2010年11月6日土曜日

「人間の本質は学びにある」ー モンテッソーリ教育について考えてみる


       
子どもの個性を尊重したシュタイナー教育とモンテッソーリ教育

 子ども一人一人の個性を引き出し、伸ばしていく教育といえば、シュタイナー教育モンテッソーリ教育の二つがあげられるだろう。この二つはともに欧州発の教育方法である。

 シュタイナー教育とは、クロアチア(・・当時ハプスブルク帝国内)生まれの人智学者、哲学者で思想家のルドルフ・シュタイナー(1861~1925)が提唱し、実践してきた、ドイツ語圏を中心に世界中に広まっている教育方法。

 幼児から高校レベルまでの独自の一貫教育を行っているもの。『モモ』や『ネバー・エンディング・ストーリー』の作者である、ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデがここで学んだといえば、おおよその想像はつくはずだ。

 モンテッソーリ教育は、イタリアの医師であったマリア・モンテッソーリ(1870~1952)が、自然な子どもを観察を基礎に、心理学、医学、生理学などから得た「発達理論」をもとに組み立てた幼児教育。日本では小学校課程以上は文部科学省の指導に従わねばならないが、欧米ではモンテッソーリ教育による大学課程まであるという。

 モンテッソーリ教育は 1907年に世界中から注目を浴びたが、二度の世界大戦を挟んで忘れ去られていた。1960年代の米国で再発見され、リバイバルがブームとなって世界中に普及したらしい。直接のキッカケは、宇宙開発競争においてソ連に敗れたことである。創造性の高い子どもを育てるにはどうしたらいいかという問題意識が背景にあった。

 私自身は大学時代、教員免許の取得を考えて、そのための必修である「教育心理学」という講義を受講したが一回しか出席しなかったくらいなので、教育学の歴史について精通しているわけではない。ジャン・ピアジェ(・・構造主義の元祖でしたね)などがでてきた記憶があるが・・・。結局、教職は取らずじまい。ほとほと資格とは縁のない人生である。

 したがって、確かなことはいえないのだが、集団行動を過度に強調する近代日本の教育とは違って、個性を重視する教育メソッドとして、シュタイナー教育とモンテッソーリ教育が注目を集めてきたことは知っている。

 ただ、この場でシュタイナー教育とモンテッソーリ教育の優劣を論じるだけの知識も体験も持ち合わせていない。シュタイナー教育もモンテッソーリ教育も自分が受けた教育ではないし、詳しく研究したことも、実践したこともないからだ。


モンテッソーリ教育とは?


とりあえず、モンテッソーリ教育とは何かを見ておくこととしよう。

 『子供の潜在能力を 101% 引き出すモンテッソーリ教育』(佐々木信一郎、講談社+α新書、2006)という本がある。

 著者の要約を使えば、モンテッソーリ教育とは、「自分の興味から始めて、やればやるほど楽しくなり、なおかつ心の傷が癒え、最後にはきちんと力がついているような教育」である。

 これがけっして誇張でないことは、この本を読むと十分に納得される。著者自身による二十数年にわたる豊富な幼児教育体験をもとに執筆されたので説得力が強いからだ。この本に登場する子どもたちの事例をみていくと納得できる。

 教え込まなくても、子どもの自発性と主体性にまかせておけば、自分の興味と関心をつうじて学ぶべきものはきちんと身につけて、その後の人生にとって不可欠な「生きるチカラ」が自ずから身につくという教育法だ。

 極端な話、動物としての人間も幼児の段階においては、ある意味ではイヌやネコみたいなものだから、当然といえば当然だろう。人間の本性は本能として、初期段階においてはプログラムが書き込まれているわけだから、子どもの興味を最優先するのは当然といえば当然なのだ。

 親の愛情さえあれば、親子の信頼関係のなかで、子どもはのびのびと好きなことに集中して、生きるために必要な基礎はほぼすべて学ぶことになる。

 教え込まなくても、自然と興味をもって行うようになる「一人総合学習」、こういう表現も著者は使っている。これは的確な表現だ。これが身についている人間は、ほっておいても自分の道は自分で探すことができるようになるわけだ。

 まさに「好きこそものの上手なれ」であり、「急がば回れ」とはこのことだ。
 
 ところで、本書の著者は、ドイツのミュンヘンでモンテッソーリ教育の免状を取得したという。先にあげたミヒャエル・エンデもそうだが、ミュンヘンといえば、むしろ日本ではシュタイナー教育の拠点として有名だ。著者がミュンヘンのモンテッソーリ・シューレに学んで免状をもらったというのが興味深い。

