経営学者ドラッカーの名前を一度も聞いたことがないビジネスパーソンは、まずいないだろう。聞いたことがなくても「目標管理」(MBO:Management by Objective)の人といえばドラッカーのことであり、知らず知らずのうちにドラッカーのマネジメントを実践しているはずだ。
ピーター・ドラッカーが2005年に亡くなってすでに15年たつが、いまだに日本では「経営学者」として名が通っている。本人は「社会生態学者」と名乗っていた。どうやらドラッカー自身の自己認識と他者認識にズレがあったようだ。
経営学の範囲を超えた著作活動を行っていたことを考えれば、「社会生態学者」のほうがふさわしいのではないかと私も思っていたが、その理由はこうだ。
1990年から足かけ3年(正味2年間)にわたって米国にMBA留学していたが、MBAの授業ではドラッカーの「ド」の字も聞いたことがなかったからだ。どうやら、1990年時点で経営学においてはドラッカーはすでに時の人ではなかったことに気づいたのである。
この認識はドラッカーを「神」として敬ってきた日本ではまったく通用しなかったが、ドラッカー死後の2010年代に入ってから、ようやく日本でも意識されるようになってきた。
米国帰りの気鋭の経営学者・入山章栄氏の『世界の経営学者はいま何を考えているのか-知られざるビジネスの知のフロンティア』(英治出版、2012年)が出版されてからだ。すくなくとも、米国を中心とした経営学の世界では、ドラッカーはメインストリームではないのだ、と。
■ドラッカーをその出発点であった「保守主義思想家」として捉える
では、ドラッカーをどう評価していくべきか。その1つは、ドラッカーを思想家として見ることであろう。しかも、経営思想家が誕生する前提である政治思想家としてのドラッカーである。
それは、第2次大戦前夜から始まった社会主義とナチズム、ファシズムの時代を生き抜いた西欧人が、いかに保守主義の政治思想を形成し、大戦後の米国で経営学にたどり着いたかの軌跡を振り返ることになる。
重要なことは、ドラッカー自身は経営者ではなかった、ということだ。ビジネス関係者ですらない。大学の教職にあった知識人だが、ビジネス界の組織人であったわけではない。回想録のタイトルにあるように「傍観者」(bystander)であり、実践ではなく、徹底した「観察」によって考察を深め、産業社会における「マネジメント」を思想として確立したことにある。
その意味で、この『思想家ドラッカーを読む-リベラルと保守のあいだで』(仲正昌樹、NTT出版、2018)を読むと面白い。著者は、ドイツを中心にした思想史の研究者である。
著者は、ドラッカーに心酔しているわけではない。むしろ、自己啓発書が嫌いで、商売やビジネスにかかわることは正直いって苦手、できればかかわりたくない(笑)という思想史の研究者だ。このスタンスは、みずからを「傍観者」と規定していたドラッカーには、意外とフィットしているかもしれない。
この本を読んでも、当然のことながらドラッカー経営学はわからないだろう。「経営思想史」にドラッカーを位置づけた本ではないからだ。ドラッカーのマネジメントが、いかなる「政治思想」の背景から生まれてきたかを跡づけたものだ。
19世紀末の転換期に爛熟期を迎え、20世紀初頭の第1次世界大戦によって旧社会が崩壊するに至った西欧。そのど真ん中ともいえるドイツ語圏のウィーンで生まれ育ったユダヤ系のドラッカーを、同時代のウィーンから生まれた経済学者のシュンペーターやハイエク、カール・ポランニー(ただしブダペスト生まれ)と比較すると、なにが共通し、なにが相違しているのかをつうじて見えてくるものがある。ここにあげた経済学者たちは、いずれも欧州を去って米国に移り、それ以後は英語で著作活動を行っている「知の巨人」たちだ。
仲正氏の本書で重要なのは、ドラッカー政治思想の原点ともいうべき、プロイセンの法学者シュタールの「保守主義」の政治思想をくわしく紹介しながら、ドラッカーがシュタールのなにを否定し、なにを受け継いだかを検討していることだ。この作業をつうじて、ドラッカーの「保守主義」思想が、英国のエドマンド・バークやフランスのトクヴィルから来たものではないことが理解されることになる。
