2023年10月11日水曜日

書評『セカンドハンドの時代 ー「赤い国」を生きた人びと 』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、松本妙子訳、岩波書店、2016)ー 「未来」が失なわれた社会では、人びとは「過去」に「ユートピア」を求めることになるが・・・

 


ずしりと重い、600ページを越える大冊。それにもまして、ここに収められた多様な声のそれぞれが重いのだ。一言で要約することなどできない多様な声、声、声複数の声は、それぞれが固有の声であり、しかし時代の声としてひとつのものでもある。

社会主義体制の70年。そして改革への期待と失望、裏切られ感。戦争に負けたわけではないのに、崩壊した社会主義体制。

この大著は、聞き書きによる「内側からみた社会主義体制70年の証言」である。外側からみたら全体像は見えるが、内側から見ないと人びとの思いまではわからない。

ソ連崩壊がもたらしたものは、そのなかで生きてきた「ソ連人」(ホモ・ソビエティクス)にとっては解放であったと同時に失望であり、無慈悲なまでも切り捨てであった。内戦にはならなかったが、のちのユーゴ紛争でつかわれるようになった「民族浄化」ともいうべき虐殺さえ発生している。

うまく適応できなかった人だけではない。成功した人もまた心に抱えるものがある。心に、内面に抱え続けてきた、ことばにならない思いをなんとかことばにしようともがく人たち。魂の底から絞り出された声、届くか届かないかわからなくても声に出さずにはいられない重い。

こんな多くの声を聞き出し、聴き取った著者は、ジャーナリストの域を超えて、セラピストのような印象さえ受ける。

ただひたすら寄り添い、語るにまかせる。そのことじたいが、いかに大変なことか。だが、この聞き取りという行為をつうじて、癒やされた人も少なくないのではないか。そんな気がする。




『セカンドハンドの時代』というのは、全体の2/3以上を読んできて、ようやく実感されてきた。

時代が変わると期待したにもかかわらず、期待は裏切られ、どん底まで落とされた人たちがなんと多かったことか。やってきたのは新たな時代ではなく、おなじことの繰り返し。使い古しの過去。セカンドハンドの時代。

ロシア語の原題は、Время секонд хэнд である。英語の「セカンドハンド」をキリル文字表記した секонд хэнд がそのままつかわれている。ソ連崩壊後にやってきた時代を象徴的に表現したものといえるかもしれない。

激変をもたらしたソ連崩壊は、激変が終わってみると、また元の昔の状態に戻っている。それは社会主義以前の時代であり、社会主義時代そのものでもある。いや、それは似ているだけで、ほんとうは違う。状況は厳しくなる一方だ。

『セカンドハンドの時代』は、フランスでは2013年メディシス賞、ロシアでは2014年ボリシャーヤ・クニーガ賞(読者投票部門で1位)、ポーランドでは2015年リシャルト・カプシチンスキ賞を受賞している。 読者から受け入れられているのだ。


■かつてソ連ではロシア語が「共通言語」であった

ベラルーシのジャーナリストで作家のアレクシエーヴィチ氏は、2015年にノーベル文学賞を受賞している。

父親はベラルーシ人、母親はウクライナ人。典型的な「ソ連人」であったといえよう。

ソ連時代に生まれ育った人であるからこそ、共通言語であったロシア語で取材活動が可能となったのである。「支配言語」であったとはいえ、ソ連全域でロシア語でのコミュニケーションが可能であった。


『セカンドハンドの時代』は著者のいう「ユートピア五部作」の最後となる作品で集大成なのだという。

「ユートピア五部作」とは、『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争 ー 白ロシアの子供たちの証言』『亜鉛の少年たち』『チェルノブイリの祈り』そして『セカンドハンドの時代』の5つの作品である。

日本でも『戦争は女の顔をしていない』を原作にしたマンガがベストセラーになっていることもあって(続刊が継続中)、よく知られた作家になっているアレクシエーヴィチ氏。

1940年代前半の独ソ戦を女性視点で描いた『戦争は女の顔をしていない』、子どもの視点で描いた『ボタン穴から見た戦争』である。この2作はいまだ読んでないが、1980年代のソ連社会を描いた『亜鉛の少年たち』(・・ただし、増補版になる前の『アフガン帰還兵の証言』)と『チェルノブイリの祈り』はすでに読んでいる。

