『神経症的な美しさ ― アウトサイダーがみた日本』(モリス・バーマン、込山宏太訳、慶應義塾大学出版会、2022)という本について書いてみたいと思う。米国人の思想家による本格的な「日本文化論」として、今後も言及されることになるだろう本だから。
すでに5年前のことになるのだが、『超訳ベーコン 未来をひらく言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティ、2021)という本を作成している際のことだ。
フランシス・ベーコン関連の参考書になるかもしれないと思って、復刊された『デカルトからベイトソンまで―世界の再魔術化(モリス・バーマン、柴田元幸訳、文藝春秋、2019)の前半を読んだ。17世紀に生きたフランスのデカルトとイングランドのベーコンは同時代人である。
知的に刺激のある本だったので、著者について調べているうちに、米国人の「脱領域型」の思想家モリス・バーマン氏がイタリア・ルネサンスや日本について書いていることも知った。
日本についての本が、本書の原本である "Neurotic Beauty"(神経症的な美しさ) というタイトルの本である。
2022年になって日本語訳がでたことを知って、税込みで4000円強とはちょっと高いなとは思いながらも、書籍版で『神経症的な美しさ ― アウトサイダーがみた日本』(モリス・バーマン、込山宏太訳、慶應義塾大学出版会、2022)を購入した。
購入してから3年後になってから、ようやく日本語訳を少しずつ読み進め、1週間かけて一読した。
「近代日本」を米国との密接かつ濃厚に絡み合う関係のなかで捉え、日本文化についてポジティブな側面だけでなくネガティブな側面まで押さえたうえで、禅体験をベースにした京都学派の哲学を論じ、現在日本のポップカルチャーまで考察する。
「日本はポスト資本主義のモデルになりうるか?」という問いがその根底にある。この是非については、最後に考えたい。
■英語文献だけでも「日本文化論」は可能
日本語版は、なによりも翻訳がすばらしい。労作である。しかも細部まで配慮のよく行き届いた丁寧なつくりになっている。
詳細な注もすべて翻訳されているだけでなく、対応する日本語文献も掲載されている。日本にかんする本は、日本語の固有名詞をローマ字表記から漢字に戻すことが必要なので、そのまま英語で読むと誤解が生じる恐れがある。日本語版を読む理由はそこにある。
読後感としては、まずなんといっても、日本語の読解能力がなくても日本についてここまで広く、かつ深く書くことができるのか、という驚きである。「何年も合気道を実践し、囲碁を打ち、俳句を詠み、座禅を組んできた」とはいえ、著者の日本語能力はきわめて限定されているからだ。
日本で一般的に言及される思想家があまり登場しないのは、英語文献にのみ頼っているからだろう。だが、そうはいっても本格的な日本研究もかなり進んでいて、英語による論文や著作も100年前と比べたら、それはもう比較のしようがないほど蓄積されている。現代社会まで視野を拡大した最近の日本研究の進捗ぶりも、目を見張るものがある。
英語の翻訳だけをもとに古今東西の哲学を踏まえたうえで、独自の哲学を展開している米国人思想家ケン・ウィルバーもそうだが、重要なことは分析の視角であり、考察の深さである。日本語あができるかどうかは、二次的な問題だ。モリス・バーマン氏の日本論を読む意味はそこにある。
■「神経症的」は「開国」以後の日本を形容するキーワード
さて、タイトルの『神経症的な美しさ』は、なにを意味しているのか?
