2021年3月31日水曜日

書評『西洋の自死 ー 移民・アイデンティティ・イスラム』(ダグラス・マレー、東洋経済新報社、2018)ー かつて世界を支配したこともある「文明」は滅亡へと向かう不可逆のプロセスにある

 

人類の歴史において数多くの「文明」が勃興し、また滅亡していった。19世紀以来、世界を支配してきた「西欧文明」もまた、滅亡に向けて不可逆のプロセスにある。 

『西洋の自死-移民・アイデンティティ・イスラム』(ダグラス・マレー、東洋経済新報社、2018)は、「西欧文明」の死に至るプロセスを英国人ジャーナリストが現地取材と深い考察をもとに描いたベストセラーの日本語版だ。500ページを超える大冊だが、意外と読みやすかった。  

日本では、内藤正典氏がトルコ人移民を中心としたヨーロッパ社会各国(とくにドイツなど大陸国家)についてフィールドワークを行ってきた結果を書籍として読むことができるが、本書『西洋の自死』は英国人ジャーナリストの手になるものだけに、あまりよく知られていない英国の事例も多い

ジャーナリストによる現場取材だけでなく思想面も踏まえた考察が、本書をして読ませる診断書にしている。問題の根は、きわめて深いのだ。



■「移民」「アイデンティティ」「イスラム」

「移民」「アイデンティティ」「イスラム」は、英語原文では「immigration, identity, islam」とすべて「i」で始まる単語である。




第2次世界大戦後の「労働力不足」を補うために導入した「移民」だが、その多くを占めたのが、かつて植民地支配を行った中東アフリカのイスラム圏の人びとであった。

移民が少数派であれば、「多文化共生」などの美辞麗句も、問題をもたらすこともなかったであろう。 

だが、いったん受け入れが始まったら最後、その増大に歯止めが効かなくなる。

「ガストアルバイター」(*Gastarbeiterはドイツ語、英語なら guest worker)として、ドイツを含め西欧各国にやってきたトルコ人を中心とした人びとは、家族を呼び寄せて「移民」となり、そして本国に帰還することなく定住していく。

移民増大に歯止めがかからなくなったのは、シリア問題をきっかけに、中東アフリカからの「難民」を無制限に受け入れることになったからだ。政治指導者たちが有権者の意向を無視して決めてしまったからだ。その最大の責任者はドイツのメルケル首相である。 




ナチスからユダヤ人を救わなかった「自責」(の念)、「良心」(の呵責)といった罪悪感、それぞれ反省としては重要だ。「人道主義」は、素晴らしいことばである。反論することは難しい。だが、こういったことばは軽くなり、ほとんど意味をもたないことばになってしまっている。 

2015年にピークを迎えたテロの嵐は、現在は過ぎ去って小康状態にあるが、日常生活のなかで発生する犯罪(とくに女性に対する性犯罪)が隠蔽され続けている。

とくに女性が犯罪のターゲットになっているのは、イスラム世界では、女性が1人で行動することなどないからだ。イスラム教徒の若い男性による集団レイプが後を絶たない理由がそこにある。だが、警察が動けないのは、上位機関がストップをかけるからだ。見て見ぬ振りがまかり通っている。

現実問題から目をそらそうとした政治指導者とメディアは共犯者である。エリートたちの罪はきわめて大きい。

マクロレベルではキレイ事を言い続けながら、日常生活というミクロな領域で発生するコンフリクトを黙殺し、隠蔽させようとしてこた政治家とメディアは共犯者である。かれらの罪は、きわめて重い。



■「イスラム化」はもはや不可逆の流れ

出生率の違いから、イスラム教徒の人口は増大する一方であり、2050年には西欧諸国の人口の2割近くがイスラム教徒になると推定されている。 たとえこれ以上の移民の流入を止めたとしても、もうすでに遅いのである。

この比率は、さらに進んでいくことだろう。そして、西欧全体がイスラム世界となっていくのであろうか? 

自分たちの「アイデンティティ」が変容し、もはや後戻りのきかない状態になってしまったことに気づいたのが、あまりにも遅すぎたのである。

「極右」とレッテルを貼られたポピュリズムの動きは、有権者を欺きつづけた上層階級への異議申し立てなのである。これは、大衆のエリートに対する反乱と捉えるべきであろう(第14章)。フランスの人口学者エマニュエル・トッド氏が警鐘を鳴らし続けていることでもある。

EUに加盟しながらも、「壁」を建設して、かたくなに「難民」流入を拒否しているのが中欧諸国だ。ハンガリーやチェコといった国々である。旧社会主義圏の50年の歴史が、西欧とは異なる道を選択させる要因となっているのであろう。 西欧社会に見られる「精神的・哲学的な疲れ」(第13章)は、それほど大きくないように見受けられる。 

「西欧文明」は、ドイツを除いた中欧社会に生き続けることになるのかもしれない。 著者はそうとは言っていないが、私はそのように感じた。


■日本国民は「他山の石」と捉えよ

日本語版に「解説」を寄稿している評論家の中野剛志氏は、反グローバリゼーションの立場にいる論客だが、日本もまた「自死」を迎えつつあると警告している。その通りであろう。 

もはや外国人労働者抜きに日本社会が成り立っていないことは、「常識」といっていい。はたして日本も、西欧のようになってしまうのか、それとも回避できるのか? 

