■ソ連時代のもっとも良質な部分で純粋培養された、数学者ペレリマンという生き方■
世紀の難問「ポアンカレ予想」を証明したロシアの天才数学者ペレリマンは、なぜ数学のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞受賞と賞金100万ドルを拒否し森へ消えたのか。
ほぼ同時期にソ連で数学のエリート教育をうけたユダヤ人の著者が、ペレリマンの実像を浮かび上がらせる。
数学者ペレリマンについては、NHKスペシャル「100年の難問はなぜ解けたのか-天才数学者 失踪の謎-」と同じくNHKスペシャルの「ポアンカレ予想・100年の格闘-数学者はキノコ狩りの夢を見る-」で興味をもったのが最初のキッカケである。NHKの番組では触れられていないが、ペレリマンという明らかにユダヤ系の名字から予想されるとおり、ソ連においてユダヤ系知識人がいかに苦労したかについて本書では詳しく書かれている、
しかも、著者のガッセン自身がソ連出身のロシア系ユダヤ人という出自をもつ人なので、おなじ時代の空気を吸った人として著者としては最適であろう。著者は現在米国在住である。
世界を解明したいという、学問にとって本質的な欲求にもっとも忠実なのが数学者ではないだろうか。「ポアンカレ予想」については、数学が専門ではない私には、本書の第9章で要約されているいこと以上にはわからないのだが。
最初からカネ儲けが目的の研究であればいざ知らず、純粋数学にかかわる者は理論の証明に人生を賭けているのであって、カネが主目的ではなかったことは十二分に推測できることだ。本書の最後の段階でいきなりでてくる中国人数学者たちの非常に醜い行動から、なおさらペレリマンの姿が崇高に見えてくるのである。
ペレリマンがフィールズ賞の受賞と賞金100万ドルを拒否した件については、私も含めて多くの人が、なにやら痛快で爽快な、一服の清涼剤のようなものを感じるだろうが、当の本人はまったく異なる考えのようだ。著者の推測もその一つの試みであるので、ぜひ一読して確かめてみてほしい。
ペレリマンはユダヤ人ではあるが、なにかしらロシア正教会の隠修士のような趣がある。世俗の評価にはいっさい背を向け、世間との接触をすべて断って引きこもってしまった、まさに隠者(エルミタージュ)のような生き方である。
信頼していた数学に失望し、数学にかかわる人間関係に失望した一人の純粋な男。これは、資本主義におけり学問のあり方、つまり学問的探求の成果をカネに換えるということへの嫌悪感の現れでもあるのかもしれない。
ある意味では、ペレリマンは、ソ連時代の「もっとも良質な部分を純粋培養」したまま、ソ連崩壊後のロシアで生きているともいえるのだろう。
本文の記述によれば、父親と妹はイスラエルに移住、本人も米国での研究生活のなかで、米国移住の可能性を検討していたようだが、結局ロシアに戻り母親と一緒に暮らしているという。資本主義社会のど真ん中で生活した経験がカギとなっているのかもしれない。
数学者ペレリマンの生き方とは、学問と資本主義の関係について、もっとも深いところから反省を迫る生き方であるといえようか。ぜひ一読を薦めたい。
<初出情報>
■bk1書評「ソ連時代のもっとも良質な部分で純粋培養された、数学者ペレリマンという生き方」投稿掲載(2010年10月29日)
■amazon書評「ソ連時代のもっとも良質な部分で純粋培養された、数学者ペレリマンという生き方」投稿掲載(2010年10月29日)
<書評への付記>
■「資本主義のオルタナティブ」とは、「ソ連」や社会主義、共産主義のことではない
「ソ連時代のもっとも良質な」という表現に違和感を感じる向きがあるかもしれない。
「ソ連」と「良質」という二つのコトバが結びつかないという人も多いだろう。
だが、一方的にソ連を切り捨ててしまうのは間違いだと私が思っているのは、私がソ連時代を懐かしんでいるからではもちろんなく、共産主義礼賛者でももちろんない。私はその真逆の人間、すなわち反共産主義である。これは現在でも一貫して変わることはない。