「美しさ」については、「真・善・美」のなかでは、もっとも「美」を最重視してきたのが日本の伝統であることはあえて説明するまでもない。
「神経症的」(neuroteic)というのは、明治維新後の「近代日本」、さらに敗戦後の「戦後日本」のことを指している形容詞だ。
「近代日本が神経症的」であることは、文化人や知識階層は別にして、一般の日本人にその自覚症状はあまりないのではないか? 自分で自分の症状は自覚しにくいからだ。
だが、ざまざまな精神的な「ひずみ」として日本社会で顕在化していることが、外国人である著者には鮮明に見えているようだ。
そもそも、きわめて長きにわたって、東洋世界で「精神のあり方」が形成されてきたのが「前近代」の日本人である。日本人の存在の根っこは本来そこにある。
著者は、禅(Zen)と工芸品(Craft)をもって「前近代」の日本を代表させているが、米国による「開国」という「外圧」によっていやおうなく受け入れざるをえなくなった日本人は、「近代化」=「西欧化」によって存在基盤が揺るがされ、精神的に浮遊する状態が現在にいたるまで続いている。
表面的に「近代化」されたものの、その中身はけっして西欧人ではない。東洋に根っこを持ちながら、表面は西洋化された「ねじれ状態」は、日本と日本人のアイデンティティを不確かなものとしている。
「敗戦」によって米国を中心とした連合軍に占領され、アメリカナイズされた「戦後日本」の日本人。この時代に日本人はほぼすべてが「近代化」されたことになる。
とはいえ、変わり身の早いのが日本人であり、近代化がどの層まで及んでいるのかは疑問は残る。もちろん、これは功罪両面から考えるべきことである。ローカル文化の核が古層として残っていることは、日本を日本たらしめているからだ。
しかしながら、「近代」の後遺症はけっして無視できるものではない。急速な近代化が生み出したひずみが代償として、無意識レベルで日本人を呪縛し、「神経症的」な状態を恒常化させたまま現在にいたっているのだ。
繰り返しになるが、日本人に突きつけられているのは、「お前は何者だ?」というアイデンティティをめぐる終わることのない問いである。
そもそも、日本人にとって、日本とはなにか? 日本人とはなにか? という問いは、きわめて答えるのが難しい。自分は自分のことを外側から眺めることができないからだが、とりわけ日本と日本人については困難をきわめる。
だからこそ、他者の視線が重要なのだ。日本を外側から眺めることのできる著者のような「アウトサイダー」なら、なおさらだろう。「神経症的」という診断は、みずからについて下すことは難しい。自覚症状がなければなおさらだ。
著者はまた、この状況にあるのは日本人だけではないとする。アメリカ人もまたそうなのだ、と。これもまた重要な指摘だ。なぜ、日本が世界中から注目されるかの答えのひとつになっているからだ。
精神の内側に「虚無」を抱えたアメリカ人について語る著者は、神経症的な現代日本人の精神のあり方に、時代の象徴を見いだしているのである。
■日本文化の特徴は「古きもののモダニズム」にある
著者は、日本人の精神がどう変容してきたかを、ペリー来航に始まる米国との紆余曲折でありながら濃厚なものであった接触のなか、日本人の精神のあり方を探っている。
ポジティブな側面としては、禅や工芸品(とくに柳宗悦の民藝)、座禅体験をベースにした京都学派の哲学やアートなど、ハイカルチャーに属する事象を取り上げている。1944年生まれの著者の日本文化へのアプローチは、この世代の米国の知識階層特有のものであり、哲学への傾倒を除けば、けっして特別なものではない。
とはいえ、日本好きの外国人の多くがそうであるような礼賛一辺倒ではない。「甘え」や「集団思考」「序列」など、日本社会のネガティブな側面についても、しっかり見つめている。光だけでなく影も見なくては、ただしく見たことにはならない。
さらにその上で、現在は世界中でポップカルチャー化している日本の「オタク文化」にかんしては、通訳をつうじてだが10代の若者たちにインタビューも行っている。
アニメやマンガから日本好きになる、1980年台生まれのアメリカ人とは真逆のアプローチであるが、ハイカルチャーとポップカルチャーの両面を見ることで、日本文化を複眼的に見ることを可能にしている。
そんな著者は、どうやら日本を「ポスト資本主義」のモデルと見ているようだ。無限に拡張し暴走をつづける米国型資本主義の限界を越える存在として。日本モデルに期待しているというべきか。
日本文化のあり方を分析して、著者は「古きもののモダニズム」にその特徴を見いだしている。日本では、過去と断絶することなく、過去が参照され現代に甦らせることが繰り返し行われてきた。
「古きもののモダニズム」は、 原文では "archaic modernism" となっている。「アルカイックな近代主義」である。確認のため原書 Neurotic Beauty の kindle版も購入してダウンロードしてるので、原文をチェックしておこう。
• Continuity with the past in terms of values and practice, and a recasting of traditional craft in terms of contemporary design––what I shall call “archaic modernism,” though it is an approach that includes more than just craft..
