イスラエルがハマスのテロリストたちによる「サプライズ・アタック」を受けて、多数の死傷者を出したという衝撃的なニュースが飛び込んできたのは、ことし2023年の10月7日のことだった。
最初ニュースになっていたのは、野外コンサート会場が襲撃されたニュースであったが、そのうち情報公開がなされるにしたがって、ガザ地区近辺にあるキブツも襲撃され、多数の死傷者と拉致された人びとがいることが明らかになってきた。
おそらく多くの日本人にとって、イスラエルの農業コミュニティである「キブツ」の実際を映像や写真で見るのは初めてのことだったのではないだろうか。
農業関係者であれば、キブツについて聞いたことのない人は少ないだろう。1970年頃に若者だった日本人なら、キブツに滞在した人もいた。キブツ体験記も出版されている。わたしも1992年にイスラエルを訪問した際に、ツアーに参加して北部のキブツに一泊している。
キブツでどんな農業が行われているのか、なかなか日本では知られていない。その昔、ロケット博士として知られていた糸川英夫博士による『荒野に挑む』(ミルトス、1989)というビジュアル本も出版されている。ベングリオン大学の研究とイスラエル農業への取り組みを紹介した本だ。
だが、イスラエル農業といっても、先端農業に関心のある農業関係者などを除いたら、ほとんど知られていないことだろう。糸川博士のもの以降には、一般向けの関連本として、『イスラエル100の素顔 ー もうひとつのガイドブック』(東京農大、2001)という本がある。
「砂漠を緑に」というスローガンで始まったキブツ。そのキブツや、モシャブといった農場における「イスラエル農業のいま」について書かれた本があったことを思い出して、購入から4年たったいま、はじめて読んでみた。
■イスラエルの先端ICT農業
『日本を救う未来の農業』(竹下正哲、ちくま新書、2019)という本がそれだ。タイトルからはそれとわからないが、副題の「イスラエルに学ぶICT農法」こそ、主題となるテーマである。
著者は拓殖大学の国際学部で農業コースを立ち上げた農業研究者。戦前日本の「拓殖」(=開拓殖民)が農業から始まったことを考えれば、ふさわしいテーマ選択である。イスラエル農業に開眼したのは2015年のことだそうだ。
「目次」を見ておこう。第1章と第2章は、なぜイスラエルの先端ICT農業に注目すべきかという前振りである。それはそれで面白いが、読み飛ばしても構わない。
1970年代で生産性向上がストップしたままになっている日本農業に対して、1970年大以降に試行錯誤しながらも飛躍的に生産性を向上させたイスラエル農業の秘密について書かれているのが第3章である。
第3章 最先端ICT農業とは ― イスラエル式農業1 イスラエルの厳しい条件2 イスラエル農業を支える根幹 ― ドリップ潅漑3 なぜ日本にもドリップ灌漑が必要なのか。その① 収量の増加4 なぜ日本にもドリップ灌漑が必要なのか。その② 未来の農業のために5 「土つくり」よりも大事なこと6 イスラエル農業の特徴。飽くなき収量の追求7 IoTクラウド農業の時代8 ビジネスとして必要な経営規模9 研究機関と農家の密な連携
キーワードは、ずばり「ドリップ灌漑」である。英語では drip irrigation という。
「クラウド農業」や「IoT農業」には日本でもかねてから注目され、取り組みもなされているが、著者によれば肝心要の「ドリップ灌漑」なしにそれに取り組んでも意味はないのである。
というのは、地中海性気候で砂漠地帯の厳しい条件、すなわち降水量が少なく、保水力がなく、塩害も発生しやすい土壌が大半のイスラエルでは、植物の生長に必要なだけの水を散布する必要があるからだ。
実際にイスラエルにいってみればわかるが、乾燥がひどいのだ。わたしがイスラエル入りしたのは7月だったが、初日にクチビルがひび割れしてしまい、エルサレムでは薬局に飛び込んでリップクリームを購入したことが鮮明な記憶として残っている。
水が少なければ植物は枯れるのは言うまでもないが、水が多すぎるとムダに流出してしまう。
だがそれだけではない。土に吸い込まれた水が毛細管現象によって土中の水分といっしょに地上に吸い上げられ、水が蒸発したあとには塩分が地表に残ってしまうのである。これでは農業などできるはずがない。
そこで導入されたのが「ドリップ灌漑」である。地面にはわせた散水用の管(チューブ)に開けられた穴から、必要な量だけ水が点滴のようにしみ出る仕組みになっている。
この「ドリップ灌漑」方式は、長年の研究と実践をつうじて完成にいたっている。糸川英夫博士が紹介していたように、イスラエルでは研究機関と農業の現場が密接に連動している。
(ベングリオン大学における「荒野に自生する花の研究」。ドリップ灌漑用の黒いチューブ。『荒野に挑む』より)
現在では、イスラエルだけでなく、欧州その他全世界に普及しているという。だが、日本ではまったく普及していないのは、日本が年間をつうじて降水量にめぐまれた希有な国であるからだ。逆境は人間を鍛えるが、順境は人を慢心させる。
だが、著者はそんな日本でも「ドリップ灌漑」は必要だという。理由は2つある。まずは収穫量の増大が可能になること、そして近未来のAI農業の大前提になるインフラだからだ。
ドリップ灌漑は、水だけでなく、水に溶かした液体肥料も植物に与えることができる。これを「ファーティゲーション」(fertigation)というらしい。肥料を意味する fertilizer と、灌漑を意味する irrigation の合成語である。
必要な肥料を、必要なタイミングで施肥することができるのである。河川汚染を引き起こす窒素やリンを減らすことができるだけでなく、農薬も減らすことが可能だという。日本農業で声高に語られる「土つくり」の必要がないだけでなく、生産管理でいう「ムリ・ムダ・ムラ」がなくなるわけだ。
