『井筒俊彦 ー 叡知の哲学』(若松英輔、慶應義塾大学出版会、2011)は、哲学者・井筒俊彦の全体像に迫るはじめての本格的評伝である。
出版されてからほどなく読んだのだが、書評を書き上げることなく現在まできてしまった。しかもいったん書いておいた下書きのファイルをパソコン事故によって消去してしまったので、あらためて一から書き直してみることにする。
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わたしは大学時代からリアルタイムで井筒俊彦(1914~1993)の著作に親しんできた。
新刊が出版されるたびに単行本を買い求めてきた(・・そのほとんどが岩波書店だったのは、合庭淳という編集者が伴走者として存在したからのようだ)。著作や論文のすべてに目を通したわけではないが、次は何がでるのかいつも楽しみにしていた。だから、著作のほとんどは単行本でもっている。
最初はイスラーム関係からのアプローチであった。だが、あるとき大学生協の書棚に『神秘哲学』(人文書院)を見出して手に取ったとき、イスラームとはまったく畑違い(と見えた)古代ギリシアの哲学者たちを扱ったものであることを知ったときの驚き、そしてまたロシア文学にかんする単行本の存在を知り大学図書館で借りだしてみたこと。あまりもの守備範囲の広さには驚嘆するばかりだった。
大学学部でユダヤ史にかんする卒論執筆のために資料収集していたとき、「東印度に於ける回教法制」という戦時中の報告書を図書館で発見した。そしてその報告書が、右翼思想家とされていた大川周明のもと、東亜経済研究所で戦時中にイスラーム研究を行っていた井筒俊彦によるものであることを知り、井筒俊彦という人が単なる学者の域をこえていたことを知る。これは司馬遼太郎との対談ではじめて明らかにされたことだ。
そしてまたサルマン・ラシュディーの『悪魔の詩』を日本語訳したために、勤務先の筑波大学のキャンパスで暗殺された五十嵐一氏が、イランのテヘランの王立アカデミーにいた井筒俊彦のもとで研究活動を行っていたこともあとから知った。
これ以上書いても意味はない。30年前から井筒俊彦の読者であったといいたいだけだ。
本書の著者である文芸評論家の若松英輔氏は、会社経営のかたわら、井筒俊彦のすべての業績を網羅してフォローしているだけでなく、さらには単行本や著作集にも収録されていなかった文章を探し出して『読むと書く-井筒俊彦エッセイ集-』に編集している。
『神秘哲学』の第二部の読者は知っていても、一般には知られざる一面であった、井筒俊彦におけるカトリック神秘主義への傾倒に大きな光をあてたことは大いに評価したい。
若松氏自身は井筒俊彦と同じく慶應義塾出身で、しかもカトリックだそうだが、同じくカトリック作家であった須賀敦子へのまなざしは十分に納得いく。だが、カトリックの枠にとらわれることなく、イスラームや仏教もふくめた諸宗教への目配りが素晴らしい。
特筆すべきは、天理教の内側にいた宗教哲学者・諸井慶徳(もろい・よしのり)の再発見と、浄土宗の内側からでてきた山崎弁栄(やまざき・べんねい)上人について最後に言及していることだ。
偶然の機会によって古書店で出会ったという諸井慶徳の著作は、しかるべき人に発見された、しかるべき本であったといえよう。この知られざる宗教哲学者とその主著への言及が本書をより深く、より豊かなものにしてくれた。諸井慶徳と井筒俊彦の接点はなかったようであるが・・。
そしてまた山崎弁栄上人。恥ずべきことに、わたしは若松氏の文章を読むまで山崎弁栄上人にはまったく注目していなかった。数学者・岡潔(おか・きよし)が晩年に念仏に専念していたことは知られてるが、岡潔の先生の先生が山崎弁栄だったのだ。
「超在一神的汎神教」の境地に至った霊性の仏教者・山崎弁栄。著者は、井筒俊彦の最終的な境地をそこにシンクロさせている。
哲学とはギリシア語で愛知の学(ふぃろ・そふぃあ)である。それは、すべからく神秘哲学たるべきこと、絶対者との合一であり、魂についての学である。叡智世界に至る修道の道である。