読んでいて、「古きもののモダニズム」とは、漢字熟語の「温故知新」のことだなと気がついた。日本では当たり前のように使われるフレーズである。『論語』の一節だ。
「温故知新」は直訳すれば、to learn from the past to discover the present となるだろうが、understand を create や innovate に置き換えたら著者の言いたいことに近くなるだろう。いや、その前に「温故創新」と言い換えるべきかもね。
もちろん、著者がいいたいことは、日本においてはつねに「過去をあらたに再生する」という形でモダニズムが実行されてきたということ。「再生」という形で「新生」(=ルネサンス)が行われるということを意味している。
■「日本はポスト資本主義のモデルになりうるか?」という問い
著者のメインテーマである、はたして日本は「ポスト資本主義」のモデルになりうるか?という問いについて考えてみよう。
著者は、資本主義は破滅のプロセスにあるという主張がつよすぎるという印象を受ける。現実的というよりも希望的観測に近い、そんな印象を受ける。著者は「見たいものを見ている」ように、わたしには思えてしまうのだ。
実際の日本は、著者のアタマのなかにある、そうであってほしい「脳内ジャパン」そのものではない。そんな理想郷ではない。おそらく日本は、「ポスト資本主義的」なマインドをもちつつも、「プレモダン」を志向するのではなく、テクノロジーとの共生という道を選ぶだろう。これまでずっとそうしてきたからだ。
もちろん、テクロノジー万能主義は、福島の原発事故以後は、もはや日本には存在しない。イーロン・マスクのような無限拡張主義はスゴイなと思いながらも、無理があるだろうと思うのが一般的な日本人だろう。
とはいえ、江戸時代に戻ることには現実的ではない。日本人自身が望んでいない。手仕事の重要性という観点については同意するが、米国ではすでに1820年代に消滅していった手仕事へのノスタルジーが基調にあるなら、そう思うのも無理はないな、と。
テクノロジー万能主義ではなく、テクノロジーをいかに制御し、最先端のハイテクだけでなく、手仕事もふくめた江戸時代のローテクも活用することに、日本的未来の可能性があるのだろう。すくなくとも、それが日本人の総意ではないか?
「ポスト資本主義」のモデルを日本に見る著者の姿勢は興味深い。賛否両論があるだろうが、「第3次日本ブーム」の日本に米国人が期待するものとして、日本人も認識しておいたほうがいいかもしれない。「第1次日本ブーム」後の「幻想の日本」に終わってしまってほしくはないだろう。
最後になるが、せっかく著者はメキシコ在住なのだから、メキシコにインスパイアされた日本のアーチストたちの活動の軌跡についても、目配りをすべきだったと思う。
まあそれは無い物ねだりというべきだが、著者にはぜひメキシコについて書いてほしいと思う。イタリア、日本ときたら、手仕事を重視する職人文化の国メキシコをどう見ているのか、知りたいからだ。
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目 次日本語版への序謝辞序章 別の仕方で考えること第1章 日本的なるもの(1)― 禅、工芸、永遠の現在第2章 日本的なるもの(2)― 甘え、集団志向、序列***第3章 明治維新とその余波第4章 戦争と占領***第5章 哲学 ― 京都学派の時代第6章 『なんとなく、クリスタル』―アメリカ化する日本のディレンマ***第7章 江戸的な現代へ ― ポスト資本主義モデルとしての日本?付録1 英語の用語法における問題付録2 禅のリアリティ付録3 禅、倫理、「枢軸時代」付録4 オタク文化―インタビュー訳者あとがき用語集/注/邦語文献リスト/図版リスト/事項索引/人名索引
著者プロフィールモリス・ バーマン(Morris Berman)詩人、小説家、エッセイスト、社会批評家、文化史家。これまでに17冊の単行本、150本近くの論文を発表しており、ヨーロッパ、北アメリカ、メキシコの様々な大学で教鞭を取る。1990年にワシントン州の州知事作家賞を受賞、1992年にはロロ・メイ・センターの人文学を対象とした年間助成の第一号となる。2013年、メディア・エコロジー協会より、公共的知的活動における業績に対するニール・ポストマン賞を受賞。著書に『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』(柴田元幸訳、文藝春秋、2019年)がある。2000年、The Twilight of American Culture が『ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』紙で「注目すべき本」として紹介される。2013年、メディア・エコロジー協会より、公共的知的活動における業績に対するニール・ポストマン賞を受賞。メキシコ在住。
日本語訳者込山宏太(こみやま・こうた)青山学院大学大学院文学研究科英米文学専攻博士前期課程修了。専門はイギリス文学・文化史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
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■存在の底に「虚無」を抱えているのは日本人アメリカ人(抜き書き的メモ)
●アメリカも日本も、ともに「虚無」を抱えている
●アメリカは「~でない」という「否定的同一性」(negative identity ヘーゲルの)によるアイデンティティ。日本もまた「~でない」というアイデンティティ。その核にあるのは「空」「虚空」「空洞」・・・・
●ヤスパースの「枢軸時代」と無縁であった日本。日本には、中国やインド、古代ギリシアのような「軸」をもたない。
●重要な概念は「自己を無に」にする「ケノーシス」というキリスト教の概念。シモーヌ・ヴェイユもまた
●京都学派の祖である西田幾多郎が、禅仏教の「無」あるいは「空」とキリスト教神学の「ケノーシス」を哲学的に考察している
●哲学の「京都学派」の戦後を代表する西谷啓治に対する、著者によるきわめて高い評価
Keiji Nishitani. Some have regarded his magnum opus, Religion and Nothingness (1961), as one of the greatest works of philosophy written in the twentieth century, and they may well be right.
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