(「塙保己一史料館」に保管されているすべての版木 筆者撮影)
「塙保己一史料館・温故学会」(東京・渋谷)を初めて訪問してきた(2019年7月3日)。
「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)の版木(はんぎ)を見るためである。
「塙保己一史料館・温故学会」は、まさに文字通り谷底にある渋谷駅から、國學院大學方面に歩いて行く坂のうえの高台にある。近くには氷川神社もある。国学者であった塙保己一にはふさわしい立地である。
■「群書類従」とは
「群書類従」は、江戸時代後期の盲人の大学者・塙保己一(はなわ・ほきいち、1746~1821)が40年がかりで取り組んで完成させたプロジェクトだ。
古代から江戸時代までの国文学と国書にかんする書籍を集成した一大ライブラリーで、全666巻(+目録が1巻)ある。いまからちょうど200年前の1819年(文政2年)に完成した。そのとき塙保己一は74歳、生きているあいだに満願成就したのである。
何ごとであれ、物事にはタイミングというものがある。行きたいと思いながらも、あっという間に数年たってしまったが、今回はじめて訪問できたのはたいへんうれしい。そもそも中学生の頃に「群書類従」のことを知ってから、すでに40数年はたっている。
(版木はこのように整理され保管 筆者撮影)
■江戸時代の出版物はすべて木版
江戸時代の出版は、すべて木版(もくはん)であった。手で版木(はんぎ)を彫って、手で刷るのである。そして和綴じ本として製本する。「温故学会」には、その版木がすべて収められているのだ。
職員の方に案内してもらって、17,244枚ある版木をすべて収めた倉庫(書庫というべきかな)を見学させていただいた。
劣化を避けるために太陽光が入らないようにしているため、版木の保管庫は薄暗いが、版木を収めた部屋全体に版木と墨がまざった独特の匂いが立ちこめている。見るだけでなく、五感を全面的に開いて感じ取る。
(保管庫のなかで見せて頂いた版木の実物 筆者撮影)
版木も取り出して見せて頂き、しかも手で触らせてもらった。版木は、ウラとオモテの両面に彫られている。版木の材質は山桜だという。山桜は硬いのである。200年たっている版木も、反りはない。
なんといってもホンモノを見るに限る。「群書類従」の版木を見ることができて感銘しているとともに、長年の懸案事項が解決して安堵を感じている。
■現在でもオンデマンドで印刷している!
江戸時代以降も現在に至るまで、リクエストがあれば有償で刷っているそうだ。和紙に墨で刷るのである。木版画の要領だ。
もちろん手作業なので、時間がかかる。1冊あたり7~8千円から1万円くらいだそうだ。まさにオン・デマンド・プリンティングである。外国人の日本研究者からのリクエストもあるそうだ。
(現在の刷り本の実物 筆者撮影)
つまり、一巻も欠けることなく保管されている「群書類従」の版木は、現在も使用されているののだ。
しかも、「群書類従」の版木は、安政大地震や関東大震災など度重なる自然災害や戦災を生き抜き、1つも欠けることなく現在まで保管されてきた。
まさに日本の宝であり、いや世界の宝だというべきだろう。
(サンプルとして頒布している「竹取物語」の冒頭 筆者撮影)
■塙保己一は7歳のとき全盲になった
それほどの大事業を実現した塙保己一だが、じつは全盲であった。どうやって、本文確定という精緻な作業が可能だったのだろうか?
塙保己一は、5歳のときに病気で視力を失い、7歳で完全に失明し全盲となった。学者になってから全国を回って収集した蔵書が6万冊、そのすべての内容を記憶していたのだという。驚くしかない。
(温故学会前に設置されている塙保己一の座像 筆者撮影)
協力者たちによって朗読してもらって耳で聴き、すべてを記憶したのだそうだ。恐るべき記憶力である。アタマのなかにある情報をもとに、各種の異本からテクストの本文確定作業を行ったのであった。じつに根気のいる精緻な作業である。
塙保己一は、この大プロジェクトを生きているあいだに完成することができたのは幸いだった。もちろん、本人の強靱な意志のチカラの賜物ではあるが、協力者にめぐまれ、大プロジェクトを遂行するためのマネジメント能力を備えていたのであろう。
(ヘレン・ケラーがなでまわしながら涙を流したミニ銅像 筆者撮影)
塙保己一の話を母親から教えてもらっていたヘレン・ケラーは、1937年(昭和12年)に初来日した歳、温故学会を訪問して塙保己一のミニ銅像をなでまわしながら涙を流したそうだ。いまから80年以上前になる。
塙保己一は、彼女にとってのロールモデルなのであった。そのミニ銅像も保管されている。
■「群書類従」完成(1819年)から200年
職員の方の話を聞くまで気がつかなかったのだが、ことし2019年は、「群書類従」完成(1819年=文政2年)から200年にあたるのである。
なんという偶然であろうか! 念願かなって初訪問したのが、そんな記念すべき年にあたっているとは。
不思議な縁というものを感じざるをえない。
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