2020年1月28日火曜日

JBPressの連載コラム第70回は、「英国のEU離脱は「解体」への一里塚か? -第1幕が終了したブレグジット、英国解体のドラマが始まった」(2020年1月28日)


JBPressの連載コラム第70回は、英国のEU離脱は「解体」への一里塚か? -第1幕が終了したブレグジット、英国解体のドラマが始まった」(2020年1月28日)
⇒ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59090
   
昨年(2019年)12月の保守党の圧勝により、今年1月末の「EU離脱」がほぼ確実なったと思い込んでいた矢先、さらに衝撃的な「離脱」のニュースが世界を駆け巡った。

英国王室で王位継承第6位のヘンリー王子(通称、ハリー王子)とメーガン妃の夫妻が、王室から半独立するという意向を一方的に表明したのだ。今年1月8日のことである。

一方的な「独立宣言」に対して、現在93歳の祖母エリザベス2世女王は、きわめて厳しい処断を下した。肉親として孫をかわいいと思うことと、家長として王室を守ることは別というメッセージが内外に示されたのだ。

これでヘンリー王子夫妻の王室からの「離脱」が決定的となった。今年の春に「離脱」の予定である。

一方、ブレクジットの方は、今週末の1月31日23時(現地時間)に「離脱」するスケジュールとなった。

一口に「離脱」といっても、「する側」と「される側」の双方を見る必要がある。これは個人であれ、国家であれ同じことだ。

歴史を振り返れば、「離脱」はしばしば「解体」の引き金になってきた。最近のケースでいえば、「イラン核合意」が、2018年の米国の「離脱」によって「解体」の危機にあることをあげることができるだろう。

さて、英国の将来はいかに? 第1幕が終了したブレグジットだが、英国解体のドラマが始まったのだろうか?

つづきは本文にて https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59090



(ユニオンジャックと国の形の変遷 拙著『ビジネスパーソンのための近現代史』より)








<ブログ内関連記事>

2019年の英国総選挙で保守党が圧勝!-これでブレクジットへの道は確実となった!

ついに英国が国民投票で EU からの「離脱」を選択-歴史が大きく動いた(2016年6月24日)

本日よりネットメディアの「JBPress」で「連載」開始です(2017年6月6日)

JBPressの連載コラム第57回は、「英国の民衆弾圧、ピータールーの虐殺を知っているか-200年前の英国の民主化運動から現在の香港を見る」(2019年7月30日)



 
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2020年1月23日木曜日

マルクス・アウレリウスとガレノス ー 皇帝と侍医という組み合わせのなかでも特筆に値する2人


『自省録』と『ガレノス』が並んで陳列されている。これは、いい組み合わせだ。丸善ならでは、といえようか。

というのは、近代医学が発生し、確立するまで西洋医学を支配し続けた学説を生み出したガレノスは、じつはローマ皇帝マルクス・アウレリウスの侍医だったから。書店員さんの見識の高さに脱帽!

西洋医学を長く支配したガレノスが、皇帝マルクス・アウレリウスの侍医だったことは、昨年(2019年)4月に出した『超訳 自省録』(ディスカヴァー・トエンティワン)の解説には書かなかったが、ぜひ知っておいていただきたきたいと思う。紀元1世紀の話である。

皇帝(あるいは国王)と侍医の組み合わせには、このほかサラディンとマイモニデスという例もある。

サラディンとは、12世紀から13世紀にかけてエジプトを中心に中東を支配するアイユーブ朝の創始者の武人である。クルド人の出身で、アラビア語風に表記すればサラーフッディーンとなる。

マイモニデスは医師として身を立てたが、哲学者として名を残したユダヤ人である。イベリア半島のコルドバの出身だが、迫害を逃れて家族とともに地中海の対岸に脱出、最終的にエジプトに落ち着くことになった。ユダヤ思想をアリストテレスで解釈し直し、同族の指針となる著作を残している。ユダヤ風には、モーセス・ベン・マイモンという。

サラディンとマイモニデスの例をあげたが、サラディンはあくまでも武人であったのに対し、マルクス・アウレリウスとガレノスの関係は、ともに著作を残したという点が特筆に値するのである。







<ブログ内関連記事>

『超訳 自省録 よりよく生きる』(マルクス・アウレリウス、佐藤けんいち編訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2019)が、来る2019年4月27日出版されます-わが人生初のハードカバー!

