(『津田仙評伝』に掲載の口絵より)
津田仙(つだ・せん)という人物がいる。津田塾大学創設者の津田梅子の父親だ。
一般的な知名度は低い。だが、この父あってこその娘というべきであろう。その生涯を知れば、そう思わずにはいられない。
津田梅子の人生を一言で要約してしまえば、「英語・アメリカ・キリスト教」と表現できる。その父である津田仙もまた「英語・アメリカ・キリスト教」の人であった。
同志社の創設者であった新島襄とは親しくつきあい、『西国立志編』の翻訳で有名な中村敬宇とあわせて、「キリスト教界の三傑」とよばれていたらしい。プロテスタントのメソジストの洗礼を受けていた津田仙は、青山学院の創設者のひとりとされている。禁酒運動を主導したのも津田仙であった。
津田仙(1837~1908)は、佐倉藩士の三男として佐倉城下に生まれている。幕末に生きた文武両道の津田仙は、佐倉藩士としてペリー来航後の江戸湾の警備につき、西洋砲術から洋学に開眼している。
三男では家督を継げないので、遊学先の江戸で養子に入って下級の幕臣となる。そして、蘭学から英学へと向かう。学習がきわめて困難であった時代に英語を身につけ、英語で身を立てた最初期の人物である。幕臣として外国方の通弁として活躍している。
初の渡米は1867年(慶応3年)、数え31歳のときで、同行者には福澤諭吉もいた。戊辰戦争では、新潟に赴任していたが、新政府軍との銃撃戦のすえ捕虜になったが脱走するなど、なかなか波瀾万丈な前半生である。
明治時代になってからは、「農業近代化」の観点から北海道開拓使の顧問となっているが、その後は官途につくことなく、あくまでも民間の農業関連雑誌の発行者と教育者として生涯を送っている。福澤諭吉と同様に、官尊民卑打破という信念は生涯変わらなかった。
森有礼(もり・ありのり)や福澤諭吉、西周(にし・あまね)や中村敬宇といった有名人の影に隠れているが、いわゆる「明六社」の同人で、実践を旨とした啓蒙思想家であった。生涯にわたって、なんども渡米や渡欧を繰り返した国際人でもあった。
先進的なアメリカ農業に学び、日本の「農業近代化」に尽くした津田仙の存在は、もっと知られていい。山梨県のブドウ栽培とワイン醸造の発展に貢献したのも津田仙である。
津田仙没後100年を記念して出版された『津田仙評伝 もう一つの近代化をめざした人』(高崎宗司、草風館、2008)は、現時点でもっとも詳細に津田仙の生涯を跡づけたものだ。著者は近代の日朝関係史の専門家である。
この本を読んで津田仙の生涯と交友関係を追っていくと、津田仙なくして津田梅子なし、と思わないわけにはいかない。
北海道開拓の関係で黒田清隆と交流があったからこそ、6歳の娘を米国留学に出したわけだが、梅子と仙はたんなる親子というよりも、「英語・アメリカ・キリスト教」という生き方において相似形であることがわかるのである。これには「生物学」志向も加えていいかもしれない。
梅子による女子英学塾立ち上げにも、父親の人脈が活かされている。もちろん「英語・アメリカ・キリスト教」人脈である。
次女の梅子は江戸で生まれているが、元佐倉藩士であった父の娘であり、千葉県との知られざる縁があるのである。
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目 次はじめに第1章 洋学第2章 農業の近代化第3章 地方の開発第4章 キリスト教界の三傑第5章 教育への献身第6章 朝鮮人との交わり第7章 健康・環境問題への関心第8章 晩年あとがき津田仙関係資料・参考文献目録津田仙著作目録津田仙略年譜
著者プロフィール高崎宗司(たかさき・そうじ)1944年茨城県水戸市に生まれる。東京教育大学卒業。2013年まで津田塾大学国際関係学科教授。日本近代史・朝鮮近代史を専攻。著書は『朝鮮の土となった日本人ー浅川巧の生涯』(草風館)など多数。
PS 『黙移 相馬黒光自伝』より津田仙について
『黙移 相馬黒光自伝』は、新宿中村屋の創業者夫妻のうち、妻にあたる相馬黒光による聞き書きの自伝である。初版は1936年、平凡社ライブラリーから1999年に再刊されている。
「明治女学校」と題した文章に、津田仙が言及されている箇所があるので引用しておこう。
津田梅子さんの厳父津田仙さん(・・・中略・・・)。この津田仙という人は、明治の初頭における最も進歩的な基督教信者として、精神的また実際的に日本の文化発展を大いに助けた功労者の一人であります。即ち学農社を起こし、麻布古川端の両岸、三ノ橋附近に広大な地を開いて、農事試験所を設け、米国から花や野菜や果樹の苗をとりよせて栽培し、当時における最新式農場の範を成したもので、学農社から『農学雑誌』という月刊雑誌を発行し、また禁酒会の会頭で、禁酒演説をして歩くなど、大いにめざましいものがありました。明治女学校の巌本(善治)先生も、はじめはこの津田仙氏に随い、学農社にいて事業を輔けるうちに、その新人的才能を磨かれたもので、ある意味において、明治女学校の世にあらわれた機縁も、またその廃墟に趣いた裏面の事情にも、遠くさかのぼれば、この学農社の表裏さまざまの雰囲気に胚胎するところがあるとの評もあります。(P.91)
(2024年7月13日 情報追加)
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