女子英学塾(現在の津田塾大学)の創設者であるがゆえに、「津田梅子といえば英語」という連想が固定化しているのではないだろうか?
ところが、津田梅子は、英米の自然科学系の学術雑誌に論文が掲載された初の日本人女性である。専攻したのは生物学であり、そのなかでも実験発生学であった。
カエルの卵が分割されるプロセスで胚が形成される状況について、指導教官と連名で学術雑誌に共著論文が掲載されている。1894年(明治27年)のことだ。
つまり、津田梅子は生物学に造詣の深い自然科学の素養も備えた人物だったのである。そのことを詳細に跡づけたのが、2022年に出版された『津田梅子 科学への道、大学への夢』(古川安、東京大学出版会)という本だ。科学史家の立場からみた研究書である。
明治の初期に米国に派遣された5人の女子留学生のうち、ホームシックのため帰国した2人を除いた津田梅子と山川捨松、そして永井繁子の3人だが、6歳で渡米し18歳まで滞在していた梅子が、自分だけが大学を卒業してないことにハンディキャップを感じていたらしい。
このため、23歳になった1889年(明治22年)に2度目の留学を実現し、東海岸はフィラデルフィア近郊のブリンマー大学(Bryn Mawr College)という、当時は新設の女子大のリベラルアーツカレッジで生物学を専攻したのである。
指導教官からも将来を嘱望されていたというが、梅子は生物学の道を断念して未練を断ち切り、日本に帰国して女子教育に生涯を捧げる決意を固める。そして、女子英学塾の設立と至るわけである。
どうしても、わずか6歳での渡米ということが話題を引くこともあって、第1回目のアメリカ留学がクローズアップされがちだ。
だが、なぜ第2回目のアメリカ留学を志したのか、そしてそこでなにを得たのか、このことについて考えることは、日本(女性)教育史だけでなく、日本近代(女性)史においても、重要事項と捉えるべきであろう。
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目 次プロローグ第1章 アメリカに渡った少女第2章 ブリンマー大学と生物学第3章 生物学者への道第4章 英学塾の裏側で第5章 塾から大学へエピローグ謝辞 ー あとがきに代えて文献一覧アメリカ東部関連地図人名索引/事項索引
著者プロフィール古川安(ふるかわ・やす)1948年静岡県に生まれ、神奈川県で育つ。1971年東京工業大学工学部卒業。同年帝人株式会社。1983年米国オクラホマ大学大学院Ph.D.(科学史)取得。1985年横浜商科大学商学部助教授。1991年東京電機大学工学部教授。2004年日本大学生物資源科学部教授などを経て現在、総合研究大学院大学客員研究員。科学史家、化学史学会前会長、英国化学史学会モリス賞受賞。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
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