2013年12月24日火曜日

映画『神々と男たち』(フランス、2010年)をDVDでみた-修道士たちの生き方に特定の宗教の枠を越えて人間としての生き方に打たれる


映画 『神々と男たち』(Des hommes et des dieux : 直訳すれば「男たちと神々」)をDVDではじめて見た。2010年のフランスの映画でフランスでは観客動員300万人を越える大ヒットになったという。

アルジェリアでフランス人修道士たちが人質として誘拐され殺害された事件を描いたものだ。1996年に発生した事件が2000年に映画化されたわけである。映画では修道士たちがイスラーム過激派のジャマー・イスラミヤたちによって誘拐されるまでが描かれている。

感想について述べる前に、アルジェリア情勢を押さえたうえで映画のストーリーを紹介しておこう。


映画の背景であるアルジェリア情勢

アルジェリアはもともとフランスの植民地で、激しい独立戦争ののち1962年に独立を勝ち取った共和国である。アルジェリア独立戦争を描いたドキュメントタッチの『アルジェの戦い』(1966年)はモノクロ映画であるが、自爆テロをふくめた闘争がいかに激しいものであったかがわかる。

アルジェリアは独立後、順調に経済建設に邁進するのだが、経済政策の失敗などによってイスラーム過激派が台頭し、1991年の総選挙でイスラーム原理主義政党が圧勝したが、これに危機感を感じた軍部がクーデタと国家非常事態宣言によって選挙結果を無効とした。

クーデタ後に国内情勢は不安定化し、1991年12月から 2002年2月までつづいた国軍と武装イスラム集団(GIA)との内戦によって、なんと10万人以上の犠牲者が出たという。

修道士誘拐事件はこの「アルジェリア内戦」のまっただ中で発生した事件なのである。1996年3月26日から3月27日の夜にかけて7人の修道士たちが誘拐され2ヶ月後に殺害された。

2013年1月、アルジェリアの天然ガス精製プラントで日本人技術者たちが惨殺された事件は記憶にあたらしい。


アルジェリアのトラピスト修道院

映画の舞台は、そんなアルジェリア北部の地中海に近い山岳地帯である。

ティビリヌという山岳地帯の荒野にあるアトラスという名前のトラピスト修道院で、フランス人修道士と医師たち計8人が、医療行為をつうじて貢献し、地元にしっかりと融けこみながら、「祈りと労働」に専念する規則正しく静かで平穏な日々を送っていた。

修道院が建設されたのはフランスの植民地時代の1930年代。みずから荒地を開墾し、自給自足の生活をおくる修道院であった。

「アルジェリア内戦」が平穏な山岳地帯にも及び始めてきたのは、修道院からそれほど離れていない場所でクロアチア人が首を掻き切られて殺害されるというショッキングな事件が発生してからだ。それ以後、村人も殺害される事件が多発するようになる。


そして、1995年12月24日のクリスマスイブの礼拝の前、武装した過激派たちが医療行為をもとめて訪問してきたことをきっかけに、修道院はアルジェリア軍とイスラーム過激派との内戦にいやおうなく巻き込まれてゆくことになる

殉教覚悟でこの地に留まるのか、安全のために地元住民を見捨てて帰国するかの間で修道士たちは自問自答を繰り返し、何度も何度も合議をくり返す信仰共同体としての修道院の意思決定は合議制によるからだ。

フランス政府の帰国要請にも応じることなく、アルジェリア政府による退去要請にも応じることなく、修道士たちはこの地にとどまることを選択する。

そして図らずも「最後の晩餐」となった日の夜中、修道院は悲劇に見舞われる。


(英語版ポスター)


特定の宗教の枠を越えて人間としての生き方に打たれる

日本語版のタイトルは『神々と男たち』となっているが、オリジナルのフランス語版は Des Hommes et des Dieux と、『男たちと神々』となっている。最近の日本公開映画ではめずらしく直訳に近いタイトルである。

