『イスラエル vs. ユダヤ人 ー 中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業』(シルヴァン・シペル、林昌宏訳、高橋和夫-解説、明石書店、2022)を読了。まさに、いまこのタイミングで読みたい本であった。
リアル書店の店頭で入手したのは、2023年10月31日付けの「第2刷」。「10・7」のテロをキッカケに「2023年イスラエル・ハマス戦争」が勃発してから緊急重版されたようだ。初版発行から約2年での増刷である。おそらくこんな事態が発生しなかったら、増刷はもっと先になっていたかもしれない。
■内容は日本語版の副題「 中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業」そのもの
日本語版のタイトルは『イスラエル vs. ユダヤ人ー 中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業』となっているが、原著のタイトルは、フランス語版は L'État d'Israël contre les Juifs といたってシンプルだ。英語版も The State of Israel vs. the Jews とフランス語版の直訳である。
本書の内容は、日本語の副題「 中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業」そのものである。
日本語版の出版にあたって副題として追加したのだろうが、この措置は適切であったというべきだろう。
というのも、『イスラエル vs. ユダヤ人』というタイトルはシンプルで、問題の本質にズバリ斬り込んだものだが、ユダヤ人と日常的に接することのない日本人にとっては、ピンとこないかもしれないからだ。この件については後述する。
イスラエルは、近年とくにビジネス界では「スタートアップ・ネーション」という位置づけで賞賛されることが多かった。セキュリティ関連のIT分野では世界最高レベルの技術開発力をもったベンチャーが目白押しだ。そんなポジティブなイメージである。
もちろん、そうしたハイテク産業が盛んな背後には、イスラエルには徴兵制があり、そのなかでもとくに「8200部隊」という理数系に強いエリート中のエリートを選りすぐって選抜された人材が、退役後に起業するパターンが多いことも説明されてきた。
だが、さすがに「ハイテク軍事産業」と言われてしまうと、引いてしまうビジネスパーソンも少なくないのではないか。
実態は、まさにそのとおりなのだが、イスラエルがミリタリー分野全般で優位性をもっていることの意味を深く考えていくと、中東版「アパルトヘイト」という実態に直面せざるを得なくなるのである。
ビジネスパーソンはビジネスに徹していればいいのであって、余計なことは考えなくてもいい。そんなマインドセットもまかり通りがちだが、さすがに「10・7」をキッカケにした「2023年イスラエル・ハマス戦争のニュースを日々目にするようになったら、そんな態度をとり続けることもできなくなるのではないか。
その意味でも、まずはイスラエルの現実について、事実をきちんと知ることが大事なのだ。ポジティブな側面とネガティブな側面の両方について。
本書は、最近のイスラエルの現状について、フランスのフリージャーナリストが綿密な取材とインタビューをもとにして書き上げた本だ。
フランス語版は2020年、英語版は2021年、日本語版は2022年の出版である。2018年以降のイスラエルの状況を知ることができる。
■イスラエル社会の変化はグローバリゼーションの負の側面でもある
批判的な立場から書かれた本書は、日本人が知りたい内容以上のものを含んでいるといえる。
それは、タイトルの L'État d'Israël contre les Juifs(= The State of Israel vs. the Jews)に端的に表現されている。つまり、イスラエルという国家とユダヤ人は、もはやイコールの存在ではないということを示している。
著者はフリージャーナリストである。フランスを代表する『ルモンド』紙に長く在籍していたことからもわかるように、中道左派の立ち位置といっていいだろう。しかも、ユダヤ系のフランス人である。
「イントロダクション」では、著者自身が自分のアイデンティティについて「自分史」を語っている。
現在のウクライナ西部に生まれた労働シオニストの父親のもとに、1948年にフランスで生まれた著者は、父親の影響でシオニストの青年労働運動に参加し、累計12年間をイスラエルで過ごしている。その間にはイスラエル国防軍での3年間の兵役も体験し、キブツで暮らしてもいる。だが、最終的にシオニズムへの熱意を失ってしまったという。
