『チベットに舞う日本刀-モンゴル騎兵の現代史-』(楊海英、文藝春秋、2014)を読んだ。長らく積ん読状態だったが、ようやく読むことにしたのだ。
読んでみて、じつに読み応えのある好著だと感じた。モンゴル現代史だけでなく、日本近現代史、中国現代史とチベット現代史に関心のある人にとっても読むべき本だと確信する。
著者の楊海英(よう・かいえい)氏は、現在は中国領となっている南モンゴル(かつて内蒙古と呼ばれていた地域)出身のモンゴル人の人類学者。モンゴル名はオーノス・チョクト、日本名は大野旭。現在は日本国籍を取得、日本語で著作を旺盛に執筆、司馬遼太郎賞の受賞者でもある。
この本は、そんな著者が描いたモンゴル現代史である。ビルマ(=ミャンマー)やベトナム、インドネシアなどの東南アジア諸国は、英国やフランス、オランダといった西欧諸国の植民地からの独立を戦ったが、モンゴルの場合は西欧ではなく中国からの独立を戦ったのである。民族の英雄チンギスハーンの時代から700年、かつての栄光ははるか遠く、モンゴル民族は少数民族として圧迫されていた。
そんなモンゴル民族にとって「近代化」のモデルとなったのが、ユーラシア大陸の西からやってきたロシア(=ソ連)と、アジアではいち早く近代化を達成した日本(=大日本帝国)であった。圧迫された少数民族にとっての悲願は、「民族自決」による独立達成であった。
ソ連の影響下で独立を達成したのが北モンゴル(=外蒙古)のモンゴル人民共和国で、ソ連についで世界で二番目の社会主義国となった。この件については、『草原の革命家たち』(田中克彦、中公新書、1973)という知られざる名著に活写されている。ソ連崩壊後にはモンゴル国となり、日本の大相撲の力士を多数輩出していることは周知のとおりだ。
南モンゴル(=内蒙古)もまた北モンゴルにならって独立達成に向けて奮闘、将来のモンゴル民族統一を目指していた。
騎馬遊牧民族のモンゴル人は、日露戦争で大きな活躍を成し遂げた、秋山好古率いる日本陸軍の近代騎兵に着目し、陸軍士官学校への留学を通じて、近代化されたモンゴル騎兵が再生することになる。
その舞台となったのが帝国陸軍の習志野騎兵学校であり、第1部第1章のタイトルが「青春の習志野」となっているのはそのためだ。
この点は、船橋市や八千代市を含めた「広域の習志野」の住民としてはうれしい限りだ。 現在の陸上自衛隊習志野駐屯地は、第一空挺団の本拠地であり、基地内には「日本騎兵之地」の石碑がある。
その後、日本の大陸進出によって創り出された満洲国で、モンゴル騎兵を育成するための興安軍官学校が設立され、日本の影響圏のなかで多くのモンゴル人騎兵が育成されることになる。日本の大陸進出の野心と、民族自決を目指すモンゴル人の意図が合致したのであった。しかしながら、それは同床異夢ではあったが・・。
1939年のノモンハン戦争(=ハルハ河戦争)は、日本軍とソ連軍との激突であったが、日本側とソ連側の双方でモンゴル人将兵が対峙することになった。まことにもって「分断民族」の悲劇としかいいようがない。日蒙二世の青年を主人公とした安彦良和氏の傑作歴史冒険活劇マンガ『虹色のトロツキー』に活写されているとおりだ。
しかも、「五族協和」を謳った満洲国においては、モンゴル人だけが優遇されることはなく、不倶戴天の敵である中国人と対等の扱いを強いられた。日本人による統治方針とモンゴル人の願望とのズレが拡大していったのだ。民族自決を目指していたモンゴル人の日本への不満が高まっていく。