(2011年9月11日に行われた若松氏の講演会のチラシ)
本書は井筒俊彦の全体像をつかもうとした試みであり、井筒俊彦の生涯と作品を読み込むための入門書にもなっている。日本が生み出した真の哲学者である井筒俊彦の全体像を知るためにぜひ読むことをすすめたい労作だ。
そこには膨大な知の集積とともに、それを突き抜けて探求された、たぐいまれな実り豊かな精神世界が待っているはずだ。
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目 次
まえがき
第1章 『神秘哲学』-詩人哲学者の誕生
無垢なる原点
スタゲイラの哲人と神聖なる義務
預言する詩人
上田光雄と柳宗悦
第2章 イスラームとの邂逅
セムの子-小辻節三との邂逅
二人のタタール人
大川周明と日本イスラームの原点
殉教と対話-ハッラージュとマシニョン
第3章 ロシア、夜の霊性
文学者の使命
見霊者と神秘詩人-ドストエフスキーとチュッチェフ
前生を歌う詩人
永遠のイデア
第4章 ある同時代人と預言者伝
宗教哲学者 諸井慶徳
シャマニズムと神秘主義
預言者伝
第5章 カトリシズム
聖人と詩人
真理への実践
キリスト者への影響-遠藤周作・井上洋治・高橋たか子
第6章 言葉とコトバ
イスラームの位置
言葉と意味論
講義「言語学概論」
和歌の意味論
第7章 天界の翻訳者
コーランの翻訳
「構造」と構造主義
イブン・アラビー
老荘と屈原
第8章 エラノス-彼方での対話
エラノスの「時」
オットーとエリアーデ
伝統学派と久遠の叡智
第9章 『意識と本質』
「意識と本質」前夜
東洋へ
精神的自叙伝
「意識」と「本質」
コトバの神秘哲学
第10章 叡知の哲学
仏教と深層心理学-「無」意識と無意識
文学者の「読み」
真実在と万有在神論-西田幾多郎と山崎弁栄
あとがき
引用文献一覧
井筒俊彦年譜
著者プロフィール
若松英輔(わかまつ えいすけ)
1968年新潟生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科卒。批評家。㈱シナジーカンパニージャパン代表取締役社長。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄と井筒俊彦」、「須賀敦子の足跡」など。『小林秀雄-越知保夫全作品-』、『読むと書く-井筒俊彦エッセイ集-』を編集。2010年より、三田文学に「吉満義彦」を連載中。
特設サイト 井筒俊彦(慶應義塾大学出版会)
井筒俊彦先生の著作
(井筒俊彦の著作の数々 わたしの書棚から)
井筒俊彦の主著は岩波文庫に収録されており、いまでは簡単にアクセスすることができる。
そのなかでも『意識と本質-精神的東洋を索めて-』は、日本語で書かれた哲学書のなかでは一級品といっていいだろう。
禅仏教の修行から始まり、セム的世界をキリスト教、ユダヤ教、イスラームと経て、同時に古代ギリシアの神秘主義哲学、カトリック神秘主義を経て、最終的には大乗仏教思想の研究に至る生涯をそのまま書きつづったような井筒哲学のエッセンともいうべき内容である。豊饒の海というべきであろう。
しかも、シャマンの託宣をそのまま文字にしたような井筒俊彦の文章は、学術論文でありながらほとんど散文詩に近い。
その意味では慶應義塾の学部時代の師であった英文学者で詩人であった西脇順三郎、そして学部時代にその盟友である池田弥三郎とともに聴講した国文学者で歌人であった折口信夫(=釈超空)をも髣髴(ほうふつ)させるのがある。
意味はすぐにはわからなくても、ぜひその文章を味わってほしいと思う。
PS 『井筒俊彦-叡知の哲学-』の英訳版が2014年1月に出版
