2010年10月25日月曜日

書評『バンコク燃ゆ-タックシンと「タイ式」民主主義-』(柴田直治、めこん、2010)-「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方




クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方

 ほとんど内戦状態に陥ったといってもよい、2010年4月から5月にかけての「バンコク騒乱」。バンコク市内中心部に籠城する赤服組と治安部隊との激しい銃撃戦、放火されて焼け落ちた中心街の百貨店は、新聞情報やインターネット情報、YouTube映像で見る限り、きわめて激しいものであった。

 本書は、この「バンコク騒乱」に至るまでの、ここ数年のタイ王国の政治状況を、アジア総局長として2005年9月から2009年8月までバンコクに駐在していた朝日新聞記者がまとめたものである。

 タイトルは 『バンコ燃ゆ』 となっているが、2010年4月の「バンコク騒乱」そのものの記述は、全16章のうちたった1章をあてているに過ぎない。著者自身が帰国後に起こった事件ということもあろうか、新聞記者としては現場にいなかったということは致命的なことなのかもしれない。

 むしろ、副題の「タックシンと「タイ式」民主主義」が、本書の主要テーマであるといえる。ここ数年間のタイ政治は、タックシンという、いい意味でも悪い意味でも、タイの政治史上でもまれに見る個性的で強力な指導者をめぐって展開してきた。

 2006年9月のタックシン首相(当時)のクーデタによる追放と、その後の不安定な政治状況について扱った本書は、「バンコク騒乱」に至るまでの政治状況を時系列で淡々と整理しながら、ときおり著者自身のコメントを交えながら記述しており、タイの国内政治の背景を知るためには不可欠の情報になっている。ただし、少し細かすぎるのではないかという感想もあるかもしれない。ただし索引が完備しているのでレファレンスとしては役に立つだろう。

 本書の特色は、なんといっても、海外追放中のタックシンとの単独インタビューを逃亡先のドバイのホテルで行ったことだ。タックシン自らの見解が正しいかどうかはさておき、肉声を直接確かめて随所に引用していることは、本書の内容に厚みを増している。著者はこのために、タイではタックシン寄りと誤解されて苦労したと本書のなかで漏らしている。

 「タイ式」民主主義とは、西欧や日本の民主主義とはやや異なる、タイならではの政治的安定装置のことを意味する表現であるが、1992年以来、もはやあるまいと思われていた15年ぶりのクーデタによって、アジアの「民主主義」優等生としてのタイのイメージは完全に崩れ去った。と同時に、クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義が、もはや機能不全状態にあることも明らかになったのである。

 おそらく著者はこの本を執筆するにあたって、相当量の情報を捨てたものと推察されるが、それでも、タイの政治を扱った本なかでは例外的に、かなりきわどい側面にまで踏み込んで記述している。

 このため、著者の個人的見解にすべて賛成する必要はないが、事実関係と著者の解釈を区分して読むことさえできれば、タイ王国の今後を考えるうで、読む価値のある一冊になっているといってよいだろう。


<初出情報>

■bk1書評「クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方」投稿掲載(2010年10月2日)
■amazon書評「クーデタが実質的な政権交代であった「タイ式」民主主義の機能不全と今後の行方」投稿掲載(2010年10月2日)

*再録にあたって、一部の字句の修正を行った。




目 次

まえがき
第1章 異形の政治家タックシンとその時代
第2章 二一世紀のクーデター
第3章 軍の盛衰
第4章 新憲法制定から総選挙へ
第5章 黄色い王党派・PAD
第6章 サマック政権の崩壊
第7章 三度目の10月の流血
第8章 空港占拠とタックシン派政権の崩壊
第9章 王党派最後の砦、裁判所
第10章 PADに偏るメディア
第11章 流血のソンクラーン
第12章 プレームとタックシン
第13章 首都燃ゆ
第14章 地域対立と階級闘争
第15章 王国覆う不安
第16章 タイとアジアの民主主義
あとがき
関連年表・タイと近隣諸国
参考文献
索引

著者プロフィール

柴田直治(しばた・なおじ)

1955年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。1979年朝日新聞社入社。徳島支局、神戸支局から大阪社会部員、マニラ支局長(1994年~1996年)、大阪社会部、東京社会部デスク、論説委員、神戸総局長、外報部長代理を経てバンコクにてアジア総局長(2005年~2009年)。現在、特別報道センター長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに加筆)



<書評への付記>

 先週の後半、「バンコク騒乱」から半年後に初めてバンコクに行ってきた。

 「騒乱」終結後に放火され延焼した ISETAN は再オープンし、全焼した隣接する ZEN は現在立て直し中。骨組みは作り終わったという状態で、これを機に増床して再出発するという。