「男たち」(Des Hommes)は、言うまでもなく修道士たちのことを指しているのだろう。

ここでいう「神々」(des Dieux)とは、キリスト教の「神」とイスラームの「神」をあわせて複数形で「神々」と表現しているのであろう。修道士たちにとっての「神」と、穏健なムスリム住民たちの「神」、そしてイスラーム過激派たちにとって「神」。しかもイエス・キリストは『コーラン』においては預言者の一人とされている。

だが、ほんとうは「神」は複数ではないはずなのだが・・・。アラビア語なら「神」はアッラーフで同じ、キリスト教だろうがイスラームだろうが「神」はアッラーフで同一であるはずなのだが・・・

キリスト教とイスラームがなぜ共生できないのか? 一神教だから? いやそうではあるまい。修道士たちとムスリムの地元住民たちは60年以上にわたって平和に共生してきたではないか!

この映画で表現されているのは、寛容と非寛容、信仰と勇気 知恵と愛、自由意思と運命といった重いテーマである。

安全のために地元住民を見捨てて立ち去ることは逃げることなのか? 「殉教」覚悟でこの地に留まることはほんとうに勇気あることなのか? そこで問われているのは究極の選択である。実存そのものにかかわる問いである。

修道士といえども人間である。個々の修道士はそれぞれバックグラウンドも異なり、修道士になった動機もそれぞれ異なる。共通しているのは、みな自由意思によって志願し、修道士として終生を神に仕えるという道を選択したことだ。

修道士たちはを自問自答を繰り返す。話し合いの場では何度も何度も議論をくり返す。そしてまた何度も何度もぎりぎりまで考え尽くす。最初から覚悟が決まっている者だけではない。

最終的には、全員がこの地にとどまりつづけることを決意するにいたる。信仰共同体としての修道院の意思決定は合議制によるからだ。

だがそれは日本人のように「その場の空気」に支配されてのことではない一人ひとりが徹底的に考えに考えた末に、みずからのの意思で、みずからの運命を受け入れたのである。他人に共生されてではなく、自分の意思でとどまるという選択。その意思がすべて集まって「共同体」としての選択となる一つの意志になる。

修道院はフランス語で monastère、英語では monastery という。Mono(一人)を含んだそのコトバは、あくまでも神と対面するのは一人であることを意味している。初期キリスト教の隠者としての「砂漠の修道士」とはそういう存在であった。そういう人が集団で生活する場が中世には修道院という「共同体」となる。

そこにあるのは見えないものに身をゆだねるという感覚だ。運命を共有することによって共同体の絆は確固たるものとなるのである。たとえ「殉教」という結果がもたらされることになtったとしても、死ぬ間際まで、ともに生き続ける意志を貫くことが義務であり使命を遂行するために必要なのだ、と。

わたしはキリスト教徒ではないが、修道士たち生と死をつうじて、キリスト教の最良の側面を体感できたような気がした。宗教を超えて人間として訴えかけてくるものがそこにあるからだ。

「祈りと労働」という規則的な日課に全身全霊で打ち込むことによって、弱くなりがちな精神を克服する。その愚直なまでの実践こそが、ほんものの勇気を生み出す源泉なのである。





<関連サイト>

映画 『神々と男たち』予告編

Of Gods and Men (2010) (英語版は日本語版と同じく「神々」を先にもってきている)

映画 『アルジェの戦い』(La battaglia di Algeri)予告編






<ブログ内関連記事>

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・・フランスのアルプス山中に建てられたグランド・シャルトルーズ修道院(Grande Chartreuse)のドキュメンタリー映画

・・修道院の一日を知ることができる

・・ベルギーのドメニコ会女子修道院

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・・フランスを代表する「現代の賢者」ジャック・アタリはアルジェリア出身のユダヤ系

書評 『新月の夜も十字架は輝く-中東のキリスト教徒-』(菅瀬晶子、NIHUプログラムイスラーム地域研究=監修、山川出版社、2010)
・・キリスト教はもともと中近東で発生した宗教である。中近東においてはイスラームよりはるかに歴史が長いのである

(2014年10月26日 情報追加)



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