2025年2月12日水曜日

エマソンの愛読者だったトルストイ。両者に共通するのは「東洋思想」への愛であった

 

「19世紀ロシア文学」の両巨頭といえば、言うまでもなくドストエフスキーとトルストイのことであるが、こと「自己啓発」という観点からしたら、トルストイの重要性には計り知れないものがある。 

トルストイ(1828~1910)には、そのものズバリの『人生論』と題した著書もあるし、家出先で病に倒れ臨終を迎えたその最期は、古代インド思想の「林住期」と「遊行期」を想起させるものがある。その劇的な最期については『終着駅 トルストイ最後の旅』(2010年)として映画化もされている。 

そのトルストイが「この本だけは読み継がれてほしい」と念願し、死の床で娘に朗読させていたほど思い入れの強かったのが、『文読む月日 上・中・下』(北御門二郎訳、ちくま文庫)という名言のアンソロジーである。  




最晩年の1908年に出版されたロシア語の原書のタイトルは「クルーク・チチェーニヤ」で、日本語なら「読書の輪(サークル)」とでもいった意味だ。 

拙著『エマソン 自分を信じる言葉』にも記しておいたが、1年366日で構成されているこの本の「1月1日」は、トルストイの言葉についで、いきなりエマソンが引用されている。拙著には採録しなかったが、本と読書にかんする文章だ。 

エマソンの愛読者だったトルストイだが、両者に共通するのは東洋思想への愛である。

インドはヒンドゥー教の古典から、儒教や道教の中国哲学、さらには13世紀ペルシアの詩人たちまで、そのカバーする範囲は両者でほぼ重なっている。 


■トルストイには『老子』のロシア語訳がある

そんなトルストイに『老子』のロシア語訳があることは、意外に知られていないかもしれない。

(『老子道徳経』のロシア語訳)


「平和主義」を説いていたトルストイは、『老子』を英語訳やドイツ語訳などで愛読していたらしい。 日本では『トルストイ版 老子』(加藤智恵子/有宗昌子訳、ドニエプル出版、2012)として出版されている。ロシア語原文とその日本語訳、原文の漢文とその英語訳を収めたものだ。  



歌手の加藤登紀子が帯に推薦文を載せているのは、訳者の加藤智恵子氏が実家のロシア(+ウクライナ)料理店キエフを継いだ実兄の配偶者だからだろう。加藤登紀子は「百万本のバラ」を歌うほどのロシア好きである。 


■「トルストイ版子」の共訳者は日本人

さてその『トルストイ訳 老子』であるが、トルストイと日本人の共訳であることも、あまり知られていないかもしれない。 

共訳者の日本人の名前は小西増太郎(1862~1940)。岡山の出身で正教徒となり、東京神田のニコライ堂に併設されていたニコライ神学校を卒業している。ロシア語をみっちり学び、司祭としての将来を期待されてロシアに留学する機会を得た小西増太郎は、キエフ(=キーウ)の神学校を卒業している。

その後、モスクワで大学在学中に『老子』のロシア語訳を欲していたトルストイに紹介され、共訳者として翻訳作業に従事することになった。運命的な出会いというべきだろう。
 



小西増太郎によるトルストイの回想録が『いかに生きるか ー トルストイを語る』(太田健一監修、万葉舎、2010)として出版されている。岩波書店から出版された1936年の初版の修正復刻版である。原文の文語体を口語体に変換して読みやすくなっている。  

この本はつい最近読んだのだが、トルストイについて語った本でこれほどのものは、あまりないのではないかと思う。しかも、日本人の手になるものとしては。

トルストイを訪問した日本人としては、文学者の徳冨蘆花の『巡礼紀行』(中公文庫)が有名である。おそらく現在でも、その認識はほとんど変わらないだろう。

また、その実兄でジャーナリストの徳富蘇峰も蘆花に先んじてヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪問していることは『蘇峰自伝』に書かれている。


(蘇峰が直接トルストイからもらった手沢本聖書 小西上掲書に所収)


だが、4ヶ月にわたる共同作業をつうじて、もっとも身近で、もっとも長く接し、しかもその葬儀に参列した人は、小西増太郎をおいてほかにはいない。 

トルストイにはなんと30歳代から歯が一本もなかったこと(!)や、肉食を拒否した後期トルストイの食事のメニューなど、さまざまなディテールにかんする描写が興味深い。トルストイ好きなら、最初から最後まで楽しんで読める内容だ。 

文学作品としては、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』といった大作を残している文豪トルストイだが、後期のトルストイは説教臭くて好きではないという人も少なくないことだろう。 

とはいえ、『老子』をはじめとした東洋思想への愛、そして日本人との深い交友関係、若き日に南アフリカにいたガンディーとの書簡をつうじた交流など、「人生論」としての、「自己啓発」系作家としてのトルストイに、あらためて関心が高まることを期待したい。 そして、また肉食を拒否したベジタリアンとしてのトルストイについてもまた。 


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