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2010年8月1日日曜日

「生命と食」という切り口から、ルドルフ・シュタイナーについて考えてみる




Der Mensch ist, was er ißt.

 英語には Man is what he eats. (人間は、食べるところのものである)という表現がある。よく引用されるので、知っておられる方も少なくないだろう。食べるという行為から人間を定義した名言である。

 もともとは、ドイツ語で Der Mensch ist, was er ißt. という。
 ドイツ語の ist と ißt が同じ音なので、ダジャレっぽくくて覚えやすい。ただし、最新のドイツ語正書法では、ißt を使用せず isst(<essen 食べる の三人称単数現在形)を使用する。

 日本を代表するドイツ語学の大家であった関口存男(せきぐち・つぎお)の『関口・新ドイツ語の基礎』(三修社、1981)によれば、19世紀の唯物論哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach)のコトバだという。
 フォイエルバッハは、ヘーゲル左派の立場から、マルクスに大きな影響を与えたドイツの唯物論哲学者である。
 この表現は、ある意味では、身も蓋もない即物的な表現だが、自然科学的唯物論を面白く皮肉に要約した言だと関口存男は記している。独文和訳の問題として出題されている。

 余談だが、ドイツ語は私にとっては大学時代の第三外国語で、参考書として勉強した本。数年前にドイツ語を復習した際に、この本を改めて読み直し、この名言を再発見した。
 『関口・新ドイツ語の基礎』は、原本が1945年発行のもので戦前のよき伝統を残しつつ、敗戦後の日本社会復興という時代の息吹も感じられる名著である。ドイツ語を英語との対比だけでなく、広く印欧語のなかに位置づけている。言語学を押さえた注には、ギリシア語、ラテン語、ロシア語もでてくる。また、哲学やドイツ思想にかかわる背景説明も詳しくて読んで面白く、旧制高校的教養主義の香り豊かな作品である。

 関口存男は、旧制高校生からは関口ゾンダンよばれていたそうだ。ドイツ語の sondern(そうではなく) にひっかけたダジャレである。
 関口存男は、昭和のはじめ、創刊された最初の頃の岩波文庫にモリエールのコメディ『人間嫌ひ』(Le Misanthrope)を翻訳している。フランス語にも堪能な人であった。
 


「人間は、食べるところのものである」 とルドルフ・シュタイナー

 Der Mensch ist, was er ißt.(人間は、食べるところのものである)。この表現がヘーゲル左派の哲学者フォイエルバッハの言であると見れば、まさに内容は唯物論そのままである。


 ところで、人智主義(アントロポゾフィー)の思想家ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)は、『健康と食事』(シュタイナー、西川隆範訳、イザラ書房、1992)に収められた「肉食と菜食」(1908年)で、この表現にふれた講演を行っている。

 シュタイナーは唯物論の立場ではなく、彼のいう「精神科学」の立場からこのコトバが重要だといっている。

 19世紀の偉大な哲学者フォイエルバッハは、「人間は、食べるところのものである」という、有名な言葉を残しました。この言葉は霊的理想主義者たちを驚愕させました。唯物論は、人間とは食べものの集積であり、身体だけでなく、精神も食べ物という物質から発生すると考えている、と多くの人々は思いました。
 ・・(中略)・・
 精神科学は、「人間は、食べるところのものである」という言葉を、唯物論者とはべつの意味で用います。精神科学にとっては、わたしたちの周囲にあるものは、すべて霊的なものの現れです。・・(中略)・・物質の背後には、霊的なものが存在します。食べものの背後にも、霊的なものが存在します。わたしたちは、目の前にある食べものだけを食べるのではありません。わたしたちは食べものの背後に存在する霊的なものも、いっしょに食べるのです。わたしたちは食べものをとおして、その背後に存在する霊的なものと関係するのです。も、いっしょに食べるのです。「人間は、食べるところのものである」という言葉は正しいのですが、その間、物質的なプロセスだけでなく、霊的なプロセスも存在していることを理解しなければなりません。