■なぜ日本ではドラッカーが「神」とされたのか
読み進めるうちに、なぜドラッカー経営学が、とくに日本では大いに受け入れられたのか、その理由がおぼろげながら理解されることになろう。
一言でいってしまえば、それは個人と組織の関係である。社会変動によっってバラバラになってしまった個人に居場所を与える「共同体」としての組織。すくなくとも20世紀までは、この認識が有効に働いていたことは、「日本的経営」がブームとなっていた時代を知っている人には、大いに納得がいくものだ。
だが、21世紀の現在、デジタル資本主義の急速な進展がドラッカー経営学を陳腐化していることは否定できない。ドラッカー自身も、みずからを経営学者であるよりも、社会生態学者として認識してほしいと願っていたのもそのためだろう。時代はすでにドラッカーをはるかに追い越している。
とはいえ、ドラッカーのマネジメントに価値がまったくなくなってしまったわけではない。「共同体」としての性格が生きている事業体(それはビジネスに限らない)であれば、その有効性は現在でも大いにあるというべきだろう。ドラッカーの経営思想をノウハウ化してしまえば、それは有効な経営ツールとなる。
本書『思想家ドラッカーを読む-リベラルと保守のあいだで』は、ドラッカーを経営学という狭い枠組みからはずして、20世紀後半の主要思想を構築した思想家として位置づけるための第1歩である。
ただし、繰り返しておくが、この本を読んでも、ドラッカー経営学はわからないことは言うまでもない。逆に、ドラッカーのマネジメントを知った上で読むと、面白さは倍加するといっていいのではないだろうか。異なる視点でドラッカーを解剖した内容の本となっているからだ。
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目 次まえがき 人文学者、ドラッカーを読む第1章 ウィーンのドラッカー1 世紀転換期のウィーンとユダヤ人2 "傍観者" の視点とは3 「昨日の世界」からの離脱4 ドラッカーのフロイト観5 ポランニーの功罪6 ドラッカーの基本的スタンス第2章 守るべきものとは何か?1 法学徒としてのドラッカー2 保守主義者シュタール3 ヘーゲルからシュタールへ4 「法治国家」とは何か?5 保守主義と革命のあいだで6 保守主義的国家論とは何か?7 ドラッカーと「ユダヤ人問題」第3章 なぜファシズムと闘うのか?1 ファシズム全体主義とは何か?2 マルクス主義はなぜ大衆を裏切ったのか?3 ブルジョワ資本主義の落とし穴4 「脱経済化」するファシズム5 「第三の道」としての産業社会6 株式会社という権力7 「自由」が生み出す正統な権力8 保守主義と「産業社会の未来」第4章 思想としての「マネジメント」1 ドラッカーの経済思想2 「イノベーション」の思想史的意義3 「イノベーション」のための組織とは4 分権的組織の共同体的意義5 マネジメントの社会的責任をめぐって終章 弱き個人のための共同体としての企業注さらに深めたい読者のためのブックガイド関連年表あとがき
著者プロフィール仲正昌樹 (なかまさ・まさき)1963年、広島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究博士課程修了(学術博士)。 現在、金沢大学法学類教授。文学や政治、法、歴史などの領域で、 アクチュアリティの高い言論活動を展開している。 著書に『今こそアーレントを読み直す』 (講談社現代新書)、『いまこそハイエクに学べ』(春秋社)、 『日本とドイツ 二つの全体主義』(光文社新書)、『現代ドイツ思想講義』(作品社)、 『集中講義!アメリカの現代思想』(NHKブックス)、『精神論ぬきの保守主義』(新潮選書)、 『現代思想の名著30』(ちくま文庫)など多数。
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