たまたまその千葉県習志野市実籾(みもみ)に用事があってので訪ねたところ、その途中で目に入ってきたのが茅葺きの大きな民家と、それを囲む公園だった。
気になっていたので、用事を済ませたあと、帰途に立ち寄ってみたら、それが千葉県指定有形文化財の「旧鴇田家住宅」であった。
京成電鉄の実籾駅の北側には日本大学生産工学部があるが、実籾駅の南側に行ったのは今回はじめてのことだったこともあって、いまのいままでまったくその存在すら知らなかったのだ。
「旧鴇田家住宅」とは何か、習志野市のウェブサイトから引用しておこう。リーフレットにも記されている説明書きである(*太字ゴチックは私によるもの)
千葉県指定有形文化財(平成17年3月29日指定)旧鴇田(ときた)家住宅は、享保(きょうほう)12年(1727)から翌13年にかけて東金(御成:おなり)街道沿いに建築され、江戸時代に実籾村の名主(なぬし)をつとめた鴇田家の住居として、平成3年(1991)まで使用されていました。平成12年10月にほぼ建築当初の姿で移築復原され、同年11月に開館しました。L字型に曲がった主屋おもやは、かつて東北地方に多く分布していた「曲屋まがりや」であり、南関東ではきわめて珍しい建築様式です。また、この住宅は、身分の高い人が来訪した時に使う「ゲンカン(玄関)」や、その供の者が待機した「トモマチベヤ(供待ち部屋)」、江戸時代の民家としては貴重な客便所など、名主の家にふさわしい特色を伝えています。◆茅葺平屋寄棟造(かやぶきひらやよせむねづくり)床面積 315.7㎡オモヤ 桁行(けたゆき): 20.0m梁間(はりま): 11.0m(廊下・客便所を含まず)ドマ 桁行: 9.4m梁間: 8.2m棟高さ 10.3m(礎石上端から棟木上端まで)
(土間をあがると広い座敷)
じつに大きくて立派な古民家である。しかも江戸時代後期のものだ。
「実籾村は江戸時代には旗本領や幕府領として村高279石余りを数え、田畑のひろがる農村地帯」だったので佐倉藩領ではなかったが(*明治3年に佐倉藩に編入されたが、まもなく廃藩置県)、佐倉藩の城下町・佐倉で保存されている「武家屋敷」は、いずれも小さくて質素なものだ。
武家屋敷と比べて、農民層の名主の屋敷の、なんと大きくて立派なことよ!
(奥の間から庭を見る)
江戸時代の「身分制度の実態」をよく現しているというべきだろう。
武士は支配者であったが、豊臣時代から江戸時代初期にかけて実行された「兵農分離」によって武士は城下町に居住することを義務づけられ、みだりに農村に立ち入ることはできなくなったのである。その意味では、江戸時代以降は狭義の封建制ではない。
農村は自治が行われており、武士と農民の仲介役となっていたのが農民を代表する名主であった。領地からあがる年貢を取り集め、一括して納入する責務を負っていたのが名主だ。
しかも、経済力からいったら、名主のそれはきわめて大きなものであったことは、名主ではなかったが豪農出身であった渋沢栄一を想起したらいい。
(梁の太さに注目!)
「旧鴇田家住宅」が本来面していた「東金街道」にも注目しておきたい。
(習志野市ウェブサイトより)
東金街道は、千葉県の船橋市本町と東金市までの37kmをほぼ直線で結んでいる街道だ。
もともとは御成街道(おなりかいどう)と呼ばれていたのは、「徳川家康(東照大権現)が九十九里方面での鷹狩のために土井利勝に命じて、慶長19年正月から数ヶ月間かけて元和元年11月に完成した街道」(Wikipedia)だからだ。大坂冬の陣のあった1614年のことだ。
つまり鴇田家は、街道筋の名主であったわけだ。
たまたま火曜日だから開いていたようだが、「新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、4月20日(火曜日)以降、建物内への入館者数の制限を、40名から20名に変更いたします」とあった。とはいえ、このときの同時の来館者は自分を含めて3名のみだった。
習志野市民はよく知っているのだろうが、隣接する船橋市民にすら知られていない「旧鴇田家住宅」だが、江戸時代後期の名主の実力がいかなるものか実感するためにも、機会があれば訪れる価値はあるといっていいだろう。実籾(みもみ)という地名もまた良い。
「旧鴇田家住宅」の存在は、たまたま偶然に知ったわけだが、こういう形での発見というものは重要なことだと思う次第。
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