2010年12月19日日曜日

「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)ー「自分発見」のために「自分史」に取り組む意味とは



「自分のなかに歴史を読む」(阿部謹也)が本になる前に聞いていたこと

 以前このブログでも紹介したが、大学時代の恩師である歴史学者・阿部謹也先生には『自分のなかに歴史を読む』(ちくまプリマーブックス、1988)というロングセラーの名著がある。現在は文庫化(2007)されて、ちくま文庫としても入手可能である。

 自分のなかを深掘りしていけば、かならず「一生かけてでも取り組むべきテーマ」が見つかるはずだ、というのが『自分のなかに歴史を読む』の趣旨である。逆に言うと、そうでないテーマ設定をしている学者があまりにも多いことへのアンチテーゼでもある。

 もちろん、「一生かけてでも取り組むべきテーマ」なんて簡単に見つかるわけではないが、自分の内部から発する、内発的な動機付けを欠いたテーマでは、たとえ学会で高い評価につながるものであったとしても、深い達成感はないだろう。

 学者の場合は研究テーマであり、仕事人の場合であれば達成すべき目標や夢となる。目標や夢には、もちろん長期のものも短期のものもある。


 私が大学生のとき、阿部ゼミではこいういう課題が課されていた。いままでの人生のなかで、最も影響を受けた本、インパクトを受けた本を一冊選んで、ゼミ合宿で報告せよ、と。
 
 大学二年生の「前期ゼミ」で私が選んだのは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』という長編小説。精神病棟と法医学教室を舞台に、「心理遺伝」というテーマを展開した小説で、おどろおどろしい表紙画の文庫本である。
 高校時代いつもこの文庫本を本屋で眺めてはいつか読みたいと思っていたのだが、大学に入学してやっと読むことができた。この小説を超える作品はないというほどインパクトのある小説である。

 『ドグラ・マグラ』は、探偵小説・幻想小説作家の夢野久作が、10年の歳月をかけて完成した長編小説で、作者はこの一作を書くために生きてきたと述懐した作品。その発言の数ヶ月後、作家は脳溢血で死去。文字通りの代表作となった。
 夢野久作は、福岡藩出身の玄洋社系国家主義者・杉山茂丸の長男。夢野久作自身、子どもの頃から頭山満などの右翼界の大物たちにかわいがられてきたこともあり、『近世怪人伝』という、幕末の志士たちや右翼人士たちを描いた、たいへん貴重な伝記オムニバスも遺している。
 夢野久作の作品は、評論やエッセイもふくめて、ほとんど全部読んでしまったが、こういう作家を20歳になる前に読むということがいかなる意味をもつのか自分にはよくわからない。
 個人的には、満洲物である 『氷の涯(はて)』が、夢野久作の最高傑作だと思っている。

 三年生になって本格的に「後期ゼミ」になってからは(・・二年から通算3年間、阿部謹也ゼミナールに在籍したことになる)、「ゼミ合宿」では河口慧海(かわぐち・えかい)の『チベット旅行記』を取り上げて報告した。西洋中世史のゼミだが、「自分」自身それほどヨーロッパには強い思い入れがなかったことがあるのかもしれない。ただし、チベットを取り上げたのは、その当時流行っていた「ニューアカ」(・・ニューアカデミズムの略)の旗手の一人であった中沢新一とは関係ない。
 ちなみに『チベット旅行記』は、高校時代のワンゲル(=ワンダーフォ-ゲル)の部室に積んであった雑誌「山と渓谷」のバックナンバーで紹介されていて初めて知った。日本を出発する際の河口慧海を描いた挿絵が、画像記憶として私のなかにある。


 話がそれてしまったが、19歳(?)くらいの時点で、こういう本を選択したということは、自分にはよく説明できないながらも、問わず語りに自分を語ってしまっていることになるのだろう。

 「~が好き」と表明することは、間接的な仕方による「自分発見」ということになる。そして、そのことがゼミでの課題の意味であったのだろう。

 『自分のなかに歴史を読む』として一冊にまとめられたのは 1988年、私が卒業した後のことである。在学中から卒論テーマの設定にあたって、上原専禄先生から言われた話などエピソードとして何度も聞いていたが、ゼミ合宿での課題とは、まさに「自分のなかに卒論テーマを見つける」ための誘導であったのだと、いまになってからは理解できる。

