欧州の「小国」オランダ。オランダもまたスイスと並んで学ぶべき「モデル」として、日本では賞賛される傾向がある。なんといっても、日本人の認識においては「先進国」としてのオランダは、オランダの観光政策の影響もあってポジティブなイメージに充ち満ちている。
だが、ビジネス界が注目した「オランダモデル」は、けっして手放しで礼賛するようなものではないのではなかろうか。すくなくともオランダ社会について正確な理解をもっていないと抽象的な「モデル」としての理解で終わってしまう。物事はオモテとウラの両面、光と影の両面をみないとほんとうのことはわからないはずだ。
その意味で本書『オランダ-寛容の国の改革と模索-』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)は、きわめてコンパクトな」新書本という形で、オランダ社会の光と影について、理路整然と過不足なく整理してくれており、ひじょうに読みやすい本である。これ一冊読めばオランダ社会を理解できるのは、共著者がともにオランダで暮らした経験を踏まえたうえで知的に整理してくれるからでもある。
本書の帯の紹介文にも書かれているとおり、日本人からみたオランダ社会は、「安楽死・麻薬・売春」の合法化を実行している、合理主義に貫かれた社会というイメージも強い。もちろんアタマでは理解できても受け入れがたいという人も少なくないだろうが。
「合理主義」を支える「自由」と「寛容」の精神、これはオランダの国土の特性と、独立戦争によって建国したという歴史(・・先進国ではスイスとアメリカとオランダのみ)に起因するものだ。戦乱に明け暮れたいた17世紀の欧州で、宗教戦争から距離を置いて、商業中心の市民社会をいち早く築いたのもオランダである。英国にさきがけて近代市民社会を成立させたのである。
国土の4割は干拓によって作り出したオランダは、技術と工学精神で制約条件を克服してきた。これが合理精神の根底にある。著者がいうように、国土そのものが人間が作ったものであり、現在でも水利技術が根幹にある。
1960年代に天然ガスが発見され、1970年代の石油危機の時代にガスの輸出で儲けた結果、通貨高を招いてそれが賃金上昇につながり、高福祉政策ゆえに経済が停滞するという「オランダ病」に悩むことになるが、現在では「オランダ病」を克服している。
このように棚ぼた式の経済ではなく、合理精神を発揮して問題解決を行ってきたのがオランダだ。ワークシェアリングもまた、あらたな発明であり、その意味においても、「人工」がオランダのキーワードなのである。おなじ合理精神といっても、自然をすでにそこにあるものとして受け入れてきた日本人の感覚とは大いに異なるものがある。
「自由」と「寛容」の精神をささえてきたのが、オランダ社会を特徴づけてきた「柱状社会」(verzuiling)というキーワードである。本書の記述によれば、「柱状社会とは、基本的に宗派的に社会が組織され、極端にいえば生まれてから死ぬまで関係する人間組織がすべて宗派的ななかで可能になっている状態」(P.81)である。異なる柱が何本か立っており、互いに干渉を行わない共生や共存という形態である。
20世紀初頭にできあがったこの社会システムは、戦後の1960年代以降には大きく変化しているが、それでもオランダ社会を根底で規定するものだという。つまり、オランダを「棲み分け社会」や「文化多元主義(あるいは多文化主義)社会」としてきたものである。
「文化多元主義社会」という点においてオランダは英国と共通するのであり、中央集権国家のフランスや連邦制の地方分権型国家ドイツとは大きく異なる点なのである。一口に欧州といっても社会の構成原理は大きく異なるのである。
「棲み分け社会」や「文化多元主義社会」とは、基本的に外に干渉しあわないので、ときとして「無関心」になりがちな点も問題点としてあるようだ。だが、基本的にキリスト教が中心にあって、キリスト教が衰退した現在でも無意識レベルでは根底に存在するからこそ可能だった。つまりオランダ人としての価値観を共有していたということだ。
ところが、戦後の復興期を経て高度成長時代には、人口増大による国内人口で労働力をまかない得た日本とは異なり、オランダはトルコやモロッコ出身のムスリムを労働力として受け入れる。かれあらが時を経て、「移民」として定住するようになると、「自由」と「寛容」の精神を国是とする文化多元主義社会オランダは、「柱状社会」のあらたな「柱」として、共生・共存の道が模索されることになる。
