2023年10月7日土曜日

書評『諜報国家ロシア ー ソ連 KGB からプーチンの FSB 体制まで』(保坂三四郎、中公新書、2023)ー ソ連から始まる「諜報機関」の本質を知らずに現在のロシアの体制を理解することはできない

 

ロシアを知るための「必読書」である。この本を抜きにロシアについて語ることは、もはや不可能だろう。

いや、ロシアの影響が及んでいるのは、情報工作の対象としてトランプ大統領を生み出し米国や、極右政党への資金援助が行われてきた欧州など先進国すべてである。もちろん、この日本も含めてだ。

だからこそ、いまこの現在の状況を理解するための、まととない解説書といっていい。まさに渾身の労作である。



■ロシアという「防諜国家」がこの100年にやってきたこと

とはいえ、読んでいるとウンザリしてくる。ロシアがこの100年間にやってきたことが、あまりにもえげつないからだ。

「ロシア革命」後にボリシェヴィキがやったことは、厳しい弾圧が行われたとされる帝政ロシア時代の比ではないことが、読んでいるとわかってくる。

革命指導者レーニンの「非情さ」が発揮されたのは、ニコライ2世一家の惨殺だけではない。みずからが信じる主義の貫徹のため、その障害となるものは誰であろうと虐殺しまくったのだ。

レーニンの意を体して実行役を担った存在が、情報機関トップとなったジェルジンスキーであり、その在任中に「諜報国家ロシア」の原型ができあがった。 

KGBは、もともと組織名として「チェーカー」(Cheka)とよばれていた。だから、その職員は「チェキスト」(Chekist)とよばれ、現在でも「チェキスト・プーチン」のようにつかわれることもある。著者もまた旧KGB や現在の FSB の総称して、「チェキストの世界観」のようなつかいかたをしている。

権威主義国家における、体制を守る「盾と剣」としての「保安機関」である。「盾と剣」とは、KGBを象徴的に表現したものだ。

本書のタイトルである「諜報国家ロシア」は、その意味では、適格なネーミングである。だが著者、より厳密にいうなら「防諜国家ロシア」だという。「諜報」とは「カウンター・インテリジェンス」(counter-intelligence)のことだ。外国からの侵略や浸透を防ぐための情報工作のことである。

副題にあるように、「ソ連 KGB からプーチンの FSB 体制まで」は、この100年のロシアの一貫した流れである。いやむしろ、KGBのもっていた醜悪な側面が、より増幅され、ソフィストケートされたのが FSBだといっていいかもしれない。

現在のロシアを動かしているのは、プーチンに代表されるFSB関係者、つまり旧KGBの関係者たちである。プーチンは独裁者として見なされているが、かれ一人がすべてを取り仕切っているわけではない。

プーチンは「FSBが仕切るシとしてステムと一体化」した存在だと理解したほうが正確なのだ。FSB関係者は、ロシアの全人口の0.1~0.2%に過ぎない、一握りの存在である。



■むき出しの暴力から知能犯罪へ

ロシアは「マフィア国家」だという人がいる。ことし8月に「反乱」をおこしたプリゴジンがちょうど2ヶ月後に「裏切り者」として抹殺されたことに対して、そんな感想が聞かれた。

だが、正確にいえばロシアを支配しているのは「システマ」である。つまり「FSB = マフィア = 行政の三位一体」というシステム(=体制)である。

情報工作を企画し監督するのがFSBである。そして、行政はその手足として動くさまざまな工作を行うための裏仕事を行うのがマフィアである。先に名前を出したプリゴジンも裏工作の担い手であった。

オモテ世界では三権分立が形骸化している。司法も立法も裁判もすべて一握りのFSBの下にあり、恣意的な運用が行われている。だが、それだけではないのだ。

旧KGBより醜悪で悪質なのは、「ソ連崩壊」の前後に組織犯罪のマフィアと結託したことにある。マフィアは文字通りの組織犯罪であるが、暗殺などむき出しの暴力だけでない。国境を越えた金融犯罪など知能犯罪も、マフィアによって裏工作として行われてきた。

FSB が行っているのは「アクティブ・メジャーズ」(active measures)である。近年の民主主義体制における「パブリック・ディプロマシー」などの間接的な影響力行使とはまったく異なり、直接的に手が下される工作活動のことだ。「積極工作」と訳されることもある。

「アクティブ・メジャーズ」は KGB の「心と魂」であり、それが FSB に引き継がれていると著者はいう。

その内容は、「偽情報」(disinformationの拡散「インフルエンス・エージェント」(agent of influence)をつかった工作「フロント組織」をつくってのプロパガンダメディアコントロールによる「政治技術」の展開「陰謀論」の流布や、認知領域における「ナラティブ操作」など、である。

