『井筒俊彦 起源の哲学』(安藤礼二、慶應義塾大学出版会、2023)がこの9月に出版された。おお、ついに出たか。安藤礼二氏の井筒論が。
安藤礼二氏は「折口信夫という謎」に迫った「集大成」となる『折口信夫『(2014年)で有名だが、『近代論 ー 危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版、2008)では、すでに鈴木大拙、南方熊楠とならんで井筒俊彦をとりあげていた。だから、著者による「井筒論」を待っていたのだ。
若松英輔氏による本格的評伝がでてから12年、文芸評論として井筒俊彦を本格的に取り上げたものとしては、それにつぐものとなる。ただし、テイストはかなり異なる。
「起源の哲学」と副題にある。「起源」とは、折口信夫なら「発生」というところだろう。宗教が、文学が、そして哲学ががどこから生まれてくるのか、その「起源」である。そしてその「起源」は、生物学のタームを転用した「発生」と同様、一回限りのものではない。
井筒俊彦は、すべてを「言語」という人間が生み出した不可思議な存在の探求を基点にすえている。言語哲学である。意味論哲学である。
宗教の起源も、文学の起源も、そして哲学の起源も、すべては言語の起源から出発する。井筒俊彦の主たる関心はあくまでも言語意味論にあった。イスラームへの関心は二次的なものであったというべきだろう。
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論理と呪術。ロジックとマジック。言語の表層と深層。
言語はつねに二重性を帯びている。意識の底の底、言語もまた日常的にコミュニケーションで使用するのとは違う次元がある。井筒俊彦が「言語アーラヤ識」と命名した次元である。
深層言語は、詩的言語であり、呪術の言語である。その深層言語から宗教が、文学が、哲学が生まれてくる。
井筒俊彦の原点となったのが『神秘哲学』(1948年)であり、ここに解明されているのが「哲学の起源」である。そして『ロシア的人間』(1953年)は「文学の起源」、そして英文著作のため知られてこなかった『言語と呪術』(Language and Magic)で、すべての基盤となる「言語の起源」が解明される。
『言語と呪術』の英語版を読み込んで、日本語版監訳者をつとめた著者ならではの読みが本書を生み出したといっていい。
もちろん、20年にわたって井筒俊彦が残した著作を読み込み、謎につつまれた人生を解明してきた著者と同一地点に立つことはむずかしい。
読者としても、ある程度まで井筒俊彦の作品を読んでいることが、本書を読むにあたって必要だろう。
■「自他未分離状態」を起源とする哲学には正負がある
代表作である『意識と本質』(1983年)のページをめくってみよう。
そこに展開されているのは、一神教のイスラームにおける「存在一性論」、ウパニシャッドの「梵我一如」あるいは「不二一元論」、大乗仏教の華厳経の「一多相即」などだ。
そしてその根底にあるのは、『神秘哲学』で全面的に取り上げられ、最後の著書となった『意識の形而上学 ―『大乗起信論』の哲学』においても語られるプロティノスの「光の哲学」である。
いわゆる「神人一体」的な、自他の区分が消滅してしまう境地から発生してきた哲学、具体的にいえば、イスラームから大乗仏教、老荘思想などに共通する「構造」を抽出して「東洋哲学」を樹立しようという、壮大な試みを実行したのが言語哲学者としての井筒俊彦であった。*
*ただし、あくまでも一神教のイスラームにおける現れ方は、構造的ににはインドや中国、日本のそれとおなじだとはいえ、異なるものであることは言うまでもない。
自他の区分が消滅してしまう「無分別」の境地は、あらたなものがそこから生まれてくる「カオス的状態」であり、イノベーションが生まれる母胎である。それは「直観」として突然生じてくる。
そしてまたそれは、「人類同胞意識」が生まれてくる母胎でもある。わたしはあなた、あなたはわたし、という状態。
なぜなら、「我即宇宙」、すなわち、わたし(=アートマン)は宇宙(=ブラフマン)であるということは、あなた(=アートマン)もまた宇宙(=ブラフマン)でもあり、つまるところ、わたしもあなたも宇宙であり、したがって、わたしとあなたという人間は、宇宙として同一なのだ。
とはいえ、自他無分別状態が生み出す思考には正負の両面がある。負の側面とは、ひとりひとりの人間の、個体としての差異が消滅してしまう危険である。全体主義と親和性が高いことは否定できないのである。西洋人と比較して「自我」(エゴ)の確立していない日本人の場合は危険度は高い。カルト教団についても同様だ。