西欧社会の現状は、「他山の石」としなくてはならないのである。 


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目 次
[解説] 日本の「自死」を予言する書(中野剛志) 
イントロダクション 
第1章 移民受け入れ論議の始まり 
第2章 いかにして我々は移民にとりつかれたのか 
第3章 移民大量受入れ正統化の「言い訳」 
第4章 欧州に居残る方法 
第5章 水葬の墓場と化した地中海 
第6章 「多文化主義」の失敗 
第7章 「多信仰主義」の時代へ 
第8章 栄誉なき予言者たち 
第9章 「早期警戒警報」を鳴らした者たちへの攻撃 
第10章 西洋の道徳的麻薬と化した罪悪感 
第11章 見せかけの送還と国民のガス抜き 
第12章 過激化するコミュニティと欧州の「狂気」 
第13章 精神的・哲学的な疲れ 
第14章 エリートと大衆の乖離 
第15章 バックラッシュとしての「第二の問題」攻撃 
第16章 「世俗後の時代」の実存的ニヒリズム 
第17章 西洋の終わり 
第18章 ありえたかもしれない欧州 
第19章 人口学的予想が示す欧州の未来像 
あとがき(ペーパーバック版) 



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2021年3月29日月曜日

書評『イスラームからヨーロッパをみる ー 社会の深層で何が起きているのか』(内藤正典、岩波新書、2020)ー イスラームとの「共生」が破綻した西欧社会の現実を見よ


2015年のフランスの「シャルリ・エブド事件」をきっかけに、ヨーロッパ社会における「イスラム問題」が、もはや解決不能の域まで達していることが誰の目にも明らかになった。それから、すでに5年以上たっている。 

積ん読のままだった『イスラム化するヨーロッパ』(三井美奈、新潮新書、2015)を読んでみた。2015年の「シャルリ・エブド事件」の衝撃を受けて出版されたものだ。  

事件が起こった時点で読売新聞のパリ支局長だった著者による現地レポートである。ナマの声を拾い上げることで、できるだけ問題を公平に見ようとする姿勢が好ましい。 


■ヨーロッパ社会におけるムスリム移民をフィールドワークしてきた研究者の結論

前座につづけて『イスラームからヨーロッパをみる-社会の深層で何が起きているのか』(内藤正典、岩波新書、2020)を読んだ。昨年7月に出版されたものだ。こちらが今回のメインである。  

内藤正典氏は、過去40年にわたって、ヨーロッパにおけるムスリム移民を、ドイツを中心とした西欧各国のトルコ人社会を中心にフィールドワークによって研究してきた研究者である。

内藤氏の視点が興味深いのは、イスラム教徒の生活世界から、現代ヨーロッパ社会を逆照射するものだからだ。ヨーロッパ社会をみる独自な「視点」の1つとして、じつに得がたいものである。 

本書は、2020年という現時点における総括ともいうべき内容だ。「共生」は破綻したというのがその結論である。

「おわりに 共生破綻への半世紀」という最終章のタイトルから、著者のため息が聞こえてくるような気もするが、これが「現実」なのだ。その意味では、研究者としての態度は公平だし、良心的である。
 

「イスラム問題」にかんしては、米国社会よりも西欧社会のほうがはるかに深刻 

「移民問題」への異議申し立てもその理由の1つとなって、2016年には英国は国民の意思で「ブレクジット」(EU離脱)を決定、おなじ年に選出されたトランプ元大統領が、物議を醸すヘイトスピーチを連発したことでヘイトクライムが誘発され、BLM(Black Lives Matter) などの運動が米国内で激化したことは記憶に新しい。

最近ではアジア人に対するヘイトクライムも急増しており、ALM(Asian Lives Matter)も叫ばれるようになっている。不景気が続くと不満のはけ口は少数派に集中するようになる。多文化の「共生」は、そう簡単なことではない。
 
だが、「イスラム問題」にかんしては、米国社会よりも西欧社会のほうがはるかに深刻なのだ。 米国の黒人差別もアジア人差別も、宗教に由来するものではないのに対して、西欧社会のイスラム教徒問題は宗教に由来するものだからだ。 