これらの戦術や手法が、ロシアによって日々行われているのである。


■プーチンとFSBの思考回路は「旧KGB文書」に現れている

「あとがき」で著者が書いているが、ロシア研究が専門だが、もともと情報分野の専門家ではなかったらしい。

ロシア研究者だからこそ、現代ロシア体制のワナにかかる危険にさらされていることを深く痛感し、研究に取り込んだのだという。とくに35歳以下の若者は、その危険なワナに気がつかないことが多いのだ。

主たる情報ソースは、ウクライナで全面公開された旧KGBアーカイブの極秘文書である。ロシアでは、情報工作の対象者であるロシア内外の研究者に一部が公開されているだけだが、旧ソ連圏のウクライナではそうではないのだ。

このほか、反体制派やハッカーによるリーク情報や、膨大な最新のインテリジェンス研究を読み込んだうえで、「ファクトベース」で記述し、しかも情報ソースを明記している。もっぱら英語で専門論文を発表してきた人だけに、文章はロジカルで論旨はきわめて明解だ。

ただし、事実関係を明らかにしても、その評価や判断はあくまでも読者にゆだねている。読者自身の「情報感度」を高めるためにも、こういう記述方法は重要だろう。なぜなら、当然のことながら、本書も含めて(!)クリティカルに読むことが不可欠だからだ。


■権威主義体制の「手口」を知ることはセキュリティそのものだ

読んでいて思ったのは、中国共産党はソ連に始まるこの「防諜国家」の手法をかなり忠実になぞっているな、といういことだ。

おそらく旧共産圏だけでなく、権威主義体制をとる国々もまた、KGB/FSBの「情報工作」の「手口」を学習しているはずである。

現代ロシアの「アクティブ・メジャーズ」の「手口」を知ることは、ロシアに限らず、中国をはじめちする権威主義体制の国家の「情報工作」を知る上で必要不可欠なのである。

その意味でも、本書は「実用書」としての性格も備えている。欲をいえば、「用語集」や「よくつかわれるフレーズ集」などの付録や索引がほしかったところだ。

とはいえ、最低限知っておくべき項目は、「目次」に記載されているので、本文を読んでから目次を読み、ふたたび必要な部分を読み返す。そんな読み方が必要だろう。

本書に登場する具体的な人物や組織については、あの人物もまた「インフルエンス・エージェント」として動いているのか、あの組織もまた「フロント組織」として情宣活動しているのか、みなロシアによって「汚染」されてしまっているのだな、と知ることになる。

それは残念なことであるかもしれないが、自分の身を守るため、民主主義体制を守るため、必要なことなのだと思わなくてはならないのである。本書が必読書であるとは、そういうことだ。

ものすごく濃厚な1冊である。単行本3冊分くらいの情報が詰まっている本だ。ギッシリ詰まった内容に、膨大な量のカタカナの固有名詞

斜め読みで読み飛ばすのがむずかしいが、ぜひ最後まで読み通してほしい。


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目 次 
まえがき
第1章 歴史・組織・要員 ー KGB とはいったい何か
 1 チェキストの系譜 ー どこにでもスパイを見る 
 2 巨大な機構 ー KGB の主要部局と役割
 3 エージェント ー チェキストの「見えない相棒」
第2章 体制転換 ー なぜ KGB は生き残ったか
 1 KGB のペレストロイカ ー ソ連崩壊後の KGB の疑似「改革」
 2 KGB 改革の失敗
 3 プーチンの「システマ」ー FSB=マフィア=行政の三位一体
第3章 戦術・手法 ー 変わらない伝統
 1 アクティブメジャーズ ー KGB の「心と魂」
 2 偽情報 ー 正確な情報ほど効果がある
 3 インフルエンス・エージェント ー 「スパイ」とは異なる
 4 フロント組織
第4章 メディアと政治技術 ー 絶え間ない改善
 1 政治技術
 2 サイバースペースでの展開
 3 ナラティブの操作
第5章 共産主義に代わるチェキストの世界観
 1 ゲオポリティカ ー 地政思想と「影響圏」
 2 大祖国戦争の神話 ー 全ての敵は「ファシスト」
 3 「ロシア世界」ー プーシキン、ドストエフスキーを隠れ蓑にして
 4 ロシア正教会 ー KGB エージェントが牛耳る世界
 5 子どもからスポーツまで ー 全てを動員する
第6章 ロシア・ウクライナ戦争 ー チェキストの戦争
 1 ウクライナ侵攻 ー 作り出された「内戦」
 2 「ウクライナ危機」を見る眼 ー 学術界とロシア
終章 全面侵攻後のロシア 
あとがき
主要参考文献
関連人物一覧
関連年表


