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2010年12月17日金曜日

「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)-「自分」を軸に据えて思考し行動するということ




「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)に共通するものとは?

 「修身斉家治国平天下」(礼記) と 「知彼知己者百戦不殆」(孫子)。

 のっけから漢字の羅列で辟易(へきえき)されるかも知れない。

 儒教の徳目として原理原則にもあたる「修身斉家治国平天下」。「しゅうしん せいか ちこく へいてんか」と読む。出典は『論語』ではなく、四書五経の一つ『礼記』の「大学」である。

 ネット上で無料で公開している「デジタル大辞泉」の解説を引けば、「修身斉家治国平天下」とは、天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にすべきである」とある。

 これが一般的な理解であろう。
 
 一方、戦略論としても著名な孫子の名言 「知彼知己者百戦不殆」は読み下すと、「彼を知りて己を知れば、百戦して殆うからず」となる。これに続いて、「彼を知らずして己を知れば、一戦一勝す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとにかならず殆うし」。

 俗にいう「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という格言として知られている内容に同じである。意味はあえて書くまでもないと思うが、「敵についてよく知り、自分についてもよく知っていれば、百回戦ってもまったく危ういことない」となろう。

 軍事戦略のみならず、経営戦略でも、人生戦略についても当てはまる至言である。

 さて、一方は儒教の徳目、他方は道教の影響も受けている孫子の戦略論である。いったい何が共通するのか、という問いが当然のことながら出てくるであろう。

 結論から先に言っておこう。

 両者に共通するのは、何よりも「自分」を思考と行動の中心に置いていることだ。


「修身斉家治国平天下」とは、「自分」を軸に置いたマネジメント論のことである

 孫子の「知彼知己者百戦不殆」については「己を知る」という表現にあらわれているように、「己」(おのれ)とは「自己」の「己」である。これは「自分」といいかえても問題はないだろう。

 「修身斉家治国平天下」と書いて、「しゅうしん せいか ちこく へいてんか」と読む。その心は、何よりも「自分」のセルフマネジメント(=自己管理)を軸において、マネジメントの範囲を同心円状に広げていくということだ。

 「自分」のマネジメント(=修身)から「家庭」のマネジメント(=斉家)、そして「国」のマネジメント(=治国)、そして最終的には「天下」のマネジメント(=平天下)と、量的な規模拡大に応じて質的な意味も変化していく。それぞれの段階ごとに、マネジメントの技術レベルを向上させなければならないことはいうまでもないが、その基礎。その核心においてセルフマネジメントがなければ、誰も人はついてこないというわけなのだ。

 儒教の徳目だからといって、あまり倫理道徳的に捉えすぎるべきではない。これは精神論を語っているのではなく、マネジメントの階層と技術について語っているのだ。
 
 「修身」と書くと、明治以降の教育について話をするのかといわれそうだが、私はそもそも儒教は好きではないし、いわゆる「修身」なるものには明確に距離を置きたいと考えている。
 儒教が浸透し始めて以来、とくに明治以降は「修身」を国民道徳の基礎に据えたのは、政府の立場からみた国民統治にとって都合がよかったからである。
 つまり governable people としての臣民(subject)を作り出すための「修身」強調であったわけだ。このことを忘れて、昔が良かったとノスタルジーめいた口調で語るのはナンセンスきわまりない。

 私の独断と偏見による解釈では、「修身斉家治国平天下」とは、セルフマネジメントを基礎としたマネジメント技術の階層構造についての発言だとみなしている。
 つまり究極的には、「自分」を中核に置いた思考と行動なのであると。
 「修身斉家治国平天下」においていう「身を修める」とは、抽象的な精神ではなく、具体的な身体を備えた「自己」、あるいは「自分」について語っているのである。


「自分」とは何か?「自分」を知るための方法論の一つとは?

 ではその「自分」とは何か、という問いが次に来ることになる。

 「自分」とは何か、しかしその答えは「自分探し」からは得ることはできない。
 「自分探し」などしても、まず絶対に「自分」など見つかることはない。探さなくても「自分」はいまそこにいるではないか。

 要は、「自分」について気がついていない、十分に自分を掘り下げていないから気づいていないに過ぎないのだ。

 「自分」とは何かと考えるとき、ふたたび孫子の「知彼知己者百戦不殆」に戻ってくることになる。「自分」だけを見つめていても「自分」は見えてこないからだ。

 孫子が言う「知彼」(彼を知る)に注目してみよう。

 孫子の文言だけを見ていると、「彼」と「己」は対概念であって、まったく関係のない存在であるかのように感じるかも知れない。

 ドイツの政治学者カール・シュミットが打ち出した有名な概念「友-敵」理論に代表されるように、「自分」を軸にして、「友」と「敵」を区分する思考は西洋的であるといっていいだろう。ここにおいては、「友」と「敵」は厳しく峻別される。

 しかし、孫子の言う「彼」は、必ずしも「敵」を意味しているわけではないのではないか。むしろ「己」が「自分」であれば、「彼」は「他者」というべきであろう。しかも、まったく無縁の「他者」ではなく、対立関係であるとすれば「敵」、友好関係であれば「友」となりうる「他者」である。

 実世界では、「昨日の敵は今日の友」といったことはよくあることだし、ビジネスの現場においても「競争と協調」は日常茶飯事である。

 「己」と「彼」とのあいだにあるのは、まさに関係である。関係性といってもいいだろう。
 
 つまり、「彼を知る」ことは、他者との関係性のなかにある「己」にとっても、「己を知る」一つの重要なキッカケになるわけだ。

 「彼」を鏡にして「己」を見る。「彼」を知る、その知り方に「己」の思考のクセがすべて反映される。「己」あってこその「彼」。「己」と「彼」という二者は、すでに無縁な存在ではない。

 「彼」の存在によって変化を被る「己」がいる。
 ただし、あくまでもこれは間接的な方法によって知る「自分」である。
  
 「自分」自身を掘り下げることによって「自分」を知るという方法がある。重要なのは、あくまでも「自分」を知ることであって、「自分」をむりに理想型に向けて変えることではない。ある意味では正確な「自己認識」が必要だといっていいだろうか。

 これについては引き続き書いていく事としたい。






PS 今回あらたに「修身斉家治国平天下」を図解して示すことにした。(2014年8月26日 記す)


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「初めは処女の如く、後は脱兎の如し」(孫子)


■「地頭の良さ」は「自分」を知って深掘りすることから始まる(シリーズ)

「地頭」(ぢあたま)について考える (1) 「地頭が良い」とはどういうことか?

「地頭」(ぢあたま)について考える (2) 「地頭の良さ」は勉強では鍛えられない

書評 『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』(ヒクソン・グレイシー、ダイヤモンド社、2010)-「地頭」(ぢあたま)の良さは「自分」を強く意識することから生まれてくる



P.S. 本年度 350本目の投稿。あと15本で本数だけみれば、1年365日「毎日更新」達成することになる。まあ、いつものことながら、「追い込まれなければ火がつかない自分」であることよ。

(2014年8月26日 情報追加)





(2012年7月3日発売の拙著です)






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