聖俗分離が原則の近代以降のキリスト教と、聖俗一致が原則のイスラム教との根本的違いに起因する問題だ。世俗化されている西欧では、この違いが先鋭化するが、宗教国家としての性格の強い米国では、かならずしもそうではないという違いでもある。 

2020年以降は「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のため、ヨーロッパ社会における「イスラム問題」が見えにくくなっているが、けっして問題が解決したわけではない。 

そもそもイスラーム世界の混乱をつくりだしたのは19世紀以降の西欧であり、第2次世界大戦後の労働不足から積極的に導入したのがイスラム世界からの移民であったが、そのツケを払ったというにしては、あまりにも大きすぎる代償というべきではないだろうか。 

「共生」というのは美しい響きのことばだが、現実世界ではキレイ事ではすまされない。今後の日本社会のあり方を考えるにあたって、先行事例となっている西欧社会の状況は、「他山の石」としてつぶさに見つめるべきである。 

そのためにも、『イスラームからヨーロッパをみる』は、好著というべきであろう。 






目 次
はじめに 
序章 ヨーロッパのムスリム世界 
1章 女性の被り物論争 
 1 ムスリム女性の被り物をめぐって
 2 政教分離と被り物
 3 ヨーロッパ各国での状況
2章 シリア戦争と難民
 1 難民危機
 2 難民問題の原点
 3 国際社会と難民
3章 トルコという存在
 1 難民を受け入れた国、トルコ
 2 トルコのEU加盟交渉は、なぜ途絶したのか
 3 トルコの政治状況から読み解く 
4章 イスラーム世界の混迷
 1 「イスラーム国」とは何だったのか?
 2 アメリカによる戦争
 3 ヨーロッパと「イスラーム国」
5章 なぜ共生できないのか
 1 ヨーロッパ諸国の政治的な変動
 2 ドイツ さまざまな立場からのイスラームへの対応
 3 イスラームとヨーロッパ
おわりに 共生破綻への半世紀
あとがき


著者プロフィール
内藤正典(ないとう・まさのり)
1956年生まれ。79年東京大学教養学部教養学科(科学史・科学哲学分科)卒業。1982年同大学院理学系研究科地理学専門課程中退、博士(社会学・一橋大学)。一橋大学大学院社会学研究科教授を経て、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授、一橋大学名誉教授。専門分野は現代イスラーム地域研究。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


■内藤正典氏の著作で「共生」破綻への道のりを知る

参考のために、このテーマにかんする内藤正典氏の前著の目次を示しておこう。状況の変化と、研究者としての認識の変化をしることができるだろう。

いずれも、その時点でのフィールドワークにもとづいた研究成果であり、私も大いに学ばせていただいてきた。
 
「逆回し」であたらしいものから、順番にさかのぼっていくことにする。



第2章 ヨーロッパ・共存と差別のダブルスタンダード
 1. イスラームとヨーロッパ
  宗教から民族へ
  ヨーロッパにいかに対抗するか
  イスラームと西欧システムの相克
  植民地支配の反省がないヨーロッパ
  ヨーロッパに渡ったムスリム
  国によって移民政策が異なるヨーロッパ
 2. イギリス-多文化主義のもとでの差別
  民族文化に「寛容」な連合王国
  失業と階級差別
  ムスリム移民への「分割統治」
  「寛容な精神」の影
 3. オランダ-相互不干渉が生んだ「耐えられない隣人」
  コミュニティごとの権利を認める「柱状化」
  社会に定着しているリベラリズム
  定着外国人権利
  相互理解が進まない「柱状化」
  敵意をもつようになった市民
  映画監督の死
  EU加盟反対にまで発展
 4. フランス-コミュニティ形成を認めない社会
  「博愛」の意味
  ごろつき
  バンリュウ「嫌なところ」
  原則と実態の乖離
  フランス化できなかった移民
  公的領域における非宗教性
  スカーフの着用禁止
  世俗化は近代化か
  スカーフが「これみよがし」なのか
  アファーマティブ・アクションができない
  国家原則とイスラーム法の対立
  ごろつきから信仰の道へ

「目次」をみればわかるように、同じヨーロッパといってもドイツ型、オランダ型、フランス型の対応はそれぞれ異なる。「同化」を求めるドイツ(・・政教分離を徹底するフランスもまた個人レベルでの「同化」を求める)、多文化主義の立場に立つオランダと英国。