つぎに、「ファーティゲーション」は ICT がそれを支えている。土壌センサや気象センサーなど、さまざまなセンサーをつうじて得られたデータをもとに、植物の生長に必要な肥料を、適切なタイミングで適切な量を流量調整によって施肥することが可能となる。
現場にいなくても、ネットをつうじて遠隔地からスマホで操作が可能となる。これが「クラウド農業」だ。
さらに、その先にくるのが「AI農業」である。データ処理もアクションもすべて機械の判断にまかせるのである。
イスラエルでは「植物生長量センサー」も設置されていて、土壌や気象以外の植物そのもののデータが総合的に判断されている。これがすべてAIによって制御されることになる。ここまでくると、人間が介在する余地が大幅に減少することになる。
「クラウド農業」も「AI農業」も、データの収集と分析だけでは意味がない。データを具体的なアクションにつなげる必要があるが、人手に頼っていては効率性が低く、したがって生産性も向上しないのだ。
ここまで読んでくると、いいことづくめのように聞こえてくる。日本農業も取り入れるべきであろう。いや、農業とはまったく関係ない人なら導入になんら躊躇がないはずだ。
■なぜかピッキングや梱包作業についての記述がまったくない
「10・7」の大規模テロ事件で可視化されたのが、キブツに暮らして働いているのはイスラエル人だけではないということだ。タイ人農業ワーカーが多数働いていたという知られざる事実である。
拉致されて人質となっている250人近い人たちのなかには、多数のタイ人も含まれるという。ハマスのテロリストたちは、その存在をしっていて、片言のタイ語で呼びかけてきたという報道もある。イスラエル全体でなんと3万人(!)のタイ人農業ワーカーが働いているという。
この本には、そんなことはいっさい書かれていない。収穫量の増加について書かれているが、果実や野菜のピッキング作業の効率化にかんする記述がいっさいないのだ。
手間のかかる作業はイスラエル人が行っているのではなく、外国人労働者に依存しているのである。この点にかんしては、日本農業と変わらないではないか。
機械によるピッキングと梱包、そして出荷まで進まなかったら、ほんとうの意味での「未来の農業」とはいえないだろう。どのプロセスでどうコストが発生し、コスト削減をどのように行うか。
もちろん、高級フルーツは人間の手でピッキングする必要があるだろう。だが、それ以外の果実や野菜、とくに加工用原料としては、ピッキング作業や詰め込み作業も徹底的に機械化すべきだろう。その側面についてイスラエルではどう取り組んでいるのだろうか?
イスラエルは物理学者で、全体最適による利益最大化を目的とした「TOC理論」(TOC:Theory of Constraints 制約理論)を体系化したエリヤフ・ゴールドラット博士を生み出した国であることを想起すべきだろう。逆境を逆手にとるマインドセット。サバイバルが至上命題のイスラエルらしい発想だ。
農業においても、「規模の経済」だけがコスト削減策ではない。要素ごとのコスト削減も視野に入れなくてならない。
そんな「イスラエル農業のすべて」についての解説本がほしいところだ。
目 次はじめに 迫り来る危機第1章 日本に迫りつつある危機第2章 すべてを解決する新しい農業の形第3章 最先端ICT農業とは ― イスラエル式農業1 イスラエルの厳しい条件2 イスラエル農業を支える根幹 ― ドリップ潅漑3 なぜ日本にもドリップ灌漑が必要なのか。その① 収量の増加4 なぜ日本にもドリップ灌漑が必要なのか。その② 未来の農業のために5 「土つくり」よりも大事なこと6 イスラエル農業の特徴。飽くなき収量の追求7 IoTクラウド農業の時代8 ビジネスとして必要な経営規模9 研究機関と農家の密な連携第4章 イスラエル式農業の日本への応用実験1 ドリップ潅漑による露地ピーマン栽培、その意義2 ピーマン栽培実験の結果3 ドリップ灌漑による露地トウモロコシ栽培第5章 近未来の農業の形1 変わらざるを得ない農業の形2 AI農業の姿とは3 遺伝子組み換え作物と近未来の農業4 ナノテクノロジーの導入おわりに参考文献
著者プロフィール竹下正哲(たけした・まさのり)拓殖大学国際学部教授。北海道大学農学部、北海道大学大学院農学研究科で学ぶ。博士(農学)。大学院在学中に小説で第15回太宰治賞受賞。民間シンクタンク、環境防災NPO、日本福祉大学などを経て、拓殖大学国際学部へ。日本唯一の「文系の農業」として知られる国際学部農業コースの立ち上げに尽力し、栽培の実践を重視した指導を行っている。かつて青年海外協力隊でアフリカに行ったことをきっかけに、世界中のフィールドを回り、海外の農業現場に精通している。2015年に初めてイスラエルを訪問し、衝撃を受けた。主なフィールドはイスラエルとネパール。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
<関連サイト>
イスラエルの農林水産業概況(日本の農林水産省のサイト PDFファイル)
・・タイ人労働者7,000人が去ったあと、イスラエル南部(ガザ地区に近い)の農場では、大学生がボランティアとして駆り出されて農作業をおこなっている。
(収穫されずに放置されているトマト 2023年11月25日放送の aljazzeera番組より)
イスラエルの農作業は、パレスチナ人や外国人ワーカーに支えられていたが、パレスチナ人の入国中止と外国人ワーカーの国外退避で、収穫もままならず大きな損失がでている。
(2023年11月13日、28日、12月9日 情報追加)
<ブログ内関連記事>
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