 なお、卒論として選んだテーマと、なぜそのテーマを選んだかについては、『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・ において、25年後に振り返って書いてみた。

 結局、私の場合も、卒論テーマ自体はは卒論執筆後はとくに継続的に探求してはいないものの、そのテーマを選択したということの意味は、その後の人生を暗示しているような気がしないでもない。


 その後、私が卒業した後は、ゼミにおいての問いかけの様式が変わったらしい。学長に選出されて多忙ななか、学生たちの求めに応じて開いた自主ゼミでは、以下のようなことが行われたようだ。
 『日本人はいかに生きるべきか』(阿部謹也、朝日新聞社、2001)という本に収録された「大学で何を学ぶか」という講演録で以下のように述べられている。


 まず最初に、一年生の学生に、自分のこれまでの18歳くらいまでの人生を、とくに両親との関係、兄弟・友人との関係、高校の教師との関係を中心にして、400字詰め20枚くらい書いてもらった。そしてそれをみんなの前で話してもらうのです。それが厭な人は、自分が好きな絵とか音楽とか小説を紹介する、ということにして始めたわけです。
 私のゼミでは20年前からそういうことをやっているんですが、・・(中略)・・。
 けれどもその小説家は20歳までの体験で作品が40まで生きられるぐら書けるといっている。・・(中略)・・。
 まあ、そういう例は稀としても、私たちは、20歳までの体験というものを大事にする必要がある。それはなぜかというと、20歳までの体験で別に小説・詩を書かなくてもいいんですけれど、自分がどんな人間関係のなかにいたかを知ることが大事なんです。
 最近はしばしば雑誌とか新聞でよく「自分を発見する」とか「自己発見」とか「自分を見つける」とかいうんですが、これはほとんど言葉だけですね。「自分を見つける」とはどういうことか。自分というのはわかっているわけです。顔も知っているし、名前も知っているし、自分というものを知らない人はひとりもいない。それを改めて発見するとはどういうことかというと、結局他の人との、つまり親とか兄弟とか友人とか先生とか、その関係のなかに自分の身を置いてみること、その関係のなかで自分が育ってきたその過程をもう一回たどってみるということなんですね。それはもうひとつ進めて言えば、そのなかで自分の根が生まれてきていると言うことを確かめる、そこで自分が見えてくるという手続きなんですね、これをやってみる必要がある。(P.85~86)。

 18歳や19歳の人間にとっても、いままでの人生のなかでいかなる関係を他者ともってきたかをたどることは、自分の根っこを確認することになるわけなのだ。そしてその根っこを確認することなしには、自分の内側からテーマは生まれてこない、テーマを見つけることができないというわけなのだ。

 20歳までにその人の人生の大まかなところは決まってしまうと言ったのは、私の記憶ではたしか『長距離走者の孤独』を書いた英国の作家アラン・シリトーのことだったようだ。

 現代では平均寿命も延びているので、もう少し長めにとってもいいのかもしれないが、そうはいってもやはり 18歳くらいの時期でこの作業を行うことの意味はきわめて大きい。


「自分史」をつくるとは

 「自分史」をつくる作業とは、つまるところ、過去の振り返ることによって、未来に向けて生きる「自分」を再発見する作業のことだ。自分がかかわってきた人間関係のなかに身を置くことで、「自分」が現時点まで何であったのかということが再確認される。

 「自分史」とはパーソナル・ヒストリー、「人に歴史あり」というではないか。

 人間存在は歴史のなかで連続的なものである以上、これまでの「自分」を完全に断ち切ったり、まったく別の次元に飛躍したりすることなどできるはずがないのだ。だからこそ、現時点に至までの「自分」を再発見する行為は、未来に向けての「自分」をつくっていく作業ともなる。歴史というものは、個人のものであれ、組織のものであれ、民族や国家のものであれ、連続的で重層的な構造をもつ。

 自分の過去の軌跡をたどり直し、そこで得た成功体験も失敗体験もすべて含めた経験から学び直すこと。体験とはすべて実践の結果である。実践とはあくまでも自分というフィルターをとおして思考し、行動し、体験する行為のことである。

 一次情報、二次情報、三次情報という考え方があるが、「自分史」においてもっとも大事な情報とは、一次情報のことだ。自分が直接体験したことによって得た情報が、一次情報の最たるものである。
 マスコミの情報でも、人の話であっても、「自分のフィルター」をとおして、自分なりの感想やコメントをつけたものは付加価値のついた 1.5次情報であるといってもよいが、やはり中心になるのは一次情報である。