 
序章 ヨーロッパ移民社会と文明の相克
1章 内と外を隔てる壁とはなにか-ドイツ
 1. リトル・イスタンブルの人びと
 2. 移民たちにとってのヨーロッパ
 3. 隣人としてのムスリムへのまなざし
2章 多文化主義の光と影―オランダ
 1. 世界都市に生きるムスリム
 2. 寛容とはなにか
 3. ムスリムはヨーロッパに何を見たか
3章 隣人から見た「自由・平等・博愛」―フランス
 1. なぜ「郊外」は嫌われるのか
 2. 啓蒙と同化のあいだ-踏絵としての世俗主義
 3. 「ヨーロッパ」とはいったい何であったか
4章 ヨーロッパとイスラームの共生―文明の「力」を自覚することはできるか
 1. イスラーム世界の現状認識とジハード
 2. ヨーロッパは何を誤認したのか
あとがき
  
    
『アッラーのヨーロッパ-移民とイスラーム復興』(内藤正典、東京大学出版会、1996)から、ヨーロッパとのかかわりの部分を抽出しておく。

Ⅱ 何がイスラムの覚醒をもたらしたのか
 第3章 「民族」が共存を阻むドイツ
  1. 統合か、帰国か-外国人政策の基底
  2. 血統主義が阻む「統合」
  3. 閉塞的なエスニシティの状況
  4. 差別に対抗する力としてのイスラム
 第4章 フランスのムスリムか、フランス的ムスリムか
  1. 郊外からイスラムへ
  2. 何が排斥されるのか
  3. ライシテとの衝突
  4. もはや「個人の統合」は成り立たない
 第5章 多文化共生とみえざる差別・オランダ
  1. 文化の列柱
  2. 外国人労働者からエスニック・マイノリティへ
  3. エスニック・マイノリティから移民へ
  4. オランダは移民のユートピアか
  5. 病理への批判としてのイスラム復興  


<関連サイト>

西欧に対する「イスラムの怒り」とは?内藤正典・同志社大学教授に聞く(前編) (東洋経済オンライン、2015年1月26日)
・・「日本には「ライシテ」に合う訳語がないので、とりあえず「世俗主義」と訳しているが、単なる「政教分離」ではない。「政教分離」は「政治と宗教を切り離しなさい」程度の意味だ。しかし、「ライシテ」は個人が公の場で宗教を持ち出すことも禁じている。」

仏紙襲撃事件は、強烈な普遍主義同士の衝突 鹿島茂氏が読み解く仏紙襲撃事件(前編) (東洋経済オンライン、2015年01月21日)

「反イスラム」が高まれば法規制の議論も鹿島茂氏が読み解く仏紙襲撃事件(後編) (東洋経済オンライン、2015年01月23日)


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2021年3月28日日曜日

『スルタンガリエフの夢 ー イスラム世界とロシア革命(新しい世界史②)』(山内昌之、東京大学出版会、1986)ー「積ん読」すること35年! ソ連崩壊後もいまだ「諸民族の監獄」が残っている現在、この本の価値は失われていない

 

ホコリとシミだらけで汚れてしまっているが、新刊本として購入したのだ。正確にいうと「積ん読」ではない。35年間もおなじ場所に積ん読してたわけではない。この間、なんども引っ越しをしている。 

大学学部で「歴史学」を専攻したものの、「歴史ではメシが喰えない!」ことが十分過ぎるほどわかっていたので、大学院という「レッドオーシャン」に飛び込むような愚は犯さず、さっさと就職してビジネスパーソンになったわけだが、逆にサラリーマンであるから多少のカネがある。 

カネがあると目に付いたものが欲しくなる。というわけで、「新しい世界史」というシリーズ名に引かれて、この本を買ったわけだ。 

私自身、高校2年のときに1979年の「イラン・イスラム革命」をリアルタイムで知る機会をもった世代でもあり、イスラムに対する関心が高かったこともある。現在でこそ歴史家の山内昌之氏は有名人だが、当時はぜんぜん知られていなかったと思う。 


■スルタンガリエフとは?

『スルタンガリエフの夢』のスルタンガリエフとは、ロシア革命(1917年)の際、権力を握ったボリシェヴィキ内部で、主導権を握ったロシア人に対して、被支配民族となって苦しむタタール人の立場から異を唱えた革命家のことだ。ロシア革命で実権を握ったボルシェヴィキのメンバーであった。

「民族問題」の責任者であったスターリン(*彼自身もロシア人ではなくグルジア人であった)との確執を経て、最終的に逮捕され処刑された。社会主義革命は「階級」の解放を唱えたが、「民族」は解放されなかったのである。 

この本がでた1986年は、まだソ連が存在していた時代である。「ソビエト帝国の崩壊」を主張する小室直樹のような人もいたが、まさかソ連が崩壊するなどとは誰もが考えもしなかった時代である。ソ連が崩壊したのは、それから5年後の1991年のことだ。激動の時代だったのだ。 

「諸民族の監獄」と呼ばれていたソ連が崩壊して、その時点ではじめて「民族解放」がなされたわけだが、山内氏がソ連崩壊を機に旺盛な執筆活動を展開したのは、ソ連(ロシア)における民族問題、とくにイスラムという宗教アイデンティティをもつタタール人の歴史を徹底的に研究していたことが背景にあったわけだ。 

