■ロシア革命後のシベリアで起こった「尼港事件」を題材に描いた経済フィクション
「尼港事件」といっても、おそらく日本人に大半にはピンとこないだろう。
尼港と書いて「にこう」と読むが、正確にいうとニコラエフスク・ナ・アムーレとなる。ロシア語で、アムール川沿岸のニコラエフスクという意味となる地名のことだ。
「尼港事件」とは、ニコラエスク・ナ・アムーレで日本人居留民と日本守備隊が全滅した事件のことだ。1919年(大正8年)年5月、ロシア革命の干渉戦争である「シベリア出兵」さなかに発生した悲劇のことである。
「シベリア出兵」は、日本近代史において「忘れられた戦争」となってしまっているのは、米国にとってのベトナム戦争やソ連にとってのアフガン戦争のように、得るもののない無益な戦争であったため、意図的に忘却された側面が強いためであろう。
「ロシア革命」は 1917年、第一次世界大戦のさなかであった。
日露戦争でロシア帝国を破った日本であったが、日露戦争後はロシアとは協調の方向で外交政策を進めていた。共産主義革命であったロシア革命に対しては、日本だけでなく米国もふくめた列強が干渉戦争を行うことになる。
そのなかでも地理的に近い日本が、ずば抜けて多い兵力を投入した干渉戦争に乗り出した。これを「シベリア出兵」という。
■ピコラエヴィッチとは、ニコラエフスクで成功した起業家が発行した実質的な通貨
アムール川河口に立地するニコラエフスクに日本人が住み着くようになったのは、この小説にもあるように島田元二郎という起業家がそこにビジネスチャンスを見いだし、成功したからである。
そこが、鮭(サケ)と鱒(マス)漁で賑わっただけでなく、砂金などの鉱物資源も採集された集散地であったからだ。
ロシア革命の混乱のなか、ニコラエフスクで流通していたのはロシア政府の発行するルーブル札ではなく、島田元二郎の島田商会が発行していた通称ピコラエヴィッチという紙幣であった。
より正確にいうと、紙幣というよりも、商品との交換を前提にした商品券や小切手のようなものだったが、信用力のある実質的な通貨として流通し、地域経済を支えていたのであった。
ある意味では、このローカル・カレンシー(=地域通貨)は、競争力をもった実質的な通貨であったというわけだ。
通貨発行は究極の国家主権といわれるように、通貨発行の主体は、その通貨が支配的に流通する経済を牛耳ることができる。牛耳るつもりはなくても、自らのビジネスを好循環させるための有効なツールであったことはいうまでもないだろう。
中国共産党が最終的に制圧して人民元を流通させるのに成功するまで、中国大陸では日本の軍票も含めて、各種の通貨が入り乱れていたことは比較的よく知られていることだが、ロシア革命で混乱するシベリアでもそうだったことが、この小説で知ることができるのである。
通貨を制するものが、経済も政治も制することになるのである。これは歴史的な事実である。
■極東ロシアのニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)は、冬期には港が完全に凍結して封鎖都市になってしまう・・・
そもそもが、「忘れられた戦争」であり、ほぼ完全に忘却されている「尼港事件」だが、小説という形で取り上げた著者には敬意を表したいと思う。
「♫ 流れ流れて 落ち行く先は 北はシベリア、南はジャワよ~」というのは、「流浪の歌」という忘れられた流行歌の一節だが、大正時代までは南方のオランダ領東インド(・・現在のインドネシア)だけではなく、シベリアにも多くの民間人がチャンスを求めて渡っていたのである。
ニコラエスク・ナ・アムーレにも、長崎や天草の女性が多く渡航していたという。南方のボルネオについては、『サンダカン八番館』で有名になったが、シベリアにもまた「からゆきさん」たちが多くいたことは、『石光真清の手記』にも活写されている。
いまから考えると、なんでこんな北のはてまで日本人が仕事をももとめて渡航していたのかという気持ちにさせられるが、当時の日本人のたくましさだけでなく、当時の日本の救いようのない貧しさが根底にあったことは疑いえない。
わたしは、いまから12~3年前に仕事で極東ロシアにいったことがあるが、さすがにニコラエフスク・ナ・アムーレまではいっていない。
ハバロフスクとニコラエフスクのほぼ中間にあるコムソモリスク・ナ・アムーレまではいったことがあるが、それはコムソモリスクがソ連時代以来の工業都市だからである。ニコラエフスクは「尼港事件」で壊滅したあと衰退したままだという。
極東ロシアのニコラエスク・ナ・アムーレは冬期には港が完全に凍結するのである。だからこそ、ロシアは「不凍港」をもとめて、ウラジオストックを開港したのである。