イスラエルの「現実」が、フランスで考えていたような「理想」とは大きくかけ離れたものとなっていったことに幻滅したためだ。
イスラエル社会は「第3次中東戦争」(1967年)以後、大きく変化していったのである。
もはや「自民族中心主義」(ethno-centrism)の方向は止まることなく、排他的な姿勢は「アパルトヘイト」といっても言い過ぎではないような状態にパレスチナ人を追い込んでいる。第3次中東戦争から50年で、もはや不可逆的な動きとなっている。
パレスチナ人に対する殺害を含めた暴力も公然と行われているのであり、イスラエル国防軍の将兵の意識も麻痺しているとしか言いようがない。しかも宗教シオニストが国防軍の上層部まで昇進する状況になっている。もはや、かっての理想に満ちたイスラエルはどこにもない。
右派が政権をとるようになって長いが、それはユダヤ系イスラエル人社会を反映したものなのである。社会全体がいちじるしく劣化しつつあるのであり、右派政治家たちの粗野な言動も、それを支持する人たちが多いからなのだ。
かつて "ugly American" というフレーズがあったが、現在では "ugly Israeli"(醜いイスラエル人)というフレーズもあるくらい、ずうずうしく行儀が悪い。「フツパ」とはそのことだ。
驚くべきことに、イスラエルではトランプ大統領の支持率が7割を超えていたのだという。
いや、世界全体がそういう方向に進みつつある。グローバリゼーションの負の側面が一気に噴出し、逆説的に悪しきナショナリズムが活性化され、権威主義的な政治リーダーをもつ国が増加している。
イスラエルもまたその一例であり、ネタニヤフ首相(現在第3次政権)がロシアのプーチン大統領や、インドのモディ首相、ハンガリーのオルバン首相や、米国のトランプ元大統領と親しかったのはそのためなのだ。
この状態では、もはや30年前の「オスロ合意」(1993年)に定められた「二国家解決」(two-state solution)は現実性を失って久しいというのが著者の認識であり、大いに説得力がある。
では、「一国家解決」は、はたして可能なのだろうか? 著者の記述から離れて、東南アジアに状況を置き換えて考えてみよう。
マレー系と華人系という、主要な2つの民族の共存状態で国家を形成しているのがマレーシアだが、かっては 6:4 だった人口比率が、華人系の出生率の低下によって、現在では 7:3 とマレー系の人口比率が増大していることもあり、「イスラム国家」としての性格が強まっている。
そう考えると、あくまでも仮定の話だが、「一国家解決」によってユダヤ系とパレスチナ系が共存する体制がありえたとしても、ユダヤ系イスラエル人を説得することがきわめて困難であろうことは容易に想像がつく。出生率の違いによって「ユダヤ人国家」の維持など不可能となるからだ。
マレーシアはパレスチナ人への連帯からイスラム組織ハマスを支持してきたことも、今回の事件で明らかになったが、1965年にマレーシアから分離独立したシンガポールが、建国当初からとイスラエルとは軍事面を中心に密接な関係にあることは、知る人ぞ知る事実である。
パレスチナ問題にかんしては、出口なしの状況がこのまま続いてしまうのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。
■フランスと対比すると米国のユダヤ人社会の変化は明らか
イスラエルの外部に目を転じれば、ユダヤ人とイスラエルの関係は、かってのように蜜月関係にはない。
とくに米国社会では、ユダヤ人のイスラエル離れが止められない動きになっている。2007年から2013年にかけて『ルモンド』紙のニューヨーク特派員を務めていただけに、米国のユダヤ人社会の動きにも詳しく書かれている。
ただし、イスラエル国外のユダヤ人がおなじ傾向をを示しているというわけではない。
フランスのユダヤ人社会は、米国のユダヤ人社会とは違うと著者は指摘している。600万人前後のイスラエルと米国を除けば、フランスのユダヤ系人口は45万人であり、2018年現在で世界第3位となっている。
米国のユダヤ人社会は「改革派」のユダヤ教徒が多く、民主党支持者が多い。ロシア東欧出身者が多いとはいえ、「啓蒙思想」の申し子であるアメリカ革命の理念を受け入れている人たちである。
これに対して、おなじく「啓蒙思想」の理念を受け継いでいるフランスであるが、現在のユダヤ人社会はフランスの理念に従っていないのだという。
というのも、現在のフランス人のユダヤ人社会は、アルジェリアなど旧フランス植民地からのセファルディム系の移民がマジョリティを占めており、ロシア東欧出身者のアシュケナージ系が多かった状況とはまったく異なるものになっている。