日本の敗戦によって日本が大陸から撤退すると、南モンゴルは最終的に中国共産党の支配下に組み込まれる。大戦後の戦後構想を取り決めた「ヤルタ会談」(1945年)において、当事者であるモンゴル人不在のまま、大国間の密約により、スターリンの主張に基づき南モンゴルは中国の勢力圏と決められたからである。 モンゴル統一の夢は潰えたのだった。
そして、1949年の中華人民共和国成立後、モンゴル騎兵も人民解放軍に組み込まれることになる。毛沢東は、モンゴル騎兵の実力を熟知しており、最大限に利用しようと考えていた。
モンゴル騎兵が実戦に投入され功績をあげたのは、1958年から1960年にかけて実行された「チベット侵攻」である。これが、本書のタイトルである『チベットに舞う日本刀』ということになる。モンゴル騎兵は、中国共産党の傭兵として利用されたのだ。
抵抗勢力とみなされたチベット民族に振り下ろされたモンゴル騎兵の日本刀、おなじチベット仏教を信仰するチベット人に対する殺戮行為は、モンゴル人にとっては悔やんでも悔やみきれないものとなる。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマのダライは、海(=大草原)を意味するモンゴル語なのである。
毛沢東は、伝統的な中国人の異民族支配の手法である「夷(い)をもって夷(い)を制す」を実践したのである。自ら手を下すことなく、漢人にとっての異民族であるモンゴル人にチベット人制圧を行わせたのである。この事実は、この本を読むまで知らなかった。チベット侵攻自体が非難すべきだけでなく、モンゴル騎兵が絡んでいたとは・・。
中国共産党がなすことは、じつに極悪非道としかいいようがない。
チベット侵攻においてモンゴル騎兵の実力を知り抜いた毛沢東は、諸刃の剣であることを認識しており、文化大革命時代には反乱の目をつむためにモンゴル騎兵を解体、モンゴル民族の虐殺を開始する。一説によれば10万人規模のモンゴル人が殺されたのだという。まさにジェノサイドである。チベット人やウイグル人だけではない、モンゴル人もまた抹殺対象となり、土地を奪われていったのである。
ソ連の影響下で辛酸をなめることになったとはいえ、北モンゴルは独立を獲得し、現在に至るまで独立を確保できているのに対し、南モンゴルは現在に至るまで中国共産党による圧政のもとに、民族固有の生活習慣や文化を否定され、苦しんでいる。
日本人の認識においては、ドイツとベトナムが統一したあと、朝鮮民族が最後の「分断国家」と認識されているようだが、アジアではモンゴル民族がいまだに「分断民族」のままとなっていることを認識しなくてはならない。
その意味では、モンゴル現代史やチベット現代史、中国現代史に関心のある人だけでなく、アジアの現状に関心のある人は、読むべき本であると思うのである。
本書の姉妹編である『日本陸軍とモンゴル-興安軍官学校の知られざる戦い-』(中公新書、2015)とともに読むことをすすめたい。
<関連サイト>
書評 日本人よ、「モンゴル」を忘れないでほしい! (文: 楊 海英 (静岡大学教授)、2014年11月14日)
・・「はじめに」より転載
<ブログ内関連記事>
■満蒙時代の南モンゴル(=内蒙古)
「赤羽末吉スケッチ写真 モンゴル・1943年」(JCIIフォトサロン 東京・半蔵門)に立ち寄ってきた(2016年6月18日)-絵本作家の赤羽末吉が撮影した戦前の内蒙古
『スーホの白い馬-モンゴル民話-(日本傑作絵本シリーズ)』(大塚勇三・再話、赤羽末吉・絵、福音館書店、1967)-「良質な絵本」もまた大事にしていくべき「昭和遺産」だ
書評 『回想のモンゴル』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 初版 1991)-ウメサオタダオの原点はモンゴルにあった!
