2023年10月17日火曜日

企画展「陰陽師とは何者か ー うらない、まじない、こよみをつくる」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2023年10月14日)ー 陰陽師(おんみょうじ)が日本社会においてもっていた意味を歴史と民俗の両面から見る


企画展「陰陽師とは何者か ー うらない、まじない、こよみをつくる」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2023年10月17日)。入場料は1000円。常設展も見ることができる。

本日も秋晴れの好日であった。佐倉は船橋からそう遠くない。地の利もあって歴博は、興味のある企画展が開催されれば、気軽に足を運ぶことができる。

さて、「陰陽師とは何者か」である。副題に「うらない、まじない、こよみをつくる」とあるように、そもそもの平安時代において陰陽師(おんみょうじ)は、占いの担い手であった。古代中国の経典である『易経』の易占の技術の継承である。

(晴明紋)


その陰陽師が「呪術」の知識集団となり、「暦」を独占的に制作・販売する主体となり、知識社会化が進展した近世には「占い」や「呪術」の知識が拡散し、「暦」にかんしては西洋天文学との競争状況となりながらも権威として共存するが、明治維新後に息の根を止められることになる。

そんな陰陽師とは何者であったか、日本社会においていかなる意味をもっていたかを、三部構成で展示している。

歴史上の存在である陰陽師と、日本の民俗文化のカルト・ヒーローでもある安倍晴明を同時に取り上げることができるのは、歴史民俗博物館ならではといえよう。

(安倍晴明 晴明神社蔵)


■第Ⅰ部 陰陽師のあしあと

「陰陽」と書けば「いんよう」と読むが、これに師がつくと「陰陽師」は「いんようし」ではなく「おんみょうじ」となる。

先進文明の中国から伝来した天体観測と隠喩五行説にもとづく暦の作製にかんする知識は、周辺地域である朝鮮半島や日本でも根付くことになる。

だが、中国や朝鮮とは異なり、天文台をもたなかった日本では天体観測が組織的に行われず、陰陽師の仕事は科学的なものから呪術的なものへと変化していったというのが面白い。

第1章 陰陽師、あらわる
第2章 陰陽師、ひろがる
第3章 陰陽師、たばねる
第4章 陰陽師の仕事
第5章 陰陽師と民俗

この第Ⅰ部は古文書の展示が中心で、陰陽師の歴史に興味のない人にはあまり面白くないだろう。

平安時代の貴族のあいだでは「常識」であった「方違え」(かたたがえ)などをもっと取り上げるべきではなかったろうか。方角にかんする吉凶である。古典文学をよむうえで必須の知識の方違えである。現代でも気学などでは重視される。

疫病退散の「蘇民将来との関係など、民俗にかかわると興味深くなってくる。また江戸時代中期以降に普及した、実用百科としての暦であった「大雑書」(おおざっしょ)の現物も展示されている。現在も神宮館などから毎年発行されている暦の原型である。占いと暦はもともと相性がいい。

現在よりはるかに医療水準も低く、それにもかかわらず疫病や自然災害の被害が大きかった時代、吉凶や方角は支配階層にとっては必要不可欠な情報であった。その情報を加工した担い手が陰陽師であった。

古代社会では、日本に限らずどこでも似たような状況にあったことは言うまでもない。


■第Ⅱ部 安倍晴明のものがたり

陰陽師と聞いてまずあたまに思い浮かべるのは、安倍晴明であろう。「あべの・せいめい」である。このセクションは面白い。

安倍晴明は実在の人物であったが、伝説化してカルト・ヒーローになった。

陰陽師の仕事のうち、「うらない」の要素よりも「まじない」の要素が前面にでている。一般民衆にとっては、複雑な知識体系である占いよりも、実践的な行為をともない結果がすぐにあらわれる呪術のほうがわかりやすく、身近に感じられたからでもあろう。

第1章 安倍晴明とその子孫
第2章 安倍晴明のライバルたち
第3章 転生する安倍晴明 

「まじない」を行う安倍晴明と、目に見えない(はずの)式神や外道たち可視化したフィギュアも展示されている。

「陰陽師と式神・外道 復元模型」である。「泣不動縁起」の一場面を立体化したもの。祭壇にむかって祭文を読み上げる陰陽師。そのまわりには坐っている妖怪たちがかわいい。


ミュージアムショップでマグネット(550円)を購入。陰陽師のバックからみたアングルのほうが、陰陽師のポジションに立てるのでよかったと思うのだが、「企画展示にかんしては写真撮影禁止」なので仕方ない。

(「泣不動縁起」の原図 Wikipediaより)



■第Ⅲ部 暦

暦の作製と公表が権力者の独占であったことは、日本以外でもおなじであった。

長きにわたって中国文明の影響下にあった日本だが、暦の作成は基本的に中国のそれにもとづいていた。

ところが、暦に掲載された事項と実際のズレがあまりにも大きくなっていたため、独自に暦をつくり直す「改暦」の動きが徳川幕府の主導で江戸時代前期に始まる。この件については、映画化もされた『天地明察』で有名になったので、比較的よく知られていることであろう。

以後、江戸時代に何度か繰り返された「改暦」事業だが、幕府の天文方による西洋天文学の成果を利用した天体観測データによる暦作製も、暦公表にあたっては安倍晴明の子孫である陰陽師の土御門家とのつばぜり合いと共存状態が幕末までつづくことになる。

第1章 暦をくばる
第2章 暦をかえる
第3章 暦をそろえる 

天体観測のツールであった「渾天儀」(こんてんぎ)の実物を見ることができたのは良かった。あまり話題になることはないが、大塩平八郎の肖像画にも登場する渾天儀である(下図参照)。陽明学者としても有名な大塩は、真夜中に起床して毎日天体観測を行っていたという。


(大塩平八郎の前に置かれた渾天儀)


展示されている渾天儀は、歴博の所有にもかかわらず、企画展示にかんしては写真撮影禁止なのが残念。実物は直径30~40cmくらいの球体である。


(渾天儀)

陰陽師の制度は、明治維新後に廃止され、暦の製造販売も陰陽師の独占ではなくなって現在に至る。

「太陽太陰暦」から「太陽暦」の時代へと変化してから150年。東アジアでは日本だけが正月をはじめとする年中行事を太陽暦で行っているが、これはきわめて例外的な状況なのである。

陰陽師の制度は廃止され、安倍晴明はじめ陰陽師は、あくまでもエンタメの世界で拡大再生産されつづけている。歴史的存在としての陰陽師、エンタメの世界での陰陽師。このズレを感じることは、日本文化を考えるうえで重要である。

*****

平日の、しかも開館直後であったためか、観客はきわめて少なく、職員の方々も手持ちぶさたの感じであった。

いつものように常設展示の「民俗」と「近世」をさらっと見たあとは、ミュージアムショップと図録販売コーナーにたちよって必要資料を購入。そのあとは佐倉城趾公園を歩いて佐倉の中心街へと歩いた。





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