 MRT(地下鉄)やBTS(高架鉄道)の駅では、あれから半年たった現時点でも、迷彩服を着てライフル銃を肩にかけた陸軍兵士が二人組みで警戒にあたっている。あまり感じがよくないが、「反日デモ」に荒れる中国より危険度は低いだろう。


 私自身は、2009年4月までビジネスマンとしてバンコクに滞在していたので、本書の著者の滞在と重なる期間もあり、この間に現地で見聞きしていた情報を再確認しながら読んでいたが、新聞記者とビジネスマンとでは、現地にいて同じ情報を見ていながらも、大筋としては同じだが、情報の解釈には若干相違があるものだなと感じながら読んだ

 「バンコク騒乱」は、タイ人も比較的慣れているクーデタの比ではなかったのだ。タイ人にとっても、そうとう精神的に大きなダメージになったようだ。しかし、「騒乱」直後の清掃ボランティアや社会再建にむけての自主的なグループ活動の開始など、明るい面も多い。

 もちろん半年たった現在は、そんなことがあったこともとうの昔の出来事であるかのように、完全に平常生活に戻っている。

 本書で興味深く思ったのは、著者自らが日本の新聞に日本語で執筆した記事の内容が、英訳を介してタイ国内にフィードバックして思わぬ波紋を引き起こした状況について語っている箇所だ。こういうシーンが何度もでてくる。情報のウラを取らずに報道する傾向の強い、タイのメディアの状況の問題点である。ただし、これは外国メディアの報道に盲従というよりも、自陣営に有利になるように外国報道を利用しているタイ人のしたたかさという面もある。

 本書で展開している、第14章「地域対立と階級闘争」という捉え方は正しくない。正確には「地域対立と身分闘争」というべきだろう。地方=低い「身分」、として扱われているのがタイの本質。なんせ、奴隷解放は米国より遅かったというタイである。また東北地方や北部はラオス系であり、民族も厳密にいうと同一ではない。階級と身分を区分して考えないのは、著者は早稲田出身のくせに社会科学的ではない。

 些末な点かもしれないが、本書ではソンティー・リムクントーンの出自が潮州系となっているがこれは間違い。海南系である。本書には言及がないが、アピシット首相は、奇しくもタックシンと同じく客家(ハッカ)系だ。

 こういった華人系の出自についての理解不足は、タイの政治経済を見るうえで問題となる。なぜなら、今後ますます中国の影響力が増して行くであろうタイにおいては、これら華人系政治家や華人系経済人の動向は注意して観察する必要があるからだ。

 いや政治家や経済人は、ほとんどすべてが、血の濃度に違いはあれ、華人系であるといっても言い過ぎではない。

 本書は政治について書いているが、政治が不安定なこの期間も、「リーマンショック」の打撃を受けた一時期を除き、経済は輸出を中心にきわめて好調である。この面にほとんど触れていない本書は、やや一面的な感を受けないでもない。

 かつて日本は「経済は一流、政治は二流」と揶揄されてきたが、現在のタイはある意味では似たような状況であるともいえなくはないからだ。
 政治と経済は分離可能であり、しかしながら不可分の関係にある。

 首都のあるバンコクとそれ以外はまったく違うのである。この点は協調しておかねばならない。




<関連サイト>

21 Guns - Green Day (made for Thailand) 
・・「騒乱」直後、バンコク在住のタイ人の友人が教えてくれた。タイ人のココロを捉えている動画。再生回数22万回以上。


<ブログ内関連記事>

「タイ・フェスティバル2010」 が開催された東京 と「封鎖エリア」で市街戦がつづく騒乱のバンコク・・2010年5月

「バンコク騒乱」について-アジアビジネスにおける「クライシス・マネジメント」(危機管理)の重要性

書評 『村から工場へ-東南アジア女性の近代化経験-』(平井京之介、NTT出版、2011)-タイ北部の工業団地でのフィールドワークの記録が面白い ・・大都市はすでに「後近代」だが、タイでも農村部では現在も「近代化」が進行中

書評 『赤 vs 黄-タイのアイデンティティ・クライシス-』(ニック・ノスティック、めこん、2012)-分断されたタイの政治状況の臨場感ある現場取材記録 ・・「黄色」=バンコク大都市部の支配層と都市中間層(前近代+後近代)と、「赤色」=東北部と北部の農民層(前近代+近代化まっただなか)の対立が反映されていると考えることも可能

「バンコク騒乱」から1周年(2011年5月19日)-書評 『イサーン-目撃したバンコク解放区-』(三留理男、毎日新聞社、2010)

書評 『タイ-中進国の模索-』(末廣 昭、岩波新書、2009)
・・関連書もふくめて、ややくわしくタイの政治経済に言及


タイのあれこれ 総目次 (1)~(26)+番外編

来日中のタクシン元首相の講演会(2011年8月23日)に参加してきた
                  
(2014年1月22日、2014年2月1日 情報追加と関連記事再編集)





(2012年7月3日発売の拙著です)








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