1948年にイスラエルが建国されてから、すでに75年もたっている。
「第4次中東戦争」(1973年)による石油ショックから50年。パレスチナ問題への解決の道筋が見えた「オスロ合意」から30年。すでに世の中は大きく変化してしまっている。
かつてイスラエルは、未来への可能性を秘めた若い国だった。さまざなま問題をもちながらも、なんとかサバイバルしてきたこの国も、すでに成熟期を過ぎて危機的な状況を迎えつつあるといっていいいのかもしれない。
危機的な状況とは、ことし2023年10月7日の「サプライズ・アタック」に始まる、大規模なテロ攻撃の犠牲と実質的な報復攻撃のことだ。「イスラエル・ハマス戦争」(2023 IsraelーHamas War)と仮称されている戦争状態のことである。
ガザ地区への地上作戦に先立つ激しい空爆と、巻き添えになった膨大な数のパレスチナ人犠牲者の発生に対してわきあがった批判で、イスラーム諸国の大海に浮かぶイスラエルはふたたび国際的孤立状態になりつつある。
「革命」なり「独立」なり政体が大きく変化したあとの国家は、70年を経過する頃から制度疲労の蓄積によって劣化していくことが歴史学者によって指摘されている。
近いところでは、ロシア革命後のソ連は約70年で崩壊、国家統一を果たしたドイツも、明治維新革命で新体制となった日本も約70年で体制が崩壊している。
イスラエルはことしの夏に、2023年の最高裁の権限を弱める司法制度改革を強行したネタニヤフ首相に反対する、イスラエルの大規模なデモが連日のようにつづいていた。
結局、この改革案は可決してしまったのだが、その矢先に起こったのが今回の大規模テロ事件であった。すでに危機的状況は顕在化していたのだ。
今回の「イスラエル・ハマス戦争」という、危機的状態を乗り切ることができるかどうか、イスラエルの運命はそこにかかっている。
もちろん、イスラエルという国家が消滅してしまうことを望んでいるわけではない。民主主義国家としての健全な発展を望んでいるだけだ。
■ユダヤ系米国人によるイスラエル入門
『イスラエル ー 人類史上最もやっかいな問題』(ダニエル・ソカッチ、鬼沢忍訳、NHK出版、2023)という本が、ことしの2月に出版されていたことを知ったのは、つい最近のことだ。
いまさらイスラエルの入門書を読むこともあるまいと思ったが、それは浅はかな考えであったと知ることになった。
この本を読んだのはじつに正解だった。この本をじっくり読めば、イスラエルのなにが問題であるか、そしてイスラエルへのかかわりからみた現在の米国社会も理解できる理解できるからだ。
著者は、リベラル派の米国系ユダヤ人である。おそらく主たる読者対象はまずはユダヤ系、その他イスラエルに関心のある英語読者なのだろう。
そして、『イスラエルを知るための62章【第2版】(エリア・スタディーズ)』(立山良司編著、明石書店、2018)を先に読んでおいたのも正解だった。この本は、日本人による、日本人のためのイスラエル入門であるからだ。
『イスラエルを知るための62章【第2版】』が、複数の日本人専門家による総合的なイスラエル全体像である。
『イスラエル ー 人類史上最もやっかいな問題』はイスラエルという国の過ぎ来し方と現状について、単独の著者ができるだけ公平な立場で描こうとしたものである。
■「ベングリオンの三角形」というパラドックスで考える
本書の通奏低音となっているのが、著者がいう「ベングリオンの三角形」である。イスラエルの「国のカタチ」を説明するための重要事項だ。
ベングリオンはイスラエルの初代首相でシオニスト。建国の父は、新生イスラエルが抱えている問題を、1948年の時点で熟知していたのである。
(「3つの旗」は同時に掲揚できない。本書の P.123 より)
「ベングリオンの三角形」とは、以下の3つのテーゼがすべて成り立つことはないというパラドックスのことだ。
本書にはクリストファー・ノクソン氏による「3つの旗」のイラスト(上図)で示されているのでわかりやすい。いわゆる「トリレンマ」である。
1. イスラエルは、ユダヤ人が多数を占める国家である2. イスラエルは、民主主義国家である3. イスラエルは、新しい占領地をすべて保有する
イスラエルはこのうち2つを選ぶことができるが、3つ全部は選べない。そして、この選択によって、イスラエルの「国のカタチ」が決まってくるわけだ。
つまり、今後もイスラエルが「ユダヤ人国家」でかつ「民主主義国家」でありつづけるためには、「占領地の保有」は放棄しなくてはならない。
あるいは、「ユダヤ人国家」であり、かつ「占領地の保有」をつづけるのであれば、「民主主義国家」であることをやめて、権威主義体制になってしまうことを意味している。
実際、現在のイスラエルは後者の方向に進みつつあったのだ。ベングリオンの「労働シオニズム」が退潮し、いわゆる「宗教シオニズム」の台頭がイスラエル社会の右傾化を招いている。
