先日おわった参院選。その最中、いやそれ以前から、メディアに登場する「識者」とよばれる人たちが、やたら「ポピュリズム」が問題だ、問題だと、非難めいた口ぶりで語っている。
選挙が終わったら、こんどは「敗軍の将」が詰め腹切るどころか、子どもでもわかるようなウソをついて居座りをつづけている。まったくもって世も末だな。「憲政の常道」は空文と化しているのか?
「ポピュリズム」とは「大衆迎合政治」のことなのだ、と「識者」たちや、敗れた側の政治家たちがバカの一つ覚えのように口にする。大衆におべっかつかい、なにかとバラマキを主張するのだ、と。ポピュリズムは危険だ、と。
だが、そういう姿勢は、自分に都合の悪いこと、自分に反対する勢力にラベリングしているだけではないのか?
そう思うのは、わたしは「ポピュリズム」が悪いなどと考えたことすらないからだ。
高校時代に、新書版のアメリカ史を読んでいて、19世紀アメリカの「人民党」の話のからみで「ポピュリズム」と「ポピュリスト」というコトバを知った。
それ以来、ポピュリズムのいったい何が悪いのか、「民意」を吸い上げようという姿勢は、むしろ理想とすべき政治のあり方ではないか、と思ってきた。
とはいえ、あらためて「ポピュリズム」とはなにか、考えてみる必要があると思う。
■ポピュリズム政党に脱皮しようとしているフランスの極右政党
日本のメディアや政治家の言動から離れて、海外の状況を見てみたい。
そう思って、まずは『ルペンと極右ポピュリズムの時代 ー <ヤヌス>の二つの顔』(渡邉啓貴、白水社、2025)という本を読んでみた。先月のことだ。
ところが、この本はわかりにくい。長いだけで、読んでいてもあまり面白くなかった。
極右政党である「国民戦線」(FN)の設立者ジャン=マリー・ルペンがブルターニュ出身で(つまりケルト系)、当時はきわめて少数派の大学出のエリート(!)だったこと。
娘のマリーヌ・ルペンが大衆に基盤をおいた政党に変化させるため「国民連合」(RN)に党名変更、いわゆる「脱悪魔化」を推進する前から、その動きが始まっていたこと。なぜなら、フランス共和制の精神に反した言説をつづけていては政治的な正統性を主張できないから。
そんな事実がわかった。だが、あまり面白い本ではない。
なぜ面白くないのか? 著者のポピュリズム嫌いの本心が見え隠れしているだけでなく、おそらく大統領制をとるフランスの政治制度が、議院内閣制を採用した日本とは異なるので、感覚的にわかりにくいという点もあるのだろう。
それなら、フランスよりもむしろイタリアだろう。マリーヌ・ルペンもさることながら、おなじ女性政治家で、しかも「極右」のレッテルを貼られてきたイタリア初の女性首相であるジョルジャ・メローニについてもっと知りたい。フランスもイタリアもカトリック国である。
だが残念ながら、各種のインタビュー記事などのぞけば、メローニについて日本語で読める書籍がまだ現れていない。
■現代を代表するポピュリスト政治家といえば実業家出身のベルルスコーニ
イタリアも議院内閣制で二院制だから、日本の政治制度と近いものがある。ということで、『ベルルスコーニの時代 ー 崩れゆくイタリア政治』(村上信一郎、岩波新書、2018)を読んでみた。
出版当時はベルルスコーニなんてすでに過去の人なので黙殺していたが、読んでみる気になったのは、メローニについて理解するには、その前段階であるベルルスコーニについて知っておく必要があるからだ。
冷戦構造の崩壊で、二大政党制を基軸としていた体制が崩壊したイタリアは、日本と状況が似ている。
イタリアも日本も、反共と容共の組み合わせの体制であった。 日本では万年与党の「自民党」と万年与党の「社会党」の組み合わせだったが、イタリアも同様に万年与党である「キリスト教民主党」と、万年野党の「共産党」の組み合わせだった。
イタリアでは、冷戦時代に一時期「キリスト教民主党」と「共産党」が接近したが、融合することはないまま冷戦崩壊を迎えることになった。日本では冷戦崩壊後のことだが、自民党と社会党が融合した結果、社会党は消えていった。イタリア共産党もすでに消滅している。
イタリアの場合、反共と容共の組み合わせの二大政党制が劇的に崩壊して多党制に移行、そのななかからベルルスコーニという特異な人物が登場することになる。これが日本との違いである。
不動産で財を築き、メディアも支配するにいたった実業家のベルルスコーニは、自分の企業グループを政党化して、マーケティングを駆使した、まさに「企業ぐるみ」というべき選挙を実行、選挙で勝ったが8ヶ月で退陣、その後2回にわたって返り咲いて長期政権を実現した。その死にあたっては、なんと「国葬」されている!