35年にわたる「積ん読」の末、今回はじめて通読してみたのだが、正直いってわかりやすい内容ではなかった。社会主義・イスラム・タタール。この3点が交差する点にスルタンガリエフがいたからだ。 


1986年時点の資料的な制約のため、スルタンガリエフの人物そのものについては、ほとんど書かれていない。ソ連崩壊後に明らかになった事実は、その後に執筆された『イスラムとロシア-その後のスルタンガリエフ(中東イスラム世界①)』(東京大学出版会、1995)などに記されている。この本も、今回はじめて読んだ。

読み終えるのに3日もかかってしまった。1986年の時点なら、なおさら理解に困難を覚えたことだろう。当時の自分の理解をはるかに超える内容であるからだ。 


■ソ連は崩壊したが、いまだ「諸民族の監獄」が残っている

かつて「諸民族の監獄」と呼ばれていたソ連が崩壊して、諸民族の多くが「解放」されることになった。タタール人も、ロシア連邦の枠組みのなかだが「タタール共和国」として自治権を獲得することになった。 

だが、もう1つ「諸民族の監獄」が残っている強権的な権威主義国家・中国である。チベット人、ウイグル人、モンゴル人その他の諸民族に対する人権弾圧は、かつてのソ連よりも酷いというべきではないか。 

その意味では、山内昌之氏による『スルタンガリエフの夢』は、いまだに「未完のテーマ」なのである。このテーマを先駆的に取り上げた本として、35年経った現在でも意味をもっているといっていいのだろう。 





目 次 
序章 イスラム・社会主義・ナショナリズム 
第1章 タタールとロシア 
第2章 民族と革命 
第3章 「異端」の社会主義 
第4章 並行する権力 
第5章 スルタンガリエフ主義、神話と現実 
終章 預言者スルタンガリエフ
あとがき
参照文献


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2021年3月27日土曜日

飯山陽氏の著書3冊を「逆回し」で一気読み-『イスラム教再考』(扶桑社新書、2021)・『イスラム2.0』(河出新書、2019)・『イスラム教の論理』(新潮新書、2018)

 
「イスラーム」と表記することが当たり前になっている現在の日本だが、それに異議を唱えて「イスラム教」とかたくなに表記する研究者がいる。 

「イスラム法」の研究で博士号を東京大学で取得した研究者で、アラビア語通訳の飯山陽(いいやま・あかり)氏だ。その孤軍奮闘ぶりは、 twitter で大いに発揮されている。 

3冊目となる新刊が出たので、ついでに3冊全部まとめて読んでみることにした。買ったまま「積ん読」となっていたからだ。読んだ順番は、最新刊の第3作から「逆回し」で第1作まで遡った。 


つづけて3冊読んだが、見解と主張は見事なまでに首尾一貫している。まったくブレがない。飯山氏の主張のエッセンスを、私なりに簡単にまとめておこう。 



■イスラム教の歴史1400年で「革命」としかいいようがない事態が発生

「神の法」が支配する「イスラム教の世界」は、日本人もそのメンバーである「近代世界」とは原理的に相容れない。なぜなら、後者の「近代世界」は「人間がつくった世俗法」によって支配されている世界だからだ。まったく異なる価値体系にもづく世界なのである。 

イスラム教の聖典である『コーラン』や『ハディース』に記されていることは、預言者ムハンマドを媒介にして神から啓示されたものであり、神のことばなのである。聖典に書かれている字句どおりにそのまま受け取ることが本来のあるべき姿なのである。これがイスラム教における原理原則だ。 

ところが実際には、イスラム法学者は世俗の権力者と癒着し、「神の法」を権力者の意向に沿って曲げて解釈してきた。問題が顕在化することはなかったのは、文字の読み書きを知らない一般民衆が、日々の暮らしに追われて疑問をもつことがなかったからだ。
  
これが、610年のイスラム教誕生以来、1400年にわたる長いイスラム史の実態である。 

状況が激変したのは、20世紀末から始まったインターネットと21世紀初頭以降の SNS の急速な発展である。これがイスラ世界でも「革命」ともいうべき事態を引き起こしたのである。

インターネットによって「聖典」に直接アクセスできるようになった結果、イスラム法学者によるイスラム教解釈の独占状態が崩壊してしまったのである。「聖典」に記されたことばはアラビア語で書かれているが、アラビア語が読めなければ自動翻訳機能をつかえばいい。 