戦争が長期化する可能性が指摘されているが、今回の「イスラエル・ハマス戦争」が終了後には、攻撃を事前に察知できなかった情報体制の問題、政治的弱体化を招いた責任、戦争犯罪の責任などが徹底的に検証され、報告書にまとめられることになるだろう。
そのプロセスをつうじて、イスラエルの「民主主義国家」としての健全性が回復することを望みたいのだが・・・。
ちなみに、この「トリレンマ」は、ユダヤ系トルコ人で米国で研究活動を行っている経済学者ダニ・ロドリックのいう「グローバリゼーション・パラドックス」を想起させるものがある。
「グローバリゼーション」と「民主主義」、そして「国民的自己決定」の3つを、同時に満たすことはできないという「トリレンマ」のことだ。
■ユダヤ系米国人にとってのイスラエル、米国にとってのイスラエル
2023年10月7日の「サプライズ・アタック」は、米国のそれを模してイスラエルにとっての「9・11」と呼ばれることもあるが、忘れられていた「パレスチナ問題」があらためてクローズアップされただけでなく、この事件で可視化されたことはじつに多い。
そのひとつが、アメリカのユダヤ系市民によるガザ攻撃への反対運動だ。リベラル左派のユダヤ系の人たちを中心に、ワシントンの議事堂に座り込みの抗議が行われ、逮捕者も出しているという。
ユダヤ系米国人のゆるぎないイスラエル支持という「常識」は、すでに過去の話となっているのである。その件についても、本書ではくわしく説明されている。
イスラエルのユダヤ系イスラエル人は、すでにイスラエルが独立してから75年以上たっており、おなじユダヤ系とはいっても、ユダヤ系米国人とは異なる存在になっているのである。ユダヤ系だから無条件にイスラエル支持とはならないのである。
権威主義体制を強めているイスラエルにおいて、ユダヤ系は約8割を占めている。のこり2割はパレスチナ人などアラブ系である。これに対して、米国においてはユダヤ系は 2%強に過ぎない。
前者のイスラエルではユダヤ系がマジョリティだが、後者の米国ではユダヤ系はマイノリティなのである。この違いは大きい。イスラエルと、イスラエル以外で生きているユダヤ人の違いである。
しかも、ユダヤ系米国人は、ユダヤ系というよりも米国人としてのアイデンティティのほうが強いようだ。大半を占める改革派のユダヤ教徒は、宗教的というよりも世俗的であり、その点は伝統行事は守るが宗教的ではない一般的な日本人とよく似ている。
米国において、ユダヤ系の 3/4 は民主党支持、1/4 は共和党支持である。著者もまた民主党支持のリベラル派である。
伝統的に民主党支持が多いのは、ロシアや中東欧からの低所得層の移民が多かったことや、公民権運動などさまざまな理由があるが、共和党支持のユダヤ系は歴史的には比較的あたらしい現象である。
「超正統派」など宗教右派のユダヤ系にその傾向があることは、トラン元大統領の娘婿のジャレッドクシュナー氏が、不動産業者でかつ「正統派」(オーソドックス・ジュー)であることを想起するべきだろう。配偶者でありトランプ氏の娘のイヴァンカはユダヤ教に改宗している。
そして、いまやイスラエルの強力な支持者は、福音派(エバンジェリカル)のキリスト教徒である。ユダヤ系ではなく「キリスト教シオニズム」のほうが大きな影響力をもっている。だから、選挙戦においてトランプ氏は福音派を重視したのである。
国際関係においてきわめて重要な事項である、米国とイスラエルの密接な関係は、おなじ二国間の同盟関係といっても、日米同盟とは比較しようもないほど強力なものだ。
とはいえ、1960年代以降、米国がイスラエルを支持することには変わりないが、その中身と意味合いが変化しているのである。
イスラエルを強力に支持する米国は、内政は分断状態にあり劣化が著しい。戦争中の現在は「挙国一致」体制をとるイスラエルだが、国内の分断状況が進んでいる点は米国とおなじである。右派のネタニヤフ批判の声は止んでいない。
その一方、反イスラエルの動きがそのまま反ユダヤ主義につながってしまう。米国だけでなく欧州でも、ユダヤ人コミュニティに対する脅迫が増大し、危険が高まっている。たいへん残念なことだ。
*****
ユダヤ系米国人が、おそらくユダヤ系米国人を主要な読者対象として書いたであろう本書をじっくり隅々まで読むと得られるものは多い。
もちろん一般的な入門書として読むこともできるが、米国にとってのイスラエル、米国人にとってのイスラエル、ユダヤ系米国人にとってのイスラエルについて知ることのできる、すぐれた内容の本である。
翻訳も読みやすく、しかもかゆいところまで行き届いた編集がされている。『イスラエルを知るための62章【第2版】(エリア・スタディーズ)』(立山良司編著、明石書店、2018)とあわせて読むべきだろう。得るものが多いことは間違いない。
