性の快楽と官能の快楽を同時に追い求めて飽きなかった人物。そうした錯綜とした人格、頼山陽を長年の追尋の後に、私は遂に懐かしく想うようになって来つつある。ーー
人間的な、あまりにも人間的な、というべきであろうか。そんな人物が、江戸時代後期の19世紀前半の日本にいたのである。たかだか200年前のことに過ぎないのである。
漢詩・漢文というベールをはぎとってみて、初めてわかる当時の知識階層の世界。現代の日本人にとっては「教養の欠落部分」であり、それはわたしにもまた例外ではない。
どうも俳句や川柳や浮世絵といった町人文化で江戸時代を見ることに慣らされてしまっている現代の日本人は、かつて漢詩漢文や文人画に代表される世界もまた存在したのだということを知る必要がある。そう強く思うのだ。
そして、それはきわめて豊穣な世界であったこともまた。
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目 次第1部 山陽の生涯まえがき1 病気と江戸遊学2 病気と脱奔3 病気その後4 遊蕩と禁欲5 女弟子たち第2部 山陽の一族まえがき1 父春水2 春水の知友3 山陽の叔父たち4 山陽の三子5 三つの世代第3部 山陽の交友 上まえがき1 京摂の友人たち(第1グループ)2 京摂の敵対者たち(第2グループ)3 西遊中の知人たち(第3グループ)第4部 山陽の交友 下1 江戸の学者たち(第4グループ)2 江戸の文士たち(第5グループ)3 諸国の知友(第6グループ)第5部 山陽の弟子まえがき1 初期の弟子たち(第1グループ)2 慷慨家たち(第2グループ)3 晩年の弟子たち(第3グループ)4 独立した弟子たち(第4グループ)第6部 山陽の学藝まえがき1 『日本外史』2 『日本政記』3 『日本楽府』4 『新策』と『通議』5 『詩鈔』と『遺稿』6 『書後題跋』後記解説(揖斐高)付録 略年譜 頼家略系図 人名索引
著者プロフィール中村 真一郎(なかむら しんいちろう)1918年(大正7年)3月5日生まれ、1997年(平成9年)12月25日没。日本の小説家・文芸評論家・詩人。加藤周一らと共に「マチネ・ポエティク」を結成し、共著の時評『1946・文学的考察』で注目される。『死の影の下に』(1947年)で戦後派作家の地位を確立。ほかの作品に『四季』4部作(1975~84年)など。(・・・中略・・・)1957年に妻の元文学座女優・新田瑛子が幼い娘を残して世田谷区の自宅で睡眠薬自殺をしたことをきっかけにして、精神を病み、電気ショックの療法を受けて、過去の記憶を部分的に失い、その予後として、江戸時代の漢詩を読むようになってから、今までの西洋の文学に加えて、漢文学の要素が作品に加わっていくようになった。(・・・中略・・・)1970年代以降は、江戸時代後期の漢文学への造詣を基盤にした評伝『頼山陽とその時代』(中央公論社)を刊行をはじめ、近世日本漢文学史の見直しのきっかけを作る。その後も著述を続け、『蠣崎波響の生涯』(読売文学賞受賞)、遺作となった『木村蒹葭堂のサロン』の浩瀚な評伝を著した(各・新潮社) (Wikipediaの記述による)
PS 第1部の「まえがき」より
重度の神経障害を病み、その治療を兼ねて10年あまりにわたって、江戸時代後記の漢詩を読みあさってきた著者の感慨である。
今まで、人は生まれて、仕事をして、死んで行く、という経過が、ひとつの完成した作品のように見えていたのが、そうではなくて、無数の可能性の中途半端な実現の束が、人の一生なのではないか、と思われてきたのだった。殆どの人間の人生が中断なのではないか。ーー
いまのわたしには、著者のこの感慨は、じつに刺さるものがある。
PS2 知られざる人物の掘り起こしとしても
個人的には、丹後田辺藩の儒者・野田笛甫(のだ・てきほ 1799~1859)の存在を知ったことは大きい。生まれ故郷の人に、そんな人がいたとは知らなかった。
こういった知られざる人は、もっともっと掘り起こすべきだろう。
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