著者プロフィール
保坂三四郎(ほさか・さんしろう)
1979年秋田県生まれ。上智大学外国語学部卒業。2002年在タジキスタン日本国大使館、2004年旧ソ連非核化協力技術事務局、2018年在ウクライナ日本国大使館などの勤務を経て、2021年より国際防衛安全保障センター(エストニア)研究員、タルトゥ大学ヨハン・シュッテ政治研究所在籍。専門はソ連・ロシアのインテリジェンス活動、戦略ナラティブ、歴史的記憶、バルト地域安全保障。2017年ロシア・東欧学会研究奨励賞、2022年ウクライナ研究会研究奨励賞受賞。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<参考 著者インタビューより抜粋>

ロシア研究者は、軍、警察、FSBをまとめて「シロビキ(武力省庁)」と括りますが、これによって少し誤解されているようにも感じます。ソ連やロシアでは、軍と情報機関は明確に異なる存在です。体制が最も信用を置くのは、軍や警察ではなく、伝統的に情報機関なのです。
 
「ここだけでしか聞けない話」、「あなただけに特別に提供する資料」には関心がありません。なぜなら、これこそKGBやFSBが外国人研究者の取り込みに使う典型的手法だからです。
 
アーカイブから分かるのは、KGBの「非公然」の協力者であるエージェントはソ連時代でも人口のわずか0.1~0.2%程度でした。別の言い方をすれば、これだけの浸透で全体主義が成立したのです。
 
全体主義国家の情報機関は、同時に、体制を守る「盾と剣」としての「保安機関」。
防諜国家のインテリジェンスの活動は、現状を正確に把握する情報収集活動よりも、体制の思想に合うように現実や認識を作り変える非公然の政治・世論工作が主体となります。これはソ連やロシアで「アクティブメジャーズ」と呼ばれています。
 
外国人が、ソ連やロシアの「周縁」を語る際に、いかにモスクワのメディアや専門家に依存しているかを、また、ロシアがそれを利用して自国を宣伝し、偽情報を流している構造が見えてきました。これは、ソ連研究からロシア研究へと引き継がれた問題点。
 
ソ連・ロシアのプロパガンダには、重要な事実から相手の注意を逸らす「ワタバウティズム」(whataboutism)や、西側諸国による正当な批判を回避する「ロシア嫌悪症」(Russiaphobia)などの政治レトリックがあります。
 
ロシアの情報機関は、ロシアに関心を持つ外国の研究者や学生の傾向を深く研究しています。既存の価値観への反抗心が強く、「オルタナティブ」を求める35歳以下の若者は格好の標的になっているのです。
 
最近いろんな方に言っているのですが、プーチンやロシアのエリートたちの思考回路を知りたければ、プーチンの演説や欧米の専門書を読むよりも、KGB内部で使われていた教科書や教本を読むのが一番です。これらはソ連崩壊後のロシアでも改訂を経て引き続き使われていますが、極秘指定なのでロシアでこれを読むことはできません。しかし、ソ連のKGB支部が置かれたウクライナやバルト三国では、KGB資料が公開されているので、読むことができるのです。
 
本書でも解説した通り、脱スターリン化には成功しましたが、脱KGB化には失敗したのです。同じ失敗が、1920年代の「赤色テロ」後の改革、ゴルバチョフのペレストロイカでのKGB改革、エリツィン政権下の保安機関改革でも繰り返されています。
 
民主的統制のない情報機関は、再生産される独自の組織文化を持ち、我々が想像するよりもはるかに、体制の変化やリーダーの交代に対する適応能力が高いのです。100年以上続く体制の「盾と剣」の情報機関が廃止されない限り、ロシアが本質的に変わることはないでしょう。


<関連サイト>


・・本書が第32回山本七平賞を受賞したのを機会に一時帰国した際、「日本記者クラブ」で行った講演記録。とくに54分40秒前後に注目。FSBの息のかかったロシア側の人物と密接な交友関係のある、佐藤優なる人物の著作やメディアをつうじた「情報垂れ流し」について指摘。



(2023年12月3日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

   
   




・・騙されやすい人びと

・・とち狂っているとしか思えない「知の虚人」トッド氏は、ロシアの情報操作の対象となって簡単にころがされていることにすら気づかない、絵に描いたような典型的な「知識人」の事例として考えるべきであろう。自覚症状ないだけに有害きわまりない

(2024年1月20日 情報追加)


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