目 次はじめに第1部 何が起こっているのか?1章 ユダヤ人とイスラエル ー 始まりはどこに?2章 シオニストの思想 ー 組織、移住、建設(1860年代~1917年)3章 ちょっと待て、ここには人がいる ー パレスチナ人はどうなる?4章 イギリス人がやってくる ー 第一次世界大戦5章 イスラエルとナクバ ー 独立と大惨事(1947~1949年)6章 追い出された人びと7章 1950年代 ー 国家建設とスエズ危機8章 ビッグバン ー 第3次中東戦争とそれが生み出した現実9章 激動 ー ヨム・キプール戦争から第1次インティファーダ(1968~1987年)10章 振り落とす ー 第1次インティファーダ11章 イスラエルはラビンを待っている12章 賢明な希望が潰えて ー オスロ合意の終焉13章 ブルドーザーの最後の不意打ち14章 民主主義の後退第2部 イスラエルについて話すのがこれほど難しいのはなぜか?15章 地図は領土ではない16章 イスラエルのアラブ系国民 ー 共生社会か、隔離か?17章 ラブ・ストーリー? ー イスラエルと、アメリカのユダヤ人コミュニティ18章 入植地19章 BDSについて語るときにわれわれが語ること20章 Aで始まる例の単語21章 Aで始まるもう一つの単語22章 中心地の赤い雌牛 ー イスラエルとハルマゲドン23章 希望を持つ理由紛争にかんする用語集謝辞解説(中川浩一)訳者あとがき参考文献出典・参照先人名索引
著者プロフィールダニエル・ソカッチ(Daniel Sokatch)社会活動家。イスラエルの民主主義を名実ともに達成させるためのNGO、「新イスラエル基金(New Israel Fund)」のCEO。同基金は、宗教、出身地、人種、性別、性的指向に関わらず、すべての国民の平等を確立すること、パレスチナ市民やその他の疎外された少数派の保護、およびあらゆる形態の差別と偏見をなくし、すべての個人と集団の市民権と人権を確立すること、イスラエル社会の本質的な多元性と多様性を認識し、それに対する寛容性を強化すること、マイノリティの利益とアイデンティティの表現および権利のための民主的な機会の保護、自国および近隣諸国と平和で公正な社会を構築し維持すること、などを目標に掲げて活動している。妻と二人の娘と共にアメリカ、サンフランシスコに在住。日本語訳者プロフィール鬼澤忍(おにざわ・しのぶ)翻訳家。おもな訳書に、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』『それをお金で買いますか?』『実力も運のうち 能力主義は正義か?』、ワイズマン『滅亡へのカウントダウン(上)(下)』(いずれも早川書房)、クロス『Chatter(チャッター)』(東洋経済新報社)、共訳書にベッカート『綿の帝国』(紀伊國屋書店)、クリスタキス『ブループリント(上)(下)』(News Picks パブリッシング)など多数。(本データはNHK出版の書籍サイトより)
<関連記事>
・・ピュー・リサーチセンターの調査結果。ユダヤ系米国人の大半は民主党支持だが、イスラエルの存在は「重要だが、本質的なものでない」とする者が約半数。ただし世代間の違いがある。年齢層が高いほどイスラエルへの思いが強い。
(2023年11月6日、12日 情報追加)
<ブログ内関連記事>
■イスラエル社会
■宗教都市エルサレムと世俗都市テルアビブ
Pen (ペン) 2012年 3/1号(阪急コミュニケーションズ)の「特集:エルサレム」は、日本人のための最新のイスラエル入門ガイドになっている
■2000年以前のイスラエル
全国民にガスマスクを配布せよ!-湾岸戦争(1991年)の際、イラクからのミサイル攻撃の脅威にさらされていたイスラエルは国民にガスマスクを無償配布した
映画『戦場でワルツを』(2008年、イスラエル)をみた(2009年12月6日)
・・1982年の「レバノン侵攻」を体験した新兵たちは、わたしとまったくおなじ20歳だった
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・・1982年の「レバノン侵攻」を体験した新兵たちは、わたしとまったくおなじ20歳だった
・・1972年のミュンヘン・オリンピック事件
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!)
(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!)
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(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!)
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