ニコラエフスクはウラジオストックからさらに北方にある。緯度からいえば北樺太の先端に近い(・・上掲の地図を参照 本書に収録されているもの)。
「尼港事件」は、この冬期に凍結している時期に起こった惨劇なのである。日本人居留民と陸軍を中心とした守備隊の約700人がほぼ全滅しただけでなく、ロシア人や中国人、朝鮮人をふくめた住民 6,000人強が、4,000人近いパルチザン部隊(=遊撃隊=赤軍過激派)によって虐殺されているのだ。
下図は、『尼港事件の背景を探る』(佐藤誠治、文芸社、2011)に掲載されていたものだが、きわめて守備しにくい地形であることがわかる。周囲を包囲されて、日本守備隊は 10倍近い兵力の敵にはまったくかなわなかったということになる。
島田商会は、市街地の中心部の、アムール川に近い場所にある。
じつは、わたしがこの事件のことを知っているのは、祖父が「尼港事件」後に、徴兵されて「シベリア出兵」に参加し、通信兵としてパルチザン掃討戦に参加しているからだ。
「シベリア出兵」や「尼港事件」という固有名詞は祖父のクチから聞いたことはないが、遺品の「軍隊手牒」には「パルチザン掃討戦に参加」と記されている(・・いま手元にないので正確な記述ではない)。(追記:その後、調べたところ、祖父がいたのはウラジオストック周辺で、尼港にはいってなかった 2012年1月5日記す)。
人を撃つのがいやだから通信兵を志願して軍隊内でロシア語を猛勉強したという祖父のことだから、ニコラエスクのことは、あまり思い出したくなかったのかもしれない。
パルチザンとは共産ゲリラのことだが、じっさいには烏合の衆で、虐殺と略奪をほしいままにしたようだ。日本敗戦時の満洲でのソ連兵と同じ振る舞いが、すでに「尼港事件」で見られたということだろう。
島国に生まれて生きている人間には想像を絶することであるが、ユーラシア大陸の東側では有史以来なんども繰り返し行われてきたことだ。
だが、その地にビジネスチャンスを見いだし、30年かけて大成功を実現した起業家も、国際情勢や歴史観にはうとかったがゆえの悲劇というべきだろうか。
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本書は、ほぼ全体にわたってフィクションではあるが、「忘れれられた戦争」である「シベリア出兵」に題材をとった希有な経済小説として、読んでみることを勧めたい。
フィクション以外は、じつによく綿密に調べて書かれているので、リアリティが高い出来になっている。
著者プロフィール
熊谷敬太郎(くまがい・けいたろう) 1946年(昭和21)4月生まれ。東京都出身。昭和46年学習院大学経済学部卒。同年、大広(広告代理店)入社。昭和51年ジェーピーシーを設立(雑貨の製造輸入)し、代表取締役に。川越市在住。本書が初の著作(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。
<関連サイト>
尼港事件 (wikipedia の「シベリア出兵」の項より)
1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率い、ロシア人、朝鮮人、中国人4000名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)が黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6000人を虐殺した上、町を焼き払った。この事件を契機として、日本軍はシベリア出兵後も1925年に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北樺太(サガレン州)を保障占領した。
「シベリア出兵」については、『平和の失速-大正時代とシベリア出兵-(全8巻) 』(児島襄、文春文庫、1995 単行本初版 1994)が読み物としてはひじょうに面白かったが、この本も重版未定である。「シベリア出兵は、よほど現在の日本人の関心が低いのであろうか。残念なことだ。
(追記)
『シベリア出兵-近代日本の忘れられた七年戦争-』(麻田雅文、中公新書、2016) という本が2016年9月に出版された。「シベリア出兵」は第一次世界大戦の最中に起きた「ロシア革命」に対する干渉戦争。来年2017年は100年目となる。一冊の新書本でテーマがまるごと取り上げられたのは今回が初めてである。まさに「忘れられた七年戦争」である。「シベリア出兵」が一般読者の常識となるよいキッカケになると思う。たいへん喜ばしい。 (2016年10月7日 記す)
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