ーー「なんだ、いままでイスラム法学者が説いてきたことと、聖典に書かれていることが違うではないか!」
--「いままで自分は騙されてきたのか?」 

そういった、心の奥底からの叫びがわき上がってくる人が急速に増えてきたのだ。

この状況をさして飯山氏はイスラム2.0」と命名している。 このネーミングはすばらしい。現象をじつに鮮やかに表現したキャッチーなものだ。『イスラム2.0-SNSが変えた1400年の宗教観』(河出新書、2019) は、その意味で必読書である。

イスラム教の歴史1400年のなかで、ほとんど「革命」としかいいようのない状況が発生しているのである。キリスト教の歴史における「宗教改革」(15世紀)に匹敵するといっていいだろう。「原理主義」の誕生である。

こうして「聖典」に直接アクセスした一般人による主張が、YouTube などをつうじて拡散し、非イスラム教徒に対する文字通りの「ジハード」(聖戦)を実行する人間が 生まれてきたわけだ。

都市の富裕層や教育を受けた知識階層、しかも若年層がテロの担い手の中心になっているのは、そういう背景がある。インターネットにアクセスできる人間は、イスラム世界ではまだまだ限られている

貧困層がテロの担い手ではないのだ。貧しいからテロが起きるのではない。 この状況は、飯山氏は言及していないが、かつての共産主義運動にも共通するものがある。



■日本の「イスラム研究 "業界"」関係者たちがまき散らしてきた「ウソ」

ところが、日本の「イスラム研究 "業界"」に属する人たちは、「イスラムは寛容で平和の宗教」という言説で、メディアをつうじてウソをばらまきつづけているというのが、飯山氏の主張だ。 

このウソを徹底的に暴き、メッタ斬りにしているのが最新刊の『イスラム教再考-18億人が信仰する世界宗教の実相』(扶桑社新書、2021) である。

「イスラモフォビア」(=イスラム嫌い)を徹底的に批判する言説その背後にある真の動機は、「反米主義」と「ポリコレ」(=ポリティカル・コレクトネス)

自分が批判対象としているものを、イスラムに仮託しているに過ぎないのである、と。これは日本でもそうであるし、フランスでもあそうであるようだ。いわゆる「左派リベラル派」が、イスラムを礼賛する理由は、そういう動機が背景にある。

勇気ある告発である。覚悟の上のことだろう。日本のイスラム研究者集団という狭い「世間」から村八分にされても、返す刀で敵を斬る。

いわゆる「学会ボス」が仕切る「イスラム研究 "業界"」の酷さは、池内恵氏もSNSで告発しているので、調べればすぐにでもわかることだ。そのあまりにも酷さには絶句するしかない。

具体的な名前とその発言を俎上に載せて「ウソ」を暴いているので、興味のある人は『イスラム教再考』を直接読んで確かめてみるといい。かなりの有名人も含まれているので、読んでみてのお楽しみに。 



■「共生」ということばは美しい響きだが・・

「共生」ということばの響きは美しい。だが、違いを認識していこそ「共生」は可能となる。イスラム教の世界観が、近代世界の世界観と相反していることを踏まえたうえで、どこでどう折り合いをつけるか、それを考えることなしに「共生」はあり得ない。

とはいえ、日本国内においては日本の法律が優先するのは当たり前だ。それが「法治国家」というものである。たとえイスラム教徒がイスラム法を重視しているといっても、日本国内に居住する以上、世俗法である日本の法と慣習には従ってもらうのは当然の話である。 

「他者」であるイスラム教徒イスラム教徒についてただしい認識をもつために、とくに最新刊の『イスラム教再考』と、前著『イスラム2.0』は、ぜひ読むことを薦めたい。虚心坦懐に耳を傾けるべき内容が説得力をともなって書かれている。 
 
今後ますます「移民」という形で、日本でもイスラム教徒が増えていくであろう。その状況に備えなくてはならないのだ。


*****





目 次 
はじめに-イスラム研究者が拡散させた「誤ったイスラム像」 
第1章「イスラムは平和の宗教」か 
第2章 「イスラム教ではなくイスラームと呼ぶべき」か 
第3章 「イスラムは異教徒に寛容な宗教」か 
第4章 「イスラム過激派テロの原因は社会にある」か 
第5章 「ヒジャーブはイスラム教徒女性の自由と解放の象徴」か 
第6章 「ほとんどのイスラム教徒は穏健派」か 
第7章 「イスラム教を怖いと思うのは差別」か 
第8章 「飯山陽はヘイトを煽る差別主義者」か 
終章 イスラム教を正しく理解するために
参考文献







目 次 
はじめに
第1章 イスラム2.0時代の到来 
第2章 ヨーロッパのイスラム化とリベラル・ジハード 
第3章 インドネシアにみるイスラム教への「覚醒」 
第4章 イスラム・ポピュリズム 
第5章 イスラム教の「宗教改革」 
第6章 もしも世界がイスラム教に征服されたら… 
第7章 イスラム教徒と共生するために 
あとがき
イスラム事件一覧
参考文献