書評 『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国-』(田中克彦、岩波新書、2009)-もうひとつの「ノモンハン」-ソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相
書評 『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略-』(関岡英之、祥伝社、2010)-戦前の日本人が描いて実行したこの大構想が実現していれば・・・
■チベット問題
「チベット・フェスティバル・トウキョウ 2013」(大本山 護国寺)にいってきた(2013年5月4日)
「チベット蜂起」 から 52年目にあたる本日(2011年3月10日)、ダライラマは政治代表から引退を表明。この意味について考えてみる
映画 『ルンタ』(日本、2015)を見てきた(2015年8月7日)-チベットで増え続ける「焼身」という抗議行動が真に意味するものとは
■習志野と馬・騎兵
陸上自衛隊「習志野駐屯地夏祭り」2009に足を運んでみた
「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加-習志野大地はかつて野馬の放牧地であった
その後、日本の大陸進出によって創り出された満洲国で、モンゴル騎兵を育成するための興安軍官学校が設立され、日本の影響圏のなかで多くのモンゴル人騎兵が育成されることになる。日本の大陸進出の野心と、民族自決を目指すモンゴル人の意図が合致したのであった。しかしながら、それは同床異夢ではあったが・・。
1939年のノモンハン戦争(=ハルハ河戦争)は、日本軍とソ連軍との激突であったが、日本側とソ連側の双方でモンゴル人将兵が対峙することになった。まことにもって「分断民族」の悲劇としかいいようがない。日蒙二世の青年を主人公とした安彦良和氏の傑作歴史冒険活劇マンガ『虹色のトロツキー』に活写されているとおりだ。
しかも、「五族協和」を謳った満洲国においては、モンゴル人だけが優遇されることはなく、不倶戴天の敵である中国人と対等の扱いを強いられた。日本人による統治方針とモンゴル人の願望とのズレが拡大していったのだ。民族自決を目指していたモンゴル人の日本への不満が高まっていく。
日本の敗戦によって日本が大陸から撤退すると、南モンゴルは最終的に中国共産党の支配下に組み込まれる。大戦後の戦後構想を取り決めた「ヤルタ会談」(1945年)において、当事者であるモンゴル人不在のまま、大国間の密約により、スターリンの主張に基づき南モンゴルは中国の勢力圏と決められたからである。 モンゴル統一の夢は潰えたのだった。
そして、1949年の中華人民共和国成立後、モンゴル騎兵も人民解放軍に組み込まれることになる。毛沢東は、モンゴル騎兵の実力を熟知しており、最大限に利用しようと考えていた。
モンゴル騎兵が実戦に投入され功績をあげたのは、1958年から1960年にかけて実行された「チベット侵攻」である。これが、本書のタイトルである『チベットに舞う日本刀』ということになる。モンゴル騎兵は、中国共産党の傭兵として利用されたのだ。
抵抗勢力とみなされたチベット民族に振り下ろされたモンゴル騎兵の日本刀、おなじチベット仏教を信仰するチベット人に対する殺戮行為は、モンゴル人にとっては悔やんでも悔やみきれないものとなる。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマのダライは、海(=大草原)を意味するモンゴル語なのである。
毛沢東は、伝統的な中国人の異民族支配の手法である「夷(い)をもって夷(い)を制す」を実践したのである。自ら手を下すことなく、漢人にとっての異民族であるモンゴル人にチベット人制圧を行わせたのである。この事実は、この本を読むまで知らなかった。チベット侵攻自体が非難すべきだけでなく、モンゴル騎兵が絡んでいたとは・・。
中国共産党がなすことは、じつに極悪非道としかいいようがない。
チベット侵攻においてモンゴル騎兵の実力を知り抜いた毛沢東は、諸刃の剣であることを認識しており、文化大革命時代には反乱の目をつむためにモンゴル騎兵を解体、モンゴル民族の虐殺を開始する。一説によれば10万人規模のモンゴル人が殺されたのだという。まさにジェノサイドである。チベット人やウイグル人だけではない、モンゴル人もまた抹殺対象となり、土地を奪われていったのである。
ソ連の影響下で辛酸をなめることになったとはいえ、北モンゴルは独立を獲得し、現在に至るまで独立を確保できているのに対し、南モンゴルは現在に至るまで中国共産党による圧政のもとに、民族固有の生活習慣や文化を否定され、苦しんでいる。
日本人の認識においては、ドイツとベトナムが統一したあと、朝鮮民族が最後の「分断国家」と認識されているようだが、アジアではモンゴル民族がいまだに「分断民族」のままとなっていることを認識しなくてはならない。
その意味では、モンゴル現代史やチベット現代史、中国現代史に関心のある人だけでなく、アジアの現状に関心のある人は、読むべき本であると思うのである。
本書の姉妹編である『日本陸軍とモンゴル-興安軍官学校の知られざる戦い-』(中公新書、2015)とともに読むことをすすめたい。
『チベットに舞う日本刀 ー モンゴル騎兵の現代史』
目 次
はじめに-日本人よ、「モンゴル」を忘れないでほしい!
