2011年12月31日土曜日
「アタマの引き出しは生きるチカラ」だ!-多事多難な2011年を振り返り「引き出し」の意味について考える
今年2011年は、ほんとうに文字通り多事多難な激動の一年でした。
干支のうさぎが跳ねすぎたのでしょうか。
「3-11」に発生した大地震と大津波、そして原発事故に感じたこと考えたことから、「アタマの引き出し」の重要性について、あらためてまとめてみました。
■有事にこそ「アタマの引き出し」が生きるチカラであることが実感される
コンピュータでもインターネットのなかでもない、生身のカラダをもった人間のアタマのなかに存在する「アタマの引き出し」。
情報であり、知識であり、そして知恵でもある「アタマの引き出し」。
情報や知識は本に書いてあるじゃないかといっても、大地震で本棚が倒壊して本を取り出すことができなければ、その知識が死蔵されているのも同然です。
インターネットで調べればいいいという方もいるでしょう。「記憶はもはや必要ない」と豪語する Evernote にストーレージしているから大丈夫だという方もいるでしょう。
でもどうでしたか? 電気がつながらない状態では、スマートフォンもコンピュータも起動できませんよね。
たとえバッテリーがあっても、切れてしまえばおしまいですです。たとえ、自家発電があっても、発電機を回す燃料がなければ何にもなりません。
結局のところ、有事にモノをいうのは「アタマの引き出し」なのです。生身の人間のアタマのなかに存在する「引き出し」がモノを言うのです。
たとえ何がおころうと、モノを失ってしまおうと、電気がつながらなくて PCが起動できなくても、自分の「アタマの引き出し」に中身が詰まっていれば人間は生き抜くことができる。
そして重要なのは自分のアタマのなかにある「引き出し」だけでなく、自分以外の人のアタマのなかにある「引き出し」なのです。生身の人間どうしの「つながり」がまた大事なのです。
自分の「アタマの引き出し」と自分以外の「アタマの引き出し」が一緒になってシェアしあい、それがシナジーを発揮して「集合知」となる。これはネット上でなくてもリアル世界で可能です。
「3-11」後にこそ、「アタマの引き出し」が重要なことが理解できたのではないでしょうか?
■「アタマの引き出しは生きるチカラだ」-ユダヤ人は突然発生する大規模の迫害の歴史を生きぬいてきた
「アタマの引き出し」の重要性。これはユダヤ人がその苦難の歴史のなかで体感し、世代を超えて伝えてきたことでもあるのです。
度重なる迫害のなか、ユダヤ人は生命も財産も失ってきました。
20世紀のナチスドイツによるホロコーストだけではありません、19世紀のロシアのポグロム、そして15世紀末のスペインからの追放、紀元後のエルサレムの神殿の破壊・・・。まさに有史以来、迫害につぐ迫害のなかを生きぬいてきた民族です。
現在はようやく父祖の地であるイスラエルに戻ることができましたが、二千年の長きにわたってディアスポーラ(=離散)の生活を送ってきた民族です。
しかし、「経典の民」であるユダヤ人は、迫害されても大文字ではじまる "The Book" (=聖書) だけは持ち運びだしました。これが生きるためにもっとも大事な財産だからなのです。
しかし、それさえできなかったときのために、彼らはどうしていたのか?
そうです、すべてをアタマのなかに記憶して持ち運んだのです。まさに究極のポータブル・ナレッジ、まさに文字通りのノマド(=遊牧)ライフですね。
すべてを失ったかにみえた災難であっても、アタマをさしながら 「ここにすべてがある!」 とクチにすることができるのです。
このブログに以前に書きましたが、世界的な哲学者でイスラーム学者の井筒俊彦が回想するタタールの大知識人の話もまったく同じです。書籍管理の"3R" をご参照ください。
「記録」だけではなく、「記憶」することの重要性をあらためて考える機会となるでしょう。
■「アタマの引き出しは生きるチカラだ」-日本人もまた、大地震や大津波などの突然発生する自然災害を生きぬいてきた。
そして、日本人もまた有史以来、突然発生する無数の自然災害を生きぬいてきた民族です。
「3-11」でも、大津波だけではなく原発事故のため、福島からは「難民」が発生しています。ある意味では、フクシマ・ディアスポーラとすら言えるかもしれません。
でも、それ以外も地震、台風、火事、火山爆発などの自然災害や空襲や原爆などの人為的被害で、多くの人たちが家を失い、家族を失い、移住を余儀なくされてきたことも忘れてはいけないでしょう。
「3-11」では、わたし自身は被災することはなかったのですが、それでも計画停電(=輪番停電)によって電気のありがたさをあらためて感じるとともに、「本やインターネットにすべてがある」などという考えは捨てる必要があるのではないかと痛感しました。
そんな非常時にこそ、自分の「アタマの引き出し」と、自分以外の誰かの「アタマの引き出し」を、フェース・トゥー・フェイスの「つながり」のなかでシェアしあう。
これが生きるために必要なのだ、と。駆動するのに電気を必要としない生身の人間のアタマのなかにある「引き出し」。
まさに「アタマの引き出しは生きるチカラ」なのだ、と。