『イスラム教の論理』(新潮新書、2018) 




目 次
まえがき
第1章 イスラム教徒は「イスラム国」を否定できない 
第2章 インターネットで増殖する「正しい」イスラム教徒 
第3章 世界征服はイスラム教徒全員の義務である 
第4章 自殺はダメだが自爆テロは推奨する不思議な死生観 
第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界 
第6章 民主主義とは絶対に両立しない価値体系 
第7章 イスラム世界の常識と日常


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書評  飯山陽著 『イスラム教の論理』 新潮社(松山洋平、オリエント 61–1(2018):74–78)は、学術的な立場から、飯山氏のイスラム理解に誤りがあることが記されている。
本書は、クルアーンとイスラム法の論理を解説しながら、イスラム教の本来的な教義が、「イスラム国」をはじめとする「過激派」の活動の内在的要因であることを示すものである。
著者によれば、「イスラム国」の掲げる理想が「イスラム教徒全員にとっての理想」(4頁)であることは、イスラム教の教義を「正しく」理解したのであれば当然の帰結として導き出されるという。イスラム教の「異質性」、「対話不可能性」を示しながら、著者は、楽観的な態度で「イスラム教徒との共存」を可能と考える日本人に警鐘を鳴らしている。
本書の最大の特徴は,イスラム法の理論に依拠して議論を展開する点にある。著者は、イスラム教の教義とイスラム教徒による「テロ」や「暴力」との連関の有無を論じるためには、イスラム法学をはじめとするイスラム教の理論的枠組みに言及することが不可欠であることを十分に強調した上で(6–7頁)、イスラム教の「論理」を考察の中心に据えるスタイルを全体を通して貫いている。
著者の言うように、イスラム教の行為規範の主だった問題はイスラム法学の中で論じられる。したがって、イスラム教徒の行動の宗教的背景を説明する際にイスラム法の知識が求められるという著者の主張は極めて妥当である。この方針は、本書に高い画期性を与えていると評することができる。ただし、いくつか問題点も指摘できる
第一の問題点は,著者がイスラム法学の諸理論について正確な理解を欠いていることである──これは本書の基盤にかかわる重大な問題点と言える。イスラム法の論理に依拠して議論を進めるという本書の方針は、当然ながら、イスラム法学にまつわる本書の記述が正しく,正確であることで初めて実現する。しかし残念なことに,著者がイスラム法の論理に言及する多くの部分に、理解が誤っている部分や不正確な表現を見出すことができる。以下にいくつかの例を挙げる。(・・・中略・・・)
本書は全体にわたって種々の問題が散見される。そのため、イスラム法学の知識、 クルアーン解釈(tafsīr)の知識、昨今の「過激派」と「穏健派」の解釈の異同についての知識等を備えたうえで注意深く読まなければ、イスラム教についての誤った理解をもたらす可能性が高いと言わざるを得ない。」


(2023年12月1日、3日 情報追加)


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2021年3月26日金曜日

映画『ノマドランド』と『ミナリ』-2020年に製作された話題のアメリカ映画を2本見てきた(2021年3月26日)

 
本日、TOHOシネマズにて映画のはしご。話題のアメリカ映画を2本つづけて見てきた。 

『ノマドランド』と『ミナリ』の2本だ。内容は大きく異なるが、2020年に製作された米国映画であり、米国社会の一断面を切り取った作品である。ともに人生を感じさせるドラマであった。 


■「リーマンショック」(2008年)後に疲弊する米国社会の周縁

まずは、本日公開の『ノマドランド』(2020年、米国)。原題も Nomadland といたってシンプルだ。中高年ノマドのロードムービーといったらいいだろうか。


西部の砂漠地帯ネバダ州にある鉱山の閉鎖で企業城下町(company town)ごとなくなってしまい、すでに配偶者を病で先立たれていた主人公の中高年女性は、食も住居も失って放浪の旅にでる。 

どうしても手放すことのできない思い出と、生活道具一式を積み込んだキャンピングカー(中型バン)で寝泊まりし、季節労働者として仕事を求め、一人ハンドルを握って走り続けるライフスタイルだ。 

だが、個は孤にあらず。類は友を呼ぶ。仲間がいる。語り合う仲間がいる。助け合う仲間がいる。いつも一人で走っているが、集まる場所がある。「居場所」があるのだ。

社会の周縁で、喪失感を抱えて生きる中高年どうしの「つながり」がある。

出会いは一期一会だが、けっして Good by ! (さよなら)とは言わない関係。あいさつは See you down the road ! (また会おう)。出会いがあり、そして別れがある。 そしてまた再会もある。あくまでも個を前提に成り立っている世界だ。