現在ではよく知られている井筒俊彦と大川周明の関係も、イスラーム関連だけでなく、戦時中の国策であった「アジア主義」の観点から捉える必要がある。鈴木大拙もまたそうだ。
ただし、なにごとも正負の両面があることは、「アジア主義」もまたおなじである。
■日本人が、日本語で考えるための財産としての「井筒哲学」
井筒俊彦自身は、あまりインド哲学には深入りしなかったようだが、現代の欧米社会では「ネオ・アドヴァイタ」、すなわちヒンドゥー教のシャンカラの「不二一元論」の現代版がスピリチュアルの界隈では流行しているらしい。
とはいえ、日本語人にとっては、英語圏で流行する「不二一元論」の現代版である「ネオ・アドヴァイタ」を「輸入」するよりも、「存在一性論」を軸に思考を展開し、しかも禅仏教の瞑想体験をもとにした井筒俊彦の「東洋哲学」から出発したほうが、より生産的といえるのではないだろうか。
「ネオ・アドヴァイタ」は、あくまでも異文化としての東洋文化を受容した現代西欧の産物である。それとは逆に、西洋文明を受容して西洋化された日本人も、深層部分では西洋化されているわけではないのである。
では、日本語で思考する日本語人は、どうするべきであるか。ここで井筒俊彦のコトバを引いておこう。『意識と本質』(岩波書店、1983)の「後記」 から。
日本語によって存在を秩序付け、日本語特有の意味分節の網目を通して物事を考え、物事を感受し、日本語的意味形象の構成する世界を「現実」としてそこに言い切る我々が、心の底まで完全に欧化されてしまうことはあり得ない。ということは、要するに、我々現代の日本人の実存そのもののなかに、意識の表層と深層とを二つの軸として、西洋と東洋とが微妙な形で混交し融合しているということだ。
無意識レベルですらこうなのだから、意識して取り組めば実り多き成果がもたらされるはずである。日本語を母語とする人は誰でも、その資格要件を満たしているからだ。あとは気づきと、精進あるのみ、である。
日本人が、日本語で考えるための財産を遺してくれた井筒俊彦に、大いに感謝すべきである。
とはいえ、「井筒哲学」は終点ではない。「西田哲学」と同様、それを超えていく試みがなされていかねばならないのである。そのキッカケを与えてくれたのが、安藤礼二氏による「井筒論」であった。「誤読」が創造的行為につながること、それを願うのみだ。
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目 次はじめに第1章 原点 ― 家族、西脇順三郎、折口信夫第2章 ディオニュソス的人間の肖像第3章 始原の意味を索めて ―『言語と呪術』第4章 戦争と革命 ― 大東亜共栄圏とイラン革命第5章 東方の光の哲学 ― プロティノス・華厳・空海第6章 列島の批評 ―「産霊」の解釈学終章 哲学の起源、起源の哲学付録Ⅰ 井筒俊彦と空海
Ⅱ 井筒俊彦とジャック・デリダ
著者プロフィール安藤礼二(あんどう・れいじ)1967年東京生まれ。文芸評論家、多摩美術大学図書館情報センター長、美術学部教授。出版社勤務を経て、2002年「神々の闘争 ― 折口信夫論」で群像新人文学賞評論部門優秀作、2006年『神々の闘争 折口信夫論』で芸術選奨新人賞を受賞。2009年『光の曼陀羅 日本文学論』で大江健三郎賞と伊藤整文学賞を受賞。2015年『折口信夫』でサントリー学芸賞と角川財団学芸賞を受賞。その他の著書に、『大拙』『熊楠 生命と霊性』『縄文論』など、翻訳書に井筒俊彦『言語と呪術』(監訳・解説、慶應義塾大学出版会)がある。(amazonより)
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・・『華厳経』への言及がされており、「自他未分離」の状態でイノベーションが生み出されると体験者が語る。それはなにかが生み出される根源である「カオス」状態と言い換えていいかもしれない
・・吉福伸逸は、欧米人とは違って、自我(エゴ)の確立しない日本人が、自我を超えることを意味するトランスパーソナルにはまることの危険性について口にしていたという
・・「我即宇宙」を説いたのは、出口王仁三郎のもとで精神修行を行っていた合気道開祖の植芝盛平であった
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