(出所:『健康と食事』(シュタイナー、西川隆範訳、イザラ書房、1992)P.7-9、「肉食と菜食」(1908年より 太字ゴチックは引用者による)


 シュタイナーも、基本的に「人間は、食べるところのものである」というコトバのもつ唯物的な側面を否定しているわけではない。その上でさらに霊的なものが含まれるのだと主張しているわけだ。


 ほぼ同時期に行われた講演「精神科学の光に照らした栄養問題」(1909年)でも、フォイエルバッハのこのコトバを引き合いに出している。『身体と心が求める栄養学』(シュタイナー、西川隆範訳、風濤社、2005)所載。

 シュタイナーの主張の是非はさておき、『健康と食事』を読んで驚くのは、すでに1922年から1924年にかけての時期に、「狂牛病」について警告を発していたことである。
 シュタイナー自身は「狂牛病」という表現は使っていないが、理想的なゲーテアヌムの労働者たちにむけて、講演のなかで述べている。ゲーテアヌムとは、シュタイナー自身が設計した建築物で、人智学運動の中心として位置づけられている。18世紀ドイツの文豪にして知的巨人であったゲーテにインスパイアされたものだ。
 引用は「酒とタバコ(2)」から。

 草食動物がいるのはご存じのとおりです。肉を食べない動物がいるわけです。たとえば、牛は肉を食べません。馬も肉を食べません。
 ・・(中略)・・
 牛が肉を食べるとしてみましょう。牛は自分で肉を作れます。そのための力を内に有しているのです。牛が草のかわりに肉を食べると、どうなるでしょうか。肉を作る力を使わないことになるのです。・・(中略)・・そのような状態では非常に多くの力が無駄に失われます。動物の体のなかで失われる力は、そうかんたんにただ失われるという具合にはいきません。最後にはこの力が牛のなかにいっぱい詰まるようになるのです。そうなると植物から肉を創るのとはちがったことが生じます。力が牛のなかにとどまっています。その力の活動によって、さまざまな汚物が作られるのです。肉が作られるかわりに、有害な物質が作られるのです。牛が肉を食べるとあらゆる有害な物質が体に満ちるようになります。とくに尿酸、尿酸塩が体内に満ちます。
 尿酸塩には特別の性質があります。尿酸塩は、神経組織と脳を溺愛しているのです。牛が肉を食べると、、大量の尿酸塩が体のなかに分泌されます。尿酸塩は脳に行き、牛は気が狂います。・・(以下略)・・(P.113-116)


 この講演は、先にも記したように1924年になされたものである。シュタイナーはここまでいっているのである。この講演では、死んだ牛が減量となった肉骨粉については直接言及されていないが、ほとんで予言といってもいいような響きがある。

 尿酸(uric acid)は通常は老廃物として尿と一緒に排泄されるが、ビールの飲み過ぎやプリン体を多く含む食べものを摂取しすぎると体内で過剰な状態となり、尿酸塩という細かいガラスの破片状になって、足の親指や膝の関節にたまって痛風の原因になることはよく知られている。尿酸値というデータで示されるが、尿酸値が高いと健康診断で問題とされる。
 尿酸塩が脳障害の原因になるのかどうか、現在の医学知識からみて正しいのかどうか、私は医学は専門ではないのでわからない。

 とはいえ、いまから86年前の講演で、このような内容の話をしていること自体が驚きなのだ。



 『生命と食』(福岡伸一、岩波ブックレット、2008)によれば、狂牛病(mad cow disease)の原因となった肉骨粉(meat and bone meal)は、すでに20世紀初頭からレンダリングとよばれる工程で製造され、欧州では一大産業となっていたという。福岡ハカセは B.S.E. という表現を使っていては事の本質を見失う可能性が高いとして「狂牛病」という表現を使うべきだとしている。
 シュタイナーはこの事実を踏まえて、1924年時点で不気味な「予言」、いや「預言」(?)をしていたのかもしれない。

 世界ではじめて「狂牛病」が発見されたのは、1985年の英国である。1985年までまったく存在しなかった「狂牛病」について、その60年以上まえにシュタイナーは危険について語っていたことになるのだ。