ベルルスコーニは、訴訟を多数かかえていたうえ、さらにスキャンダルまみれであったが、すくなくとも「民意」を吸い上げる政治は行っていたから長期政権が可能となったのであろう。
キャラ的には、陽性でめちゃくちゃ面白かったが、じつはミラノ大学法学部卒のインテリなのである。 大学進学率が低かった時代の大卒エリートなのだ。
(田名角栄/トランプ/タクシン/ベルルスコーニ 田中角栄氏は政府官邸、それ以外はwikipediaの画像を使用)
日本でいえば、おなじく実業家出身の田中角栄に似ていなくもない。政権末期には「金権政治」と批判されながらも、「民意」を吸い上げ、年金・医療制度の改革など実行したことは特筆に値する。教員給与の引き上げなど行ったことは、忘れてはいけない。
ベルルスコーニは、むしろ米国のトランプ大統領の先行者といえるかもしれない。田中角栄は天才ではあったが学歴エリートではなかっただけでなく、石油ショック前の高度成長時代の人であり、冷戦構造崩壊後に顕在化した現象ではない。
とはいえ、ベルルスコーニも、田中角栄も、ドナルド・トランプも、みな実業家出身のポピュリスト政治家であることは共通している。タイのタクシン・チナワットもこの系列に加えるべきだろう。タクシンは通信関係で財を築いている。
こうやって列挙してみると、もちろんポピュリズム政治には功罪の両面があることがわかる。善いこともしたが、弊害ももたらしている。ただいえることは、一方的に悪いわけでも正しいわけでもない、ということだ。
■政治学者が分析する「ポピュリズムとは何か?」
さて、欧米のポピュリズム政治の事例をみたあとで、ポピュリズムにかんする本を購入していたが読まないままだったなと、思い出した。
そこで、『ポピュリズムを考えるー民主主義への再入門』(吉田徹、NHKブックス、2011)と 『ポピュリズムとは何か ー 民主主義の敵か、改革の希望か』(水島治郎、中公新書、2016)の2冊をよんでみた。
面白いことに、この2人の日本人の政治学者は、ともにポピュリズムじたいが悪いわけではないと明言している。民意をもとにしたポピュリズムは、デモクラシーには本来的に存在するものだ、と。
だが一方では、ポピュリズムをどう制御するかが問題なのだという点も一致している。功罪の両面を考え、功罪の罪の面をどう制御するか、有権者には熟慮とそれにもとづく行動が求められるのである。
『ポピュリズムとは何か ー 民主主義の敵か、改革の希望か』の著者である水島治郎氏は、オランダ現代政治の専門家でもあるので、フランスでもイタリアでもない、オランダの極右政党の分析も行っており有用である。ヨーロッパのポピュリズムを理解するためにも必読だといっていい。
イタリアにかんしては、さらに『政党政治の終焉ーカリスマなき指導者の時代』(マウロ・カリーゼ、村上信一郎訳、法政大学出版局、2012)という本も読んだ。
イタリア人政治学者の著者は、「カリスマ」という専門タームを厳密に使用しているので、日本語の一般的用法とは異なるが、ベルルスコーニ現象は中世以来のヨーロッパ政治史を逆回転させるものだと批判している。
とはいえ、「政党政治の終焉」は「多党化」現象をさしたものであり、日本もすでにそのフェーズに突入したことを考えれば、ヨーロッパの状況は意識していく必要があると納得する。
■ポピュリズムはそれじたいが悪しきものではないが・・・
ポピュリズムは、それじたいが悪ではない。とはいえ、SNS時代によってポピュリズムが加速し、ポピュリズムの暴走を制御することが困難化していることは否定できない。
ただし、ポピュリズムと陰謀論は分けて考えたほうがいい。陰謀論は、あきらかに単純明快な説明がほしいから飛びつくわけであって、専門家への不信感が根底にある。
高度化し、さらに複雑さが増している現代社会は、それぞれの分野の専門家の存在によって成り立っている。だが、メディア人や知識人、その他の専門家の言説は、一般人の「常識」に反するもので、専門家以外の一般人を蔑視しているように、一般大衆から受け取られているのではないか?
アメリカの「反・知性主義」というわけではないが、学歴エリートでもある専門家による知識の独占が、権力と富の独占につながっているという意識が一般大衆にあって、「収奪」されているという被害者意識がポピュリズム伸張を支えている。これは否定できないはずだ。
根底にあるのは、グローバリズムを推進するエリート層に対する「不信感」である。
もちろん、DS(ディープ・ステート)まで行ってしまうと、陰謀論以外のなにものでもないのだが・・・・
いずれにせよ、草の根レベルで「民意」を吸い上げるというポピュリズムのポジティブな側面を評価すべきことはもちろんだ。だが、「衆愚政治」に陥りやすいというネガティブな側面もあることは、しっかりと理解しておかなくてはならない。
当たり前のようだが、それが結論だといえようか。面白くもなんともないない結論なのだが・・
<今回紹介した書籍>
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目 次はじめに第1章 ポピュリズムとは何か第2章 解放の論理―南北メリカにおける誕生と発展第3章 抑圧の論理―ヨーロッパ極右政党の変貌第4章 リベラルゆえの「反イスラム」―環境・福祉先進国の葛藤第5章 国民投票のパラドクス―スイスは「理想の国」か第6章 イギリスのEU離脱―「置き去りにされた」人々の逆転劇第7章 グローバル化するポピュリズムあとがき参考文献
著者プロフィール水島治郎(みずしま・じろう)1967年東京都生まれ。東京大学教養学部卒業、1999年、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。甲南大学助教授、千葉大学法経学部助教授などを経て、千葉大学法政経学部教授。専攻はオランダ政治史、ヨーロッパ政治史、比較政治。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
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