英訳版の Toshihiko Izutsu and the Philosophy of Word: In Search of the Spiritual Orient が LTCB International Library Selection No. 33 として、International House of Japan(国際文化会館)から2014年1月に出版されている。
英訳者のジャン・コーネル・ホフ(Jean Connell Hoff)氏が「井筒哲学を翻訳する」(『井筒俊彦-言語の根源と哲学の発生-(KAWADE道の手帖)』(河出書房新社、2014 所収)で書いているように、二年間をかけて完成したものだという。
LTCB International Library は、LTCB(=Long-Term Credit Bank of Japan:日本長期信用銀行)が国有化とその後の外史への売却によって消滅して以降も、社会貢献事業として存続しているようだ。いまは亡き LTCB の関係者としては、なんだか不思議な感じもしている。
機会があれば英訳版を覗いて見てみたいものだ。
(2014年11月3日 記す)
<関連サイト>
たまには「難解」に挑んでみたい-世界的な学者の業績・井筒俊彦の全集を読む(福原義春 日系ビジネスオンライン 2014年2月4日)
・・このような文章を書けるのは経営者出身とては福原義春さん(元資生堂会長)くらいだろう。こういう重厚な「教養」の持ち主がもっと増えるといいのだが・・・
井筒俊彦の主要著作に見る日本的イスラーム理解 (池内 恵、『日本研究.36』(国際日本文化研究センター、2007年))
・・イスラーム思想のなかでも、規範としての法学ではなく、「神秘哲学」に主体的な関心の中心を置いていた井筒俊彦のイスラーム理解。若手イスラーム研究者による、井筒俊彦の主体的関心のありかとそれが近代日本の知識人のイスラーム理解に与えた影響を論じた重要論文
<ブログ内関連記事>
岡倉天心の世界的影響力-人を動かすコトバのチカラについて-
・・井筒俊彦について触れている
本日(2011年2月11日)は「イラン・イスラム革命」(1979年)から32年。そしてまた中東・北アフリカでは再び大激動が始まった
・・井筒俊彦がイランを脱出するまでの記録を、『意味の深みへ-東洋哲学の水位-』(岩波書店、1985)の「あとがき」から引用してある
本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り
・・井筒訳コーランについて
書評 『失われた歴史-イスラームの科学・思想・芸術が近代文明をつくった-』(マイケル・ハミルトン・モーガン、北沢方邦訳、平凡社、2010)
・・「われわれは幸いなことに、井筒俊彦の著作を日本語で読むことができる。イスラーム哲学がギリシア思想を十分に吸収したうえで成り立っている」ことは常識となるべきだ
書籍管理の"3R"
・・「世界的な言語哲学者・井筒俊彦は、戦前の若き日にアラビア語とイスラーム哲学を直接学んだタタール世界で随一の大学者を回顧して、司馬遼太郎との対談のなかで以下のようにいっている・・」
「宗教と経済の関係」についての入門書でもある 『金融恐慌とユダヤ・キリスト教』(島田裕巳、文春新書、2009) を読む
・・「イスラーム神秘哲学研究の世界的権威であった井筒俊彦は、カトリック作家の遠藤周作との対談のなかで、(ユダヤ教に発するセム的メンタリティについて)次のようにいっている」
書評 『新大東亜戦争肯定論』(富岡幸一郎、飛鳥新社、2006)
・・名と命名について、ひとつだけ引用を行っておく。イスラーム哲学の世界的権威で言語哲学者であった井筒俊彦博士の遺著 『意識の形而上学-『大乗起信論』の哲学-』(中央公論社、1993)からの引用である」。名を正すということについて
「如水会講演会 元一橋大学学長 「上原専禄先生の死生観」(若松英輔氏)」を聴いてきた(2013年7月11日)
(2014年1月29日 情報追加)
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