 さて本題に戻って、モンテッソーリ教育のエッセンスは、第4章の「子どもが学び、育つスパイラル」で説明されている。

 「子ども」を中心に、子どもを取り囲む「適切な環境」が必要である。「適切な環境」とは、「人的環境」と「物的環境」の2つになる。前者は、子どもの周囲の大人、家族、友達など自由と規律のカギを握る人たち。後者は、子どもの周囲にある環境のことで、日常生活のさまざまなものや自然、教具教材など。

 「子どもが学び、育つスパイラル」は、「子どもの興味・関心」から始まるループとして説明される。

(佐々木信一郎氏の記述にしたがって筆者作成)


 このループが、何度も何度も、子ども自身の興味・関心のある対象を換えながら、スパイラル状(らせん状)にさまざまな方向に拡がり、大きく育っていくのである。これが、「子どもが学び、育つスパイラル」ということだ。

 そしてこれが、実は一生涯のあいだ死ぬまで続くのである。歳を取っても意欲的に生きている人は、このルプが永遠に続いているということなわけだ。やらされ感のない、自発的・主体的な人生である。

 キーワードは、興味と関心、自発性、主体性、集中力、社会性・・・である。

 最後の社会性について説明しておこう。自発的で主体的な「学び」に取り組んで得られた満足感が非常に大きいので、ココロが満たされた状態においては他者に対して攻撃的になることはまったくなくなる。だから、幼児の段階で、このループを体験しておくと、社会性のある人間に育つわけなのである。そして自己肯定感の強い人間に育つ。

 子どもは、人間は、環境もバックグラウンド含めて、一人一人異なる存在である(!)という、当たり前といえばまったくもって当たり前な認識を出発点にした教育法である。

 たとえモンテッソーリ教育を受けていなくても、同様の教育を受けていれば、成熟した人間に育つのは当然であろう。人から強いられて「勉強」するのではない、自らの興味・関心が出発点にある「学び」の人生。

 かつてのように子どもの数が多くて、自然環境のなかで遊ぶのが当たり前であった時代は、意図しなくてもできていた教育ではないかと思う。親や教師が過保護に過干渉しなければ、子どもというものは「親がなくても育つ」ものなのだ。

 教え込まなくても、人間は学ぶ。それは人間が生きるために不可欠の機能であるからだ。

 「学び」とは、人間存在の本質に根ざしているのである。



(* Kindle化されてます。電子書籍版もあります)


目 次

序章 子供の真実
第1章 モンテッソーリと学校教育の関係
第2章 楽しみながら成長する子供
第3章 敏感期とは何か
第4章 子供に与えられたエネルギー
第5章 二種類の興味・関心
第6章 家庭でできることは何か
第7章 潜在能力を 101%発揮する方法

著者プロフィール

佐々木信一郎(ささき・しんいちろう)

1958年、福島県に生まれる。南山大学文学部哲学科中退後、東北福祉大学社会福祉学部福祉心理学科を卒業。1998~1999年、ドイツにあるミュンヘン小児センターにてモンテッソーリ教育の免状を取得。発達支援センターうめだ・あけぼの学園、日本モンテッソーリ教育綜合研究所附属「子どもの家」副園長、しもさかべ幼稚園、こじか保育園副園長を経て、こじか「子どもの家」発達支援センター園長。日本モンテッソーリ教育綜合研究所附属教師養成センター実践講師。モンテッソーリ教育の障害児への適用で、日本愛護協会ほほえみ奨励賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


米国で "再発見" されたモンテッソーリ教育

 『子供の潜在能力を 101% 引き出すモンテッソーリ教育』の著者・佐々木氏は、「はじめに」のなかで、モンテッソーリ教育が米国で再発見された事情について書いている。

 この本には、米国での普及状況については書かれていないので、よくわからないが、wikipedia の記述によれば、モンテッソーリ教育を受けた著名人には、アマゾンの創業経営者ジェフ・ベゾス、グーグルの共同創業者セルゲイ・ブリンとラリー・ページ、wikipedia 創設者ジミー・ウェールズ、経営学者のピーター・ドラッカーなどの名前があがっている。

 こういう例をあげていくと、突出した人たちの基礎に、なにがあるのかがわかってくる。

 ピーター・ドラッカーについては、戦前のウィーンでの経験である。私立学校に転校して経験した「学ぶ」楽しさ、喜びの目覚めについては、『知の巨人ドラッカー自伝』(ピーター・F.ドラッカー、牧野 洋訳・解説、日経ビジネス人文庫、2009)に語られているが、それがモンテッソーリ教育に基づくものであるかどうかまではわからない。

