つい先月(2022年12月)のことだが、Google map を見ていて「日独露三国軍人慰霊碑」なるものが千葉県船橋市にあることを初めて知った。 おお、それはまったく知らなかった、それは行ってみる必要があるな、と。
「日独露三国軍人慰霊碑」ということだが、日本がらみでいうとロシアは日露戦争の戦死者、ドイツは第1次世界大戦での戦死者である。
なぜドイツかというと、第1次世界大戦の時点では日英同盟を結んでいた日本は、ドイツとは交戦国であったからだ。戦場は、当時はドイツが租借して植民地化していた中国山東省の青島(チンタオ)。
というわけで、陸上自衛隊第1空挺団の「降下訓練始め 」を見るために習志野演習場にいったついでに、「日独露三国軍人慰霊碑」にいってきた。 2023年1月8日のことである。
もちろん、スマホで Google Map の誘導に従って歩いていく。習志野駐屯地のフェンスに沿って歩いて行くと、進行方向右手の基地内に白亜の「空挺館」(旧御馬見所)が見える。
(空挺館 筆者撮影)
たどりついた「日独露三国軍人慰霊碑」は、習志野霊園のなかにある(千葉県船橋市習志野2丁目5)。
手前の右手に設置された「慰霊碑」には、以下のように経緯についての説明が書かれている。(*太字ゴチックはわたし=さとうによるもの)。昭和46年は、1971年である。
記念碑 この墓地は旧陸軍の墓地として遠く明治37、8年の日露戦争当時の日本軍人戦没者の碑50数基をはじめ、西端のほぼ中央に第一次世界大戦におけるドイツ軍人戦没者の慰霊碑1基、更にその南端には不明確ではあったが、日露戦争時におけるソ連軍人戦没者慰霊の墓標があった。 第二次世界大戦後放置状態にあった当墓地は旧陸軍習志野演習場に入植した開拓農業協同組合員が墳墓として使用していたが、当市は旧軍人を始め国際的意義の見地からこの異国の地に眠る両国軍人の英霊を祭祀し、併せて一般市民の利用に供すべく国有財産である当墓地の整備を計画し、昭和44年3月国からの貸与を受け、茲に三国軍人碑の移設・改葬を行ない船橋市習志野霊園と称し開設したものである。 昭和46年4月 船橋市
(習志野霊園内の「日独露三国軍人慰霊碑」 筆者撮影)
向かって正面に「日本軍人戦没者之碑」、右手に「ソ連軍人戦没者慰霊之碑」がある。日露戦争当時はロシアだったのに、ソ連とはねえ・・・。昭和46年(1971年)は冷戦構造のど真ん中ではあるが、日露戦争では「ロシア人」として死んだはずなのだが・・・。
向かって左手に「ドイツ人戦没者慰霊碑」がある。
「Dem Gedenken deutschen Soldaten 1914 + 1918」(≓ ドイツ人兵士たちの追憶のため)とあり、きれいに磨かれた黒御影石の石碑には、ドイツ人戦死者たちの名が刻み込まれている。お供えの花もまだ新しく、ドイツ国旗も見える。ドイツ人も、ドイツ政府も、戦死者の供養には積極的なのだろう。
青島(チンタオ)にドイツ軍が建設した「ビスマルク要塞」は、当時は東洋一の難攻不落の要塞とされていたが、世界初の航空戦が戦われたこの戦闘で、日本軍の航空攻撃と歩兵攻撃によって要塞は攻め落とされたのであった。その際に、日独双方に戦死者がでたのである。
第1次世界大戦のドイツ人捕虜(このなかにはオーストリア人も含まれる)は、徳島や兵庫だけでなく習志野にも収容された。 この件については、以前のことだが JBpress にコラム記事を書いたが、「ドイツ人戦没者慰霊碑」のことは知らなかった。
捕虜となって日本各地に収容されたドイツ人だけでなく、ドイツ人戦死者についても記憶に入れておくべきだろう。日露戦争での日本人戦死者だけでなく、ロシア人戦死者についても同様だ。戦争は当事国の双方に戦死者を出すのである。このことを忘れてはいけない。鎮魂。合掌
<関連サイト>
第一次世界大戦と習志野―大正8年の青きドナウ(習志野市の公式ウェブサイト)
・・「今から100年ほど前、千葉県習志野の広大な原野に「美しく青きドナウ」の調べが流れていました。大正4年(1915年)9月から同9年(1920年)1月にかけての4年4か月の間、最盛期には1,000名近いドイツ兵が習志野に収容されていました。このページでは、習志野俘虜収容所での彼らの生活をご紹介します」
(2023年6月12日 情報追加)
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