2010年12月21日火曜日

I am part of all that I have met (Lord Tennyson) と 「われ以外みな師なり」(吉川英治)


 I am part of all that I have met. という表現が英語にはある。

 直訳すれば、「私は、私がこれまで遭遇してきたすべてである」とでもなろうか。

 「自分」というものが、いまのいままで生きてきたなかで出会ったすべてと、いいものであれ悪いものであれすべての経験から形作られてきたものであることを語って余すことのない表現である。

 出典は、19世紀英国の桂冠詩人テニスン卿(Lord Tennyson)、『ユリシーズ』(Ulysses)という長詩の一節である。ユリシーズとは、ギリシア神話の英雄オデュッセウスのこと。出征したのち、部下たちとともに20年間の放浪の旅を経て、ようやく故郷に戻ってきた英雄である。以下、この一節につづく詩の一部を参考のために掲載しておこう。 

Ulysses (by Lord Tennyson)

I am part of all that I have met;
Yet all experience is an arch wherethrough
Gleams that untravelled world, whose margin fades
For ever and for ever when I move.
How dull it is to pause, to make an end,
To rust unburnished, not to shine in use!
As though to breath were life. Life piled on life
Were all too little, and of one to me
Little remains: but every hour is saved
From that eternal silence, something more,
A bringer of new things; and vile it were
For some three suns to store and hoard myself,
And this grey spirit yearning in desire
To follow knowledge like a sinking star,
Beyond the utmost bound of human thought.


 日本には、『宮本武蔵』で知られる国民作家・吉川英治に、「われ以外みな師なり」というコトバがある。
 ちなみに、吉川英治の『宮本武蔵』は、マンガ『バガボンド』の原作である。

 私はこの「われ以外みな師なり」というコトバを、はるか昔に日めくりカレンダーで見て以来、座右の銘としてきた。

 「われ以外みな師なり」とは、謙虚な姿勢の表明であるが、ある意味では貪欲な姿勢の表明である。自分以外を師匠として、なんでも見てやろう、なんでも観察してやろう、なんでも取り入れようという姿勢は、謙虚さの表明であるとともに、きわめて意欲的な人生態度を示していると、私は解釈している。

 さらにいえば、人間だけでなく、イヌやネコも、そして生物以外の森羅万象から「学ぶ」という意味で受け取っている。

 そしてまた、起こったことはすべて、「ありのままの現実」として受け入れるしかない。いいことも悪いこともすべてひっくるめて自分のものとして取り入れる。

 『起こったことはすべて正しい』というタイトルの本を出版した経済評論家がいるが、このタイトルは正確にいうと正しくない。
 なぜなら、正しいか正しくないかは価値判断そのものであって、事実そのものとは異なる。価値判断は解釈であって事実ではない。事実と解釈は区分しなければならない。起こったことがすべて「正しい」かどうかは、あくまでも主観的な解釈でしかない。

 否定できないのはただ一点、すなわち、起こったことは「事実」として起こったのであって、否定しようが、回避しようが、「ありのままの事実」として受け止め、受け入れなければならないということだ。

 とはいえ、「見たくない現実」を見せられたとき、「否認 ⇒ 怒り ⇒取引 ⇒ 抑うつ ⇒受容」という一連のプロセスがあることが知られている。

 これは、終末期を専門にした精神科医エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』(On Death and Dying)で示した「死ぬということを受容するプロセス」からきているが、「死にゆく」という、人間にとってもっと厳粛でかつ避けることのできない「事実」を受け入れるまでの心理プロセスを、膨大な観察から導きだした結論である。

 「死にゆく」ほどつらくないことであっても、見たくない、目を背けたい事象については、「否認 ⇒ 怒り ⇒取引 ⇒ 抑うつ ⇒受容」という一連のプロセス誰もが体験するのである。
 これは私自身についても、「自分」の経験上確認してきている。

 もちろん、正直なところ、最終的な「受容」に至までの心理的な葛藤(かっとう)は、短く済む場合もあれば、何年にもわたって続くことがある。しかし、いずれにせよ「受容」することによって、人は自分の人生に折り合いをつけなくてはならないのである。

I am part of all that I have met.
「私は、私がこれまで遭遇してきたすべてである」

 いいことも悪いことも含めたすべてが、現在の私を作り上げている。
 「現在の私」は、短くいえば、この世に生を受けてから現時点に至までの時間の蓄積のことである。

 だからこそ、師匠も反面教師も全て含めた「われ以外みな」が「師なり」なのである。

 



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『サリンとおはぎ-扉は開くまで叩き続けろ-』(さかはら あつし、講談社、2010)-「自分史」で自分を発見するということ

(2014年2月10日 情報追加)





(2012年7月3日発売の拙著です)






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