いずれもナマの声で構成されており、その響きは重い。1980年代に20歳台を過ごしたわたしには、とりわけそう感じられる。


■「未来」が失なわれた社会では、人びとは「過去」に「ユートピア」を求めることになるが・・・

『セカンドハンドの時代』には、三世代にわたるソ連人の声が収められている。

ソ連崩壊によって絶望して死を選んだ自殺者たち、その本人と残された家族、ラーゲリに収容された経験者と収容所の管理者、元兵士、ソ連時代の生活基盤が崩壊したインテリ層、地下鉄の爆破テロ被害者、旧ソ連の各地からきた難民たち。街頭のかわされる声、台所でかわされる声。

読んでいると、なんとも言いようのない気分になってくる。正直いって疲れてくる。連続して読み続けることができないのは、それぞれの人が語ることばがあまりにも重いからだ。しかも、それは複数の声であり、異なる声が重なり合い重層的になることで、見えてくるものがる。

これがソ連の現実であったのであり、ロシアの現実なのである。現実が酷いから、よけいに過ぎ去ったソ連時代の過去が「ユートピア」として美化されているのかもしれない。

だが、人びとの「感情」こそ大事なのだ。歴史書に残ることのないのが「感情」。その時代を生きた人びとの「感情」。その時代に生きた人たちが、どう思って生きていたのか。声なき声。

ソ連崩壊が生み出した無秩序。激しい憎悪。ゴルバチョフの「ペレストロイカ」に期待して失望させられ、「クーデター」の危機を乗り越えたエリツィンに期待して失望させられた人びと。激変をなんども体験しているロシア、しかし本質的になにも変化していないロシア

すべてが終わり新しい時代が始まるという「終末」の待望。だが、「黙示録」(アポカリプス)に求めた慰めは、無限に循環する「空」(くう)の魅力にとって代わられることになる。それぞれ新約聖書と旧約聖書のメタファーである。前者は『ヨハネの黙示録』、後者は『伝道の書』の「空の空なるかな」だ。

だからこそ、ソ連時代を懐かしみ、とくに「ブレジネフ時代」を懐かしむ気持ちはわからなくない

冷戦状況がデタントによって均衡していたブレジネフ時代は、停滞していたとはいえ、ロシア史においては、まれなほど平穏な時代であったのだ。自由は制限されていたが、極端な貧富の差はなく、民族差別もない(はずの)平等な社会であった。

読んでいて想起したのは『ヒルビリー・エレジー』である。米国の東南部で再生産される「貧困の無限ループ」ソ連崩壊後の旧ソ連もまた、その状態に陥っている。しかも、ロシアは500年以上にわたって「農奴制」がつづいた社会である。ソ連時代もまたその延長線上にあった。

そんな状況で待望されるのは、強権的なまでに強いリーダーである。右派的なリーダーである。米国ではトランプが大統領として登場した。ロシアではスターリンのようなリーダーが待望され、プーチンの支持が高止まりしている。米国においても、ロシアにおいても、そんな状況にあるのは、けっして理解できないことではない。

だが、そういうリーダーを選び出して支持した国民は、それぞれ期待が裏切られ、失望することになるのだろう。イソップの有名な寓話にあるが、ひたすら強い王を待望しつづけたカエルたちの末路のように。

歴史はそのまま繰り返すことはないが、「使い古しの過去」が手を変え品を変え繰り返されることになる。「セカンドハンドの時代」とはそういうことか。なるほどそうだなと思わざるをえない。


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目 次 
共犯者の覚え書き
第1部 黙示録(アポカリプス)による慰め
 街の喧騒と台所の会話から(1991~2001)
 赤いインテリアの十の物語
第2部 空(くう)の魅力
 街の喧騒と台所の会話から(2002~2012)
 インテリアのない十の物語
庶民のコメント
訳者あとがき
関連地図/関連年表/人名注


著者プロフィール
アレクシエーヴィチ,スヴェトラーナ(Светлана Алексиевич)
1948年ウクライナ生まれ。国立ベラルーシ大学卒業後、ジャーナリストの道を歩む。綿密なインタビューを通じて一般市民の感情や記憶をすくい上げる、多声的な作品を発表。戦争の英雄神話をうち壊し、国家の圧制に抗いながら執筆活動を続けている。2015年ノーベル文学賞受賞。

日本語訳者プロフィール
松本妙子(まつもと・たえこ) 
1973年早稲田大学第一文学部露文科卒業。翻訳家。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの



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