だが、ムスリム移民に芽生えてきたイスラーム意識の覚醒や、2001年の「9-11」のテロ事件の影響は、オランダ社会の「自由」と「寛容」を揺るがす事態を招いていることは、日本でも報道をつうじて知ることができる社会変化だ。価値観を共有しないと思われる社会集団への排他的な意識である。
本書には言及がないが、東インド(=インドネシア)という「植民地喪失」にまつわる、オランダ人の根強い「反日」意識を考慮にいれると、オランダ人が排他的な意識をムスリムに対して示す傾向が強まっていることは不思議ではないような気もする。
オランダのプロリーグでプレイする日本人サッカー選手も体験している差別もまた、再生産される「反日意識」の反映かもしれない。と考えると、ムスリムに対する排他意識も再生産されていく可能性もある。
けっして好ましいものだとは言えないが、悲しいかな差別感情は人間の本性に基づくものである。
どんな社会でも「モデル」としてポジティブな側面だけ抽出しても、その「モデル」が成立してきたコンテクスト(=文脈)の抜きには、モデルを正確に理解したとはいえないのである。オランダ社会もまた光と影の両面をもっている。
その意味でも、オランダ社会を正確に記述しようとした本書は、書店の店頭ではあまり見ることはないかもしれないが、すぐれた内容の良書である。ぜひ一読を薦めたい。
◆『オランダ-寛容の国の改革と模索-』(太田和敬・見原礼子、寺子屋新書、2006)
目 次
はじめに
第1章 究極の合理主義者のとらわれない改革
1. 世界ではじめて安楽死を合法化
2. 麻薬と売春-合法化の理由
第2章 国土の建設-自由と独立を求めて
1. 国家の成立とオランダの思想と技術
2. 多様な価値観を認める社会へ
3. 戦後のオランダ社会
第3章 生活しやすくつくられた社会構造
1. 生活しやすい国
2. 協調性とコミュニケーション
第4章 棲み分け社会オランダ
1. 変わりつつあるオランダ
2. 団体ごとの番組制作による国営放送
3. 世界でもっとも自由な教育
第5章 オランダ的「寛容性」の課題
1. 統合政策の行きづまり
2. 混乱とその諸要因
3. 新たな「寛容性」の構築
主要参考文献
あとがき
著者プロフィール
太田和敬(おおた・かずゆき)1948年生まれ。東京大学大学院教育学研究科満期退学・教育学博士。教育行政学・教育制度論専攻。文教大学人間科学部教授。教育制度が社会の統合や分化にどのような役割をはたすのか、個人の選択を保障する制度はいかなるものかを主要テーマとしている。本書の第1章~第4章を執筆。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。
見原礼子(みはら・れいこ)1978年生まれ。一橋大学大学院博士後期課程在籍。日本学術振興会特別研究員。専門はヨーロッパの多文化社会における比較教育論・比較社会論。本書の第5章を執筆。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。
第5章で取り上げられたオランダ社会とムスリムの関係については、『ヨーロッパとイスラーム-共生は可能か-』(内藤正典、岩波新書、2004)、『アッラーのヨーロッパ-移民とイスラム復興-(中東イスラム世界⑧)』(内藤正典、東京大学出版会、1996)を参照すると、より理解が深まるだろう。オランダ関連の目次を掲載しておこう。
『ヨーロッパとイスラーム-共生は可能か-』(内藤正典、岩波新書、2004)
第Ⅱ章 多文化主義の光と影-オランダ
1. 世界都市に生きるムスリム
2. 寛容とはなにか
3. ムスリムはヨーロッパに何を見たか
『アッラーのヨーロッパ-移民とイスラム復興-(中東イスラム世界⑧)』(内藤正典、東京大学出版会、1996)
第5章 多文化共生とみえざる差別・オランダ
1. 文化の列柱
2. 外国人労働者からエスニック・マイノリティへ
3. エスニック・マイノリティから移民へ
4. オランダは移民のユートピアか
5. 病理への批判してのイスラム復興
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<関連サイト>
饗宴外交の舞台裏(197) オランダ新国王も引き継いだ「日蘭」-恩讐を越える道 (西川恵、フォサイト、2014年11月17日)
(2014年11月21日 情報追加)
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