 グーグルの共同創業経営者のセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジは、ともにユダヤ系米国人で、モンテッソーリ教育を受けたという共通点をもっていることは確かである。ブリンは子どもの頃、両親とともにソ連から米国に移民している。
 『グーグル秘録』(ケン・オーレッタ、土方奈美訳、文藝春秋、2010)には、こういう記述がある。

まず二人とも、きちんとモノを考えさせる学者の家庭で育った。曖昧な発言は許されなかった。次にマリッサ・メイヤーの言葉を借りれば、二人は、"典型的なモンテッソーリ育ち" だった。「二人はルールなど無視して、やりたいことをやっていたわ。権威を疑い、自分の頭で考えるよう鍛えられていた。二人は基本的に、人間はそれぞれ自分にとって何が最適かわかっていると考える。絵を描きたいときに描く、モンテッソーリの子どものようにね。ペイジ自身、モンテッソーリから「あらゆることに疑問をもつ姿勢」を学んだと語っている。(P.177)(*太字ゴチックは引用者=私によりもの)

 なるほど、世界をすべて、数式によって解明し、アルゴリズムで記述しようという欲望の持ち主である二人は、すべての興味と関心がそこに集中しており、その他のことにはあまり関心がないようだ。

 絵に描いたようなエンジニア体質の二人は、世界中をすべて検索できるようにするという壮大なビジョンをもった、突出した才能をもったある種の天才だが、一方では一般常識に欠けるという欠点も持ち合わせている。

 一般的な日本人のように「ほどほど」には満足せず、好きなことだけに集中することが天才を生み出しているのだが、自分が好きでないことにはまったく興味関心がないという欠点は、モンテッソーリ教育のもつ反面といえるかもしれない。
 もちろん、かれらの行動の原因をモンテッソーリ教育だけに帰することはできないが。


幼児期にすべてが決まってしまうのか?!・・しかし、「気づく」のに遅すぎることはない

 私自身、子どもの頃から「勉強」は嫌いだが、好きなことに集中して自分で調べたり、観察するのが何よりも大好きな人間だ。つまり自ずから「学ぶ」生活習慣を身につけてしまっている人間だ。

 なぜそうなったのかはよくわからないが、「勉強」は好きではないが「研究」は好きという人間だ。理科少年であった。自然観察少年であった。すべてに「なぜ?なぜ?」という疑問をもち、自分で仮説を立てて、自分で調べて、自分で検証するというマインドセットが、子どもの頃から自然に身についてクセになっている。

 世界すべてを知り尽くしたいという欲望はきわめて強い。生きているあいだには間違いなく不可能な欲望であるのだが。役に立つかどかはあまり関心ない。カネになるかどかも二の次だ。結果として役に立つこともあるし、カネになることもある。

 こういうことを書いていると、しょせん幼児期にすべてが決まってしまうのか(・・)という嘆きともため息ともつかない声も聞こえてきそうだ。
 だが、私自身もモンテッソーリ教育を受けたわけではないので、それは絶対条件ではないといっていいと思う。

 とはいえ、大人からダメだといわれようが、何といわれようが、自分の好きなことは万難を排してでもやるといった、私のような強い意志をもった子どもは少数派かもしれない。

 だが、気づくのに遅すぎるということはない。

 ある年齢以上を過ぎていると、自分の好きなことに集中するということに対するメンタル・ブロックができあがってしまっていることも多いようだ。このメンタル・ブロックはきわめて強固なものだが、人間にはもともと「学び」たいという欲望が備わっているのだから心配することはない。意識的に、好きなことに思いきり集中してみたらいい。幼児にもどって、身近な小さなことから始めてみたらいいのだ。そして「学び」のループを回していくことだ。さらにそれをスパイラルに展開していく。

 もともと日本でも、明治以前、近代以前の寺子屋教育は、子ども一人一人の個性と発達具合に応じて、文字通りの One to One あるいは One on One の教育を行っていたことは知っておくべきだろう。現代のミャンマーの僧院と同様だ。

 要は、子どもが興味を持って集中して取り組んでいることを禁止したり、邪魔しないということだ。反社会的なことであれば禁止しなくてはいけないが、そうでなければ飽きるまでやらせたらいい。

 大人だって同じじゃないのかな?



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・・多様な側面をもったシュタイナー。ここでは「生命と食」という切り口で


P.S. ところで、この記事で本年2010年の 300本目の投稿となった。2010年12月31日まであと 65本書けるかどうかはわからないが・・


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