 また、『健康と食事』でシュタイナーは、ジャガイモは食べるとアタマがバカになるという実践的アドバイスを何度も繰り返している。シュタイナーがいう根拠はここでは省略するが、私はこの文章を読んで以来、どうもこのアドバイスが気になって仕方がない。
 南米アンデス原産で、アイルランドの飢饉を救ったジャガイモ。 シュタイナーに主張が、どの程度まで、現段階の栄養学的知識と合致しているのか私にはわからない。コロッケはうまいと思って食べてしまう。
 


ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)とは

 シュタイナーというと、日本では「シュタイナー教育」で有名な教育学者として紹介されることがもっとも多いだろう。「モンテッソーリ教育」とならんで幼児教育の世界では二大勢力である。
 あるいは熱心な読者が存在する、オカルト思想家のような扱いを受けることも多い。シュタイナー教育かオカルト思想家か、そのどっちしかないようだが、実際はそのような枠におさまるような人物ではない。

 シュタイナーは、ハプスブルク帝国時代に現在のクロアチアで生まれている。ウィーン工科大学に学んでいるように、幅広い自然科学的知識をもっていた。
まず本人の自己規定にあるように「人智学者」(アントロポゾーフ)である。「人智学」(アントロポ・ゾフィー)は、ギリシア語で人間を意味するアントローポス(anthropos)と叡智を意味するソフィア(sofia)の合成語で「人間の叡智」を意味する。叡智を愛するという意味をもつフィロ・ソフィア(哲学)を想起させる。

 人間の叡智を、部分最適ではなく、全体として捉えるという姿勢であろう。人間存在を部分ではなく全体で捉えるという思想。
 
 私はシュタイナー思想の熱烈なファンではないし、思想内容をついて詳しく知っているわけではない。シュタイナーの生涯にわたる活動を専門分野でいえば、教育実践、芸術、建築、医学、農業、哲学、宗教、社会変革と、きわめて広範囲にわたっていることからもわかるように、一言で要約するのは難しい。

 若き日にゲーテ全集の編集に携わった経験もあろう、ゲーテのもつ人間存在の全体性を、自らも実践しているといえるのでないだろうか。日本で一般に知られているのは文学にかんする側面だけであるが、ゲーテはひろく自然科学関係の研究を行っている。

 ルドルフ・シュタイナーは、日本でいえば、同時代に生きた大本教の出口王仁三郎(1871-1948)のような存在であったろうか。
 こういうことをいうとシュタイナーの熱烈なファンからは、無理な対比ではないかといわれそうだが、スピリチュアル世界(霊的世界)へのかかわりの深さと口述筆記による著作の膨大さからみれば、この二人は似ているような気がするのだがどうだろうか。
 私が不勉強なためよく知らないが、シュタイナーの影響は間接的に出口王仁三郎に与えているかもしれない。もちろん、この両者には同時代人としてのシンクロニシティはありそうだ。

 深く尊敬してやまなかったゲーテと同様、シュタイナーもまた、自然科学から芸術にまたがる「知の巨人」であり、「万能人」であった。
 ただし、医学的知識はシュタイナー存命当時からすでに90年近くもたっており、

 まお、ドイツ語でなされたシュタイナーの思想は、ドイツの「緑の党」への思想的影響もある。『モモ』の作者ミヒャエル・エンデの思想にも大きな影響を与えたようだ。



シュタイナー農法について-バイオ・ダイナミック農法

 スロヴェニアのワイン農家で、ワイン栽培に「シュタイナー農法」を実践している人の話を、本人の口から直接聞いたことがある。

 その後読んだ、『ブドウ畑で長靴をはいて-私のロワールワイン造り奮闘記-』(新井順子、集英社インターナショナル、2005)は、フランス・ロワール地方でワイン作りをする日本人女性による半自叙伝だが、この本ノンのなかにはシュタイナー農法の話がでてくる。「ミッシェル・オジェのビオディナミ勉強会」(P.58-62)
 フランス語表記で bio dynamic は通常英語で biodynamics agriculture、日本語ではバイオダイナミック農法という。