 自分がかかわった出来事を、自分の主観的な選択のもとに、自分にとっては「外部環境」である社会全体の出来事とリンクさせながら、自分自身の年表を作る。
 具体的な作業は、そのようなものになる。

 「自分史」とは、自分が生きてきた軌跡を、自分が生きてきた時代の向き合って、一次情報をしっかりと整理し、歴史のなかに位置づける作業である。

 さきにも書いたように、仕事人にとっての「履歴書」は、それだけでは「自分史」ではないが、実は「自分史」の一構成要素となりうるものである。

 ほんとうは、つねにアクション(=行動)とリフレクション(=省察)の往復運動を日々行うことが望ましい。だが極度に多忙であると、流されてしまって「自分」についてリクレクションを行うヒマがないし、またたとえできたとしても浅いものになりがちだ。

 その意味でも、リストラや転職、定年退職という節目は、「自分史」を振り返るには適しているといえる。

 私がこのブログで、「自分」を全面に出して書いているのは理由がある。

 書くことによって、自分を徹底的に掘り、そこであらたな発見を見出す喜びがあるからであり、また完全な客観性というものは実のところ存在しないと考えているからでもある。

 あくまでも「自分」というフィルターを通ったものが文字として記されているのであり、同じ事象をみても見る人によって異なる見解をもつのは当然のことだからだ。だから、読む人はバイアスがかかっていることを前提にして、読者自身の「自分のフィルター」で判断していただきたい。


歴史には、飛躍も断絶もない。現在は過去の堆積の上にある。未来は現在の延長線上にあるが、確率論的にしか捉えることはできない
 
 企業で行う理念つくりにおいても、まずなすべきことは「社史」の作成だ。「自分」と対比させれば「自社」。その歴史は「自分史」と対比させれば、「自社史」というのが正確なところうか。

 「温故知新」というわけではないが、現時点にいたるまでの組織の過去をたどることなく、未来について考えたり語ったりすることはできない。これを踏まえて、将来に向けてのビジョンや、理念があらたに再構築されることになる。

 歴史には、飛躍も断絶もない。いっけんそう見えたとしても、歴史はあくでも時間的には連続的(シーケンシャル)で、かつ重層的な積み重なっていくという構造をもっている。

 現在は過去の堆積の上にあり、未来は現在の延長線上にある。原因と結果の無限連鎖であるといってもいいだろう。ただし、未来がどうなるかは、現時点では決定論的にではなく、確率的に捉えることしかできない。原因と結果は一対一の関係にあるが、一つの結果は、無数の原因に対応しているので、決定論とは根本的に異なるからだ。

 「自分」も「自社」も、そのまわりを取り囲む「外部環境」と自らの内なる「内部環境」が交差する点にうえに存在する。「外部環境」も「内部環境」も、ともに時々刻々と変化する。したがって、未来は二つ以上の複数の変数の掛け算によって表現されることになる。現在より先の時点の姿は、確率論的にしか捉えることができないのである。

 「現時点までの自分」が変化した結果が「未来の自分」である。だから重要なことは、過ぎ来し方、すなわち現時点以前の過去を知ることなしに、未来も含めた「自分」を知ることができないのである。

 いずれにせよ、「自分史」をつくることは、現時点から先の未来について考えるための重要な基礎作業となるといってよい。






<ブログ内関連記事>

『ユダヤ教の本質』(レオ・ベック、南満州鉄道株式会社調査部特別調査班、大連、1943)-25年前に卒論を書いた際に発見した本から・・・
・・卒論として選んだテーマ、なぜそのテーマを選んだかについて、25年後に振り返って書いてみた

書評 『新・学問のすすめ-人と人間の学びかた-』(阿部謹也・日高敏隆、青土社、2014)-自分自身の問題関心から出発した「学び」は「文理融合」になる


自分史

「知識が先か、経験が先か・・」-人生の「棚卸し」をつうじて考えてみる


「地頭の良さ」は「自分」を知って深掘りすることから始まる(シリーズ)

「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない

書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくる

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ

「地頭」(ぢあたま)を鍛えるには、まず「自分」を発見すること。そのためには「履歴書」の更新が役に立つ

思考と行動の主体はあくまでも「自分」である。そして「自分」はつねに変化の相のもとにある

(2014年3月20日 情報追加)


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