だが、それは単なるライフスタイルを超えた、人生そのものなのだ。

自ら選んだと言うよりも、生き続けるために強いられたライフスタイルといっていいかもしれない。なによりも大事にするのが自由人間として絶対に譲り渡さない矜持と尊厳大自然とのふれあい。そんな生き方があるのだ。 

人生は旅。旅に出る前に過ごしていたネバダ州エンパイアやアリゾナ州クォーツサイトに拡がる砂漠、岩山がそびえ立つサウスダコタ州のバッドランズ国立公園などを訪れる主人公。自然のなかで人間は大いに癒やされる。

「一所不住」の禅僧のような生き方には、映像詩というか哲学詩のようなものを感じる。

主人公を演じているのは女優だが、映画には実際のノマドたちも出演している過ごしていた。

作品のなかで詩が引用されるシーンがある。 Shall I compare thee to a Summer's day ? の一節で始まるものだ。作品中では言及はないが、シェイクスピアのソネットである。

このほか主人公が口ずさむのが「グリーン・スリーブス」であることなど、厳しい人生模様を描いているが、美しい響きのBGMもあいまって文学的香気の高い作品となっている。じつに印象深い映画である。


■まだ夢を見ることができたレーガン大統領時代(1980年代前半)

『ミナリ』(2020年、米国)は、韓国人の移民ファミリーを描いたヒューマン・ドラマ。韓国系米国人(コメリカン)2世の監督が、自分の幼少時代の経験をベースにした自伝的作品で、子どもの目線から描いた作品だ。


1980年代前半のレーガン大統領時代にアメリカンドリームを夢見て、米国に移民した韓国人たち。作品のなかでは説明はないが、ベトナム戦争への参戦と引き替えで実現した移民枠によるものだ。

そんな韓国人の一人が、農場を開いて農場主となる夢を抱き、移民先のカリフォルニアから、さらに南部のアーカンソー州へと移住し、トラーラーハウスに住むことになる。

ハングリー精神の持ち主で、夢追い人の若い父親彼に振り回される妻と子ども2人の家族。夫婦間のわだかまりを解消するために本国から呼び寄せた祖母(ハルモニ)。南部のバイブルベルトの住人である白人たちとの交際。

崩壊寸前まで追い詰められた家族を再生させることになった出来事とは・・ 




原題の Minari とは、韓国語で「セリ」のことだという。雑草のようにどこでも生育できるセリは、移民家族のメタファーでもある。セリフは韓国語と英語。夫婦間は韓国語、子どもたちは英語を中心に、親との会話の一部は韓国語。そして韓国語しかできない祖母。

「移民がつくった国」である米国では、この韓国人ファミリーの物語も、「自分たちの物語」として見ることができるのだろう。だから、「アカデミー賞有力候補」ということなのだろう。だが、はたして一般的な日本人はどう見るのだろうか?

作品中に「ダウジング」が登場するのは興味深い。スピリチュアル要素の強い疑似科学的な手法だが、現在でも水脈を探すためにダウジングが使われているのだな、と。


■メインストリームではない米国社会を描いた映画

 ただ、自分自身が中高年ということもあるだろうが、どうも最初に見た『ノマドランド』に強く共感を感じてしまった。だから、『ミナリ』がそれほどすごい作品であるかどうかは、自分としてはなんとも言えない。 

この2本を両方とも見る人は、あまりいないかもしれない。だが、けっしてメインストリームではない米国社会の一断面を描いたものであることは共通している。ともに知られざる米国といっていいだろう。

2008年のリーマンショック以降の米国と、まだ夢を見ることのできる1980年代前半の違い、家族の喪失と家族の再生と大きな違いがあるのだが、共通しているテーマはある。ともに苦難を乗り越えるという点だ。

さらに選択の方向性は違うが、移動と定住というテーマは共通している。『ノマド』の主人公は移動を選び、定住を拒否する。『ミナリ』の家族は、これ以上の移動は選択せず、農場に定住する道を選択する。

どちらも、いわゆるハリウッド映画とはやや違ったテイストの映画であった。 だが、共通するものも多いのである。それは、米国社会を描いているからだ。
 





PS 2021年アカデミー賞の結果が発表

アカデミー賞は『ノマドランド』が作品賞と監督賞『ミナリ』は助演女優賞。作品賞にかんしては『ミナリ』は善戦したが次点だった。作品賞にかんしては、『ノマドランド』推しの私の趣味と一致したようだ。(2021年4月26日 記す)。


<関連サイト>

・・映画を見終わったあとで振り返りと内省を促してくれる語り

・・映画『ノマドランド』は、この番組のテイストに近いものを感じる。つまりドキュメントタッチだということだ。この番組のエンディングに流れるシンガーソングライターの松崎ナオの「川べりの家」がいい


(2021年3月29日 情報追加)
 

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