主要登場人物紹介
第1部 民族の自決
第1章 青春の習志野
第2章 燃ゆる興安嶺
第3章 狼煙あがるホルチン草原
第4章 馬蹄轟く天安門
第2部 中国の傭兵
第5章 「ヨーロッパの中世よりも暗黒」なチベット
第6章 武功輝くタングラ山
第7章 血潮滾るジュクンド
第8章 サムライたちの崑崙
第9章 意気揚々青海湖
第10章 女神の崑崙路
第11章 悲恋の玄界灘
おわりに-日本人よ、「自虐」にも「自尊」にもなるな
参考文献と資料
『日本陸軍とモンゴル ー 興安軍官学校の知られざる戦い』
目 次
まえがき
序章 軍人民族主義者とは何か
第1章 騎兵の先駆と可愛い民族主義者
第2章 民族の青春と興安軍官学校
第3章 植民地内の民族主義者集団
第4章 興安軍官学校生たちのノモンハン
第5章 「チンギス・ハーン」のモンゴル軍幼年学校
第6章 「草原の二・二六事件」と興安軍官学校の潰滅
終章 「満蒙」残夢と興安軍官学校生の生き方
あとがき
参考文献
関連年表
<関連サイト>
書評 日本人よ、「モンゴル」を忘れないでほしい! (文: 楊 海英 (静岡大学教授)、2014年11月14日)
・・「はじめに」より転載
<ブログ内関連記事>
■満蒙時代の南モンゴル(=内蒙古)
「赤羽末吉スケッチ写真 モンゴル・1943年」(JCIIフォトサロン 東京・半蔵門)に立ち寄ってきた(2016年6月18日)-絵本作家の赤羽末吉が撮影した戦前の内蒙古
『スーホの白い馬-モンゴル民話-(日本傑作絵本シリーズ)』(大塚勇三・再話、赤羽末吉・絵、福音館書店、1967)-「良質な絵本」もまた大事にしていくべき「昭和遺産」だ
書評 『回想のモンゴル』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 初版 1991)-ウメサオタダオの原点はモンゴルにあった!
書評 『ノモンハン戦争-モンゴルと満洲国-』(田中克彦、岩波新書、2009)-もうひとつの「ノモンハン」-ソ連崩壊後明らかになってきたモンゴル現代史の真相
書評 『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略-』(関岡英之、祥伝社、2010)-戦前の日本人が描いて実行したこの大構想が実現していれば・・・
■チベット問題
「チベット・フェスティバル・トウキョウ 2013」(大本山 護国寺)にいってきた(2013年5月4日)
「チベット蜂起」 から 52年目にあたる本日(2011年3月10日)、ダライラマは政治代表から引退を表明。この意味について考えてみる
映画 『ルンタ』(日本、2015)を見てきた(2015年8月7日)-チベットで増え続ける「焼身」という抗議行動が真に意味するものとは
■習志野と馬・騎兵
陸上自衛隊「習志野駐屯地夏祭り」2009に足を運んでみた
「下野牧」の跡をたずねて(東葉健康ウォーク)に参加-習志野大地はかつて野馬の放牧地であった
(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!)
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(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!)
end