フランスのユダヤ人社会は、基本的にイスラエル支持である。フランスのユダヤ人社会では価値観の多様性は低いのだという。したがって、ユダヤ系のフランスの知識人も、表だってイスラエルに批判的な言動をしにくい状況にある。著者はそう述べている。
イスラム教徒にいる反ユダヤ主義暴力の危険にさらされており、「シャルル・エブド事件」(2015年)ではユダヤ系の商店が襲撃されている。不安を感じているフランスのユダヤ人のイスラエルへの移住が増加しているのはそのためなのだ。
フランスのユダヤ人の若者たちは、アラブ人に対して力で対応するイスラエル国防軍に魅力を感じているらしいが、はたしてフランスのユダヤ人にとってイスラエルが最終的な安住の地とあるのかどうか。
これに対して、米国のユダヤ人には「再生ディアスポラ」なる思想も生まれてきているという。「ユダヤ人国家」ではなく、ユダヤ人のディアスポラ状態を積極的に評価していくという方向だ。
以上のように、フランスのユダヤ人社会と対比してみると、米国のユダヤ人社会の変化が、よりいっそう際だっていることが見えてくる。
フランス語世界の発信力が大幅に落ちている現在、いい意味でも悪い意味でも、米国を中心にした英語圏から発信される情報や主張が大きく世界に影響を与えていることを考えれば、「イスラエル vs. ユダヤ人」の動きもまた、不可逆的なものとなっていく可能性があるのではないか。
日本人による日本人読者向けのものではなく、米国人による米国人読者向けのものでもなく、フランス人によるフランス語読者向けの本書を読んでいると、異なる視点にいる複眼的なものの見方ができるようになる。
本書 『イスラエル vs. ユダヤ人ー 中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業』もまた、副題の「中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業」という側面だけでなく、「イスラエル vs. ユダヤ人」という側面から読むことで、世界の動きをより深く知ることができるようになることだろう。
目 次本書を読み解くための基礎知識 前編(高橋和夫)イントロダクション ー 埋めることのできない溝第1章 恐怖を植えつける ー 軍事支配第2章 プールの飛び込み台から小便する ー イスラエルの変貌第3章 血筋がものを言う ー ユダヤ人国民国家第4章 白人の国 ー 純血主義の台頭第5章 イスラエルの新たな武器 ー サイバー・セキュリティ第6章 公安国家 ー 権威主義的な民主主義第7章 絶滅危惧種 ー イスラエル法制度の危機第8章 ヒトラーはユダヤ人を根絶したかったのではない ー ネタニヤフの歴史捏造、反ユダヤ主義者たちとの親交第9章 黙ってはいられない ー 反旗を翻すアメリカのユダヤ人第10章 今のはオフレコだよ ー 臆病なフランスのユダヤ人第11章 イスラエルにはもううんざり ー ユダヤ教は分裂するのか第12章 鍵を握るアメリカの外交政策 ー トランプ後の中東情勢結論 イスラエル vs. ユダヤ人謝辞本書を読み解くための基礎知識 後編(高橋和夫)訳者あとがき原注
著者プロフィールシルヴァン・シペル(Sylvain Cypel)パリを拠点とするフリーのジャーナリスト。フランスの新聞『ルモンド』の国際報道部の副部長を経て副編集長を歴任。2007年から2013年にかけて同紙のニューヨーク特派員を務めた。1948年、ボルドーに生まれ9歳でパリに移る。父親の影響でシオニストの青年労働運動に参加し、イスラエルに渡航。3年間の兵役ののちキブツで暮らし、エルサレム大学で国際関係の学位を取得。イスラエルには12年間滞在。イスラエル滞在中にシオニズムへの熱意を失う。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに加筆)
日本語訳者プロフィール林昌宏(はやし・まさひろ)1965年名古屋市生まれ。翻訳家。立命館大学経済学部卒業。訳書多数。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
<ブログ内関連記事>
■ユダヤ人自身によるイスラエル神話批判と反シオニズム
■米国のユダヤ人社会とその変化
■ユダヤ系フランス人と現代フランスのユダヤ人社会
・・セルジュはセルゲイ。オデッサ(=オデーサ)にルーツのあるユダヤ系
・・ジャック・アタリはアルジェリアからの移民のユダヤ系。フランス社会のエリートであるかれは、とくにユダヤ系であることは全面にださない。哲学者のジャック・デリダもアルジェリア出身のユダヤ系フランス人であったが、デリダはユダヤ性をだしていた
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