そもそもイヌやネコはコトバも文字も知らないのに、学習成果を活かしているではないですか! イヌやネコは画像情報として「引き出し」をもっているのです。「アタマの引き出しは生きるチカラ」なのです。
限られた時間内に、限られた情報をもとに意志決定を行わなければならないとい、そのときにモノを言うのは「アタマの引き出し」そのものでしょう。そしてそのキャパシティの大きさによって、個人や集団だけでなく、民族全体の命運が決することさえあるのです。
「アタマの引き出し」は生きるチカラだ、というブログのタイトルは、今回の「3-11」の前につけたものですが、有事にこそ「アタマの引き出し」は生きるチカラだということが身にしみてわかるのです。
これは日本人の歴史をもても、ユダヤ人の歴史をみても納得のいく話だと思います。
そして非常時の記憶こそ、深くココロとアタマのなかに刻みつけられるものなのです。エピソード記憶こそが、「アタマの引き出し」そのものなのですから。
エピソード記憶については、「場所の記憶」-特定の場所や特定の時間と結びついた自分史としての「エピソード記憶」について というブログ記事をご参照ください。
■非常時にこそ致命的な意味をもつ「アタマの引き出し」
「3-11」後の危機対応をみていてつよく思ったのは、国のトップの「アタマの引き出し」が足りないばかりに、適切な策がとられなかったという怒りと悔しさです。
日本中からかき集めれば、どんな対策だって集められるのに、たとえ進言があっても自分のアタマのなかに「引き出し」がないから、ピンとこない、意味がわからない、結局はただしい判断や意志決定がくだされないまま、多くの人命が失われ、財産が思い出が失われてしまいました。
まさに致命的としかいいようがありません。未然に防げた二次災害は、いったいどの規模になるのか・・・
自分のアタマのなかに「引き出し」がなければ、他者の「アタマの引き出し」を活用することもできないのです。本やインターネットに情報や知識があふれていても、肝心なときにアタマが回らないのでは、意味がないのです。
非常時には、書斎で安楽椅子に腰掛けてじっくり調べ物なんかしているヒマはないのです。パソコンを立ち上げているヒマもない、電話回線だってつながらないことだって多いのです。
そんなとき頼りになるのは、まさに「アタマのなかの引き出し」です。
知識のなかには、「ノウハウ」だけでなく、その知識を誰がもっともよく熟知しているかという「ノウフー」も含まれます。国のトップだけではなく、国民一般についてもそのとおりですね。
1973年の石油ショックの際のトイレットペーパー買い占めでパニックになったときの話、アマルティヤ・セン博士のベンガル飢饉の話などを知っていれば、浮き足立つこともないのです。この件については、大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・をご参照ください。
「想定外」というのは、結局のところ、スパンを短くとっているから過去事例がないだけの話なのです。10年スパンと100年スパン、1,000年となると、過去事例がでてくるから「想定外」などとは言えなくなるのです。
歴史は同じまま繰り返すことはありませんが、過去の事実が本やインターネットのなかだけでなく、自分の「アタマの引き出し」のなかにあれば、危機に際してもあわてふためくこともなく、確実に生き残ることにつながるのです。
そのためには平時に、「アタマの引き出し」を少しでも増やす努力を続けること。
J.S.ミルのコトバだと言われている "try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと が大事です。狭くて深い「専門」と 浅くても広い「雑学」。
自分の専門分野についてはつねに努力して勉強しつづけることは当たり前ですが、「雑学」もこれにおとらず重要ですね。
これは、かつて「銀座のユダヤ人」といわれていたカリスマ経営者・藤田田(ふじた・でん)の著書を紹介しながら、世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる で書いたとおりです。
「すべては失っても、ここにすべてがある!」 と、アタマをさしながら クチにしたいものではありませんか!
<ブログ内関連記事>
世の中には「雑学」なんて存在しない!-「雑学」の重要性について逆説的に考えてみる
"try to know something about everything, everything about something" に学ぶべきこと
書籍管理の"3R"
本の紹介 『ユダヤ感覚を盗め!-世界の中で、どう生き残るか-』(ハルペン・ジャック、徳間書店、1987)
「場所の記憶」-特定の場所や特定の時間と結びついた自分史としての「エピソード記憶」について
大飢饉はなぜ発生するのか?-「人間の安全保障」論を展開するアマルティヤ・セン博士はその理由を・・・
(2012年7月3日発売の拙著です)
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