2024年2月20日火曜日

書評『南方熊楠と猫とイスラーム』(嶋本隆光、京都大学学術出版会、2023)ー タイトルはキャッチーな三題噺だが、内容はいたって堅実な「ロンドン時代の南方熊楠の学問方法」にかんする実証研究

 

 今年(2024年)に入ってからのことだが、リアル書店でブラブラ回遊していたとき、平台に積まれていた文字とカバーが目に飛び込んできた。 


「南方熊楠と猫」はわかる。南方熊楠がネコ好きだったことは、水木しげるの『猫楠』というマンガになっているくらいだから、わたしもよく知っている。 


 

だが、そこに「イスラーム」が入ってくると話は別だ。「猫とイスラーム」、「南方熊楠とイスラーム」が、はたしてどうつながってくるのか。

 「南方熊楠と猫とイスラーム」とは、じつにキャッチーな三題噺だな。手にとって奥付をみたら、昨年12月末にでたばかりの本だ。これは買わねばなるまいな、と。 

ここのところ南方熊楠関連本を読んでいたのは、じつは南方熊楠では最新刊のこの本を読む前に、読まずのままの積ん読本を片付けておく必要があるなと思ったからだ。 

内容は、「虚像」が肥大化している南方熊楠の「神話解体」もののひとつと考えていいだろう。 「熊楠論」ではなく「熊楠研究」である。

具体的には、1892年から1900年までの、あしかけ9年におよぶロンドン時代の南方熊楠の学問形成と、その学問方法論を英文論考と熊楠が依拠した資料に基づいて、実証的に検証したものだ。

一般書としても読めるが、基本的に学術書である。「目次」は以下のとおり。 


はじめに 本書の概要 
第1章 南方熊楠が語る自らの生涯と19世紀のイギリス 
第2章 南方熊楠と猫とイスラーム 
第3章 南方熊楠と比較宗教学 ― 在英期間初期までに読んだ文献 
第4章 ウィリアムズと『仏教講論』 ― 熊楠と仏教およびキリスト教 
第5章 熊楠と帰納法 ― ミルとベインから学んだこと、その学問の方法と「燕石考」 
第6章 熊楠の研究方法と後代の評価 
 1 評価の試み ― 鶴見和子 
 2 評価の試み ― 中沢新一 
 3 評価の試み ― 井筒俊彦 
 4 まとめ 
おわりに 
参考文献一覧/図版掲載一覧/南方熊楠関連年表 索引(人名/事項) 


なんといっても、いちばん関心があって最初に読んだのは、「第6章 熊楠の研究方法と後代の評価」である。 

わたし自身、南方熊楠に開眼したのは、1980年代前半の大学学部時代に読んだ鶴見和子の『南方熊楠ー地球志向の比較学』だが、著者もまたおなじ経験をもっているのがうれしい。

とはいえ、2020年代の時点から読み返すと、いろいろ欠点が目に付くと著者は述べている。たしかにそうだなと納得する。  

中沢新一の熊楠論である『森のバロック』にかんしては、発想は面白いが実証をまったく欠いていること、「中沢の作業はフィクションであって、学問的記述とはいい難い面がある」と結論づけている。わたしもそう思っている。中沢氏の本はみなそうだ。そういっても言い過ぎではない。 

このように、著者の態度はあくまでも学問研究の対象として南方熊楠を考えるというものだ。「熊楠論」ではなく「熊楠研究」だというのは、そういうことだ。 



■南方熊楠の学問の方法論とその限界が明らかになる

大英帝国の全盛期のロンドンには、地球規模に展開されていた植民地からもたらされた知識や情報が集積していた。

そんなロンドンの「大英博物館」(British Museum)で南方熊楠が読破したイスラーム世界関連の資料の性格と、その限界が著者によって明らかになる。 

本書のタイトルにもなっている「第2章 南方熊楠と猫とイスラーム」において、熊楠が執筆した論文「猫一疋の力に憑つて大富となりし人の話」(1911年)について、以下のことが指摘されている。

南方熊楠が直接参照しているのが、イスラーム地域を旅した西欧人の旅行記でしかもその大半が英語によるものであること。本人が直接イスラーム地域をフィールドしていないので、あくまでも二次情報に過ぎない。このため、バイアスがあることが指摘されている。

イスラーム世界ではイヌは嫌われているが、ネコが好かれているのはあくまでもイヌとの比較論でのことであること。とくべつネコが好かれているというわけではないのだというのが、著者が独自に調べた結論だ。なるほど。 

「第3章 南方熊楠と比較宗教学 ― 在英期間初期までに読んだ文献」、「第4章 ウィリアムズと『仏教講論』 ― 熊楠と仏教およびキリスト教」では、少なくともロンドン滞在中までの熊楠は仏教についてはそれほど熟知しておらず、本格的に仏書に取り組んだのは帰国後のことであることが示されている。

ただし、当時主流であったハーバート・スペンサーなどの思想家たちや、西洋の M.M. ウィリアムズやマックス・ミュラーなどの仏教学者や比較宗教学者たちの言説を踏まえて見えてくるものが興味深い。

また、「第5章 熊楠と帰納法 ― ミルとベインから学んだこと、その学問の方法と「燕石考」においては、熊楠が「イギリス経験主義」の産物である「帰納法」を十分に理解して使いこなしていたことがわかる。基本的に生物学者であり、自然科学の態度で研究を行っていた熊楠である以上、当然といえば当然であろう。

とはいえ、本書で取り上げられたのは、あくまでも「民俗学」にかんするものであって、森羅万象に関心を抱いていた南方熊楠の学問のほんの一部である。その意味では、きわめて禁欲的だといっていい。学問研究である以上、当然といえば当然だが。 

著者が南方熊楠に取り組むことにしたのは、和歌山に移住して30年ということもあるという。本書は、その南方熊楠を、著者本来の研究テーマである「イスラーム」との接点から検証する作業であった。 

イスラーム世界、とくにイランのシーア派とイスラーム神秘主義研究をテーマとしてきた1953年生まれの研究者による、「一学究の徒としての自身の人生を反省する最後の意義ある作文」(おわりに)である。といものの、機会があれば、ぜひ熊楠関連で続編をお願いしたい。 

著者本来の専門である、『シーア派イスラーム ー 神話と歴史』『イラン革命の精神』などイラン関係の本は積ん読状態なので、いずれ機会をみつけて読まなくてはと思っているのだが・・・ 
 

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著者プロフィール
嶋本隆光(しまもと・たかみつ) 
1951年生まれ。大阪外国語大学ペルシア語学科卒業。UCLA 歴史学科大学院修了。元大阪大学教授。現在,大阪女学院大学非常勤講師。専門はイスラーム現代思想で,イスラームのシーア派に関する日本でも有数の研究者である。主な著訳書に、『シーア派イスラーム 神話と歴史』(京都大学学術出版会)、 『イスラーム革命の精神』(同左) 、『イスラームの神秘主義 ― ハーフェズの智慧』(同左) 、『人々のイスラーム―その学際的研究』(共著,日本放送出版協会) 、『岩波講座 世界歴史21 イスラーム世界とアフリカ』(共著,岩波書店)、 『イスラームを学ぶ人のために』(共著,世界思想社) 『イスラームの商法と婚姻法』(翻訳、大阪外国語大学学術研究叢書) 、『イスラームの祭り』(監訳、法政大学出版局) 。その他、イランのイスラームに関する論文多数。(出版元の書籍サイトから)



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