 「バイオダイナミック農法」(ビオデュナミ農法)とは、有機農業のような地球の観点だけでなく、天体の動きとの関係、とくに太陽や月など、宇宙との関係に基づいた「農業暦」にしたがって、種まきや収穫などを行うという、自然と調和した農業のことである。
 1924年以来、デメター(Demeter:デメテル)運動として欧州で普及して今日にいたる。デーメテールとはギリシア神話で豊穣の女神のことだ。

 また、ここで取り上げたように、「バイオダイナミック農法」(ビオデュナミ農法)の創始者として、とくにヨーロッパでは広く実践されていることも知っておいて損はないだろう。

 ちなみにスロヴェニアのワイン農家で試飲させていただいたワインは、赤も白もデザートワインもみなたいへん美味であった。



生命(いのち)と食について

 先日、生まれてはじめて断食を実行した。この体験については、成田山新勝寺「断食参籠(さんろう)修行」(三泊四日)体験記 と題して7回にわたって書いておいたが、陳腐ないい方だが、食べることの意味をあらためて考える貴重な機会になった。

 また断食参籠修行期間中は、「殺生戒」に反しない生活を短期間とはいえ送ることもできた。た 
 日本人で仏教徒である私は、「生きとし生けるものが幸せであるますように」という慈悲の心には強く共感するし、また「殺生戒」と「生命と食」について、いろいろ考えることも多い。

 さきにふれた『生命と食』(福岡伸一、岩波ブックレット、2008)で、分子生物学者の福岡ハカセはこういうことを言っている。

 ルドルフ・シェーンハイマー(1989-1941)というドイツに生まれてアメリカに亡命した一人のユダヤ人科学者が、もっと重要なことを発見していました。彼は、食べものというのは、単なるカロリー源ではないということを明らかにしたのです。
・・(中略)・・
 食べものの分子は単にエネルギー源として燃やされるだけでなく、体のすべての材料となって、体の中に溶け込んでいき、それと同時に、体を構成していた分子は、外へ出ていくということです。
・・(中略)・・
 食べものの分子そのものが体を一瞬作り、それが分解されて、また流れていく。体というふううに見えているものは、そこにずっとあるわけではなくて、絶え間なく合成されて分解されていく、流れの中にあるのです。(P.8-9)


 これが「動的平衡論」(dynamic equilibrium)という学説である。福岡ハカセの一連の研究は、生命現象を「動的平衡論」の立場から捉えたものである。

 人間が食べたものは、動物だろうが植物だろうが、文字通り人間のカラダそのものと一体化するのである。瞬間的であるが。
 その意味では、Der Mensch ist, was er ißt. という表現は部分的であれ正しいわけなのだ。分子が合成され分解され、瞬間瞬間に入れ替わっているということまでは表現されていないが。

 このように見るとき、人間は、動物であれ、植物であれ、他者の生命をいただいて食べることで、自らが存在していることの意味を、たんなる精神論だけでなく、きちんとした科学的知見に基づいて行う必要があるだろう。
 これはシュタイナーの発想とは逆になるが、実は唯物的な話と、精神的な話が合致することが重要なのかもしれないと思うのである。

 「生命」は「いのち」と読むと、さらに味わいが深くなる。


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 なお冒頭に掲げたルドルフ・シュタイナーの記念碑は、オーストリアの首都、ウィーン南駅(Wien Süd)近くの公園で私が撮影したものである。銘板には「ルドルフ・シュタイナー 1861-1925 哲学博士。哲学者にして人智学者」と刻まれている。
 まさかそこに記念碑があるとは知らずに、数年前のとある秋の日、たまたま公園内を逍遙していた際に発見したのだが、ご覧のとおり綺麗に掃除されて、花も美しい。
 この時期のウィーンの講演には、いたるところにカスターニエンの実が転がっていた。

 シュタイナーは、いまでも影響力の強い存在なのだ。