「資本主義のオルタナティブ」が、イコール社会主義や共産主義と主張するつもりは毛頭無い。また、そのように狭く解釈しないでほしいとも期待したい。
私が意図しているのは、資本主義と対立する経済体制というよりも、資本主義とはどこか違う、人間性回復のための経済システムがあるのではないかという模索である。だから、資本主義の補完的要素のある経済も含めて考えている。
■「ソ連」時代のユダヤ人の生き方
ソ連の抑圧的体制と闘っいたユダヤ人には、現在イスラエルで国会議員を務めるシャランスキーのような反体制派(レフューズニク)もいる。右派の政治家である。
また、チェリストのミーシャ・マイスキーのように、演奏先から亡命を選んだユダヤ系音楽家もいる。ピアニストで指揮者のアシュケナージはかなり早い段階の亡命者である。
グーグルの創業経営者の一人サーゲイ(セルゲイ)・ブリンもまた、ソ連時代にロシアに生まれて、両親とともに米国に移民したユダヤ系市民である。
しかし、一方で、ソ連の体制のもとで、なんとかうまく自己実現できた人たちもいる。ソ連崩壊後、転換期の経済をうまく利用してのし上がったオリガルヒ(独占資本家)と呼ばれた人たち、たとえばベレゾフスキー、ホドルコスフキーといったユダヤ人は、共産党組織のなかにいた優等生たちであった。プーチン体制のもと、前者は国外亡命中、後者は獄中にある。
本書の主人公、グリゴーリー・ペレリマンは、その優秀な頭脳によって数学のエリート教育を受けた天才である。ソ連は、こうした知的エリートや芸術家やスポーツのエリートを養成していたことは、比較的よく知られていることだ。
ペレリマンもユダヤ人枠のなかで、こういった頭脳エリートの一員として不自由なく過ごすことのできた一握りの人間の一人である。もちろん、ソ連における反ユダヤ主義のため、狭き門であったことは否定できない事実であった。
「ソ連時代のもっとも良質な」とは、こういったエリート層養成の教育システムのことも指している。
また、1960年代後半から1970年代に初等中等教育を受けた人間として、それ以外にも、ソ連の良質な部分に触れていたことを否定するつもともない。
宇宙開発に代表される科学技術、映画芸術、絵本や人形劇といった豊穣な世界。また、ソ連崩壊後に知ることとなった、ノルシュテインに代表されるアニメーションの世界なども。
■本の読み方について
そもそも本というのは、どう読もうと読者の勝手である。著者としてはこう読んで欲しいという希望は当然のことながらあるだろう。
ここに示したのは、私はこう読んだという、ある意味では報告である。
私は数学専攻の人間でもないし、難問解決に完璧な証明を与えた数学者をめぐる人間ドラマに関心があるだけだ。
なお、本書では英語版からの翻訳であるためだろう(・・ただし、実際に出版された英語版と日本語版は異なるらしい)、主人公の名前は一貫してペレルマンとなっている。英語なら Perelman とつづるのでペレルマンとなっているのだろうが、ロシア語では明らかにペレリマンであり、NHKの番組でも一貫してペレリマンとなっていたこともあり、私はここではペレリマンと表記することとした。
ユダヤ人としてソ連を生きるということの意味にかんする記述が、英語版では大幅に割愛されているという。これが読めるのは、日本語版の大きなアドバンテージである。
ただ、ペレリマンの個人的信仰や、ユダヤ教と数学探求の関係にも突っ込んだ記述があれが、もっとも面白かったのではないかと思う。
なお、この文章をもって、ブログ投稿は通算 500本目となった。
1,000本目指して、まだまだ続けていきたいと思っている。
<ブログ内関連記事>
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・・「変人」さの度合いにおいては、ペレリマンにも共通するところのある岡潔(おか・きよし)
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