書評 『治癒神イエスの誕生』(山形孝夫、ちくま学芸文庫、2010 単行本初版 1981)-イエスとその教団の活動は精神疾患の「病気直し」集団のマーケティング活動

ヘルメスの杖にからまる二匹の蛇-知恵の象徴としての蛇は西洋世界に生き続けている


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2020年1月22日水曜日

「シュクメルリ定食」を初めて食べてみた-ジョージア(=グルジア)という国がぐっと近くなる!


松屋の新メニューとして登場した「シュクメルリ定食」を初めて食べてみた。2020年1月14日から全国の松屋でメニュー化、との情報をFBでキャッチしたので。

「シュクメルリ」とはじつに発音しにくいが、ジョージア料理(=グルジア料理)だという。一言でいえば鶏肉料理の1つだ。ニンニクとチーズがたっぷり溶け込んだホワイトシチューに鶏肉とさつまいもがたっぷり。これが鍋料理として、ご飯と味噌汁、サラダのセットで 790円なり。



いやあ、じつにご飯に合うねえ。味噌汁と一緒というのも、味わいとしてまったく違和感がない「ハンバーグ定食」は松屋ではすでに定番メニュとういうこともあるだろう。まったく違和感がないのが不思議だ。今夜みたいに寒い日にはありがたいメニューだ。

ジョージアはコーカサス(=カフカース)の小国。ワイン発祥の地。だから、本来はパンと一緒に赤ワインとというところだろう。グルジア料理は、かつてモスクワで食べたことがある。もちろんグルジアワインも一緒に。だが、シュクメルリは食べた記憶はない。家庭料理なのだろうか。


本場のシュクメルリ Wikipediaより)

この料理を、エスニック料理メニューから発見して、定食メニューに仕立て上げたチャレンジ精神と手腕がスゴいと大いに感心。商品開発という点でも大いに注目だ。エスニック料理を日本流にローカライズするにあたって、料理材料としてさつまいもを選択したというのも興味深い。

牛丼屋がルーツのファストフードのチェーン店でも、牛丼の吉野家のように牛丼に「特化」するか、松屋のように多彩なメニュー展開で総合ファストフード化を目指すか、道は2つに1つだが、消費者としては個人的に松屋路線を支持したい。







<ブログ内関連記事>

ブランデーで有名なアルメニアはコーカサスのキリスト教国-「2014年ソチ冬季オリンピック」を機会に知っておこう!

『檀流クッキング』(檀一雄、中公文庫、1975 単行本初版 1970 現在は文庫が改版で 2002) もまた明確な思想のある料理本だ


 
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2020年1月14日火曜日

JBPressの連載コラム第69回は、「田舎のネズミが教えてくれる「身の丈」を知る処世術-かつて日本ではポジティブな存在だったネズミ 」(2020年1月14日)



JBPressの連載コラム第69回は、田舎のネズミが教えてくれる「身の丈」を知る処世術-かつて日本ではポジティブな存在だったネズミ(2020年1月14日)
⇒ https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58908

子年(ねどし)であるのに意外とネズミの話題が少ないような気がする。もしかすると、ネット化の進展で年賀状の受け取りが大幅に減っているからかもしれない。

そもそもネズミは、現代の日本では、一般的にあまり好まれる存在ではないようだ。ブームとなっているネコとは真逆の存在である。だが、かつてはそうではなかった。七福神の大黒様は白ネズミと米俵と一緒に描かれる。ネズミは多産と豊穣のシンボルであった。


(日本銀行兌換銀券一円券(1885年)に登場する大黒様と白ネズミと米俵  Wikipediaより)

イソップ寓話に「都会のネズミと田舎のネズミ」という寓話がある。この話のオチ、つまり教訓は「身の丈」を知るべきだ、というものだとわたしは捉えている。処世訓として重要だと思う。
   
ところが、昨年11月のことになるが、ときの文部科学大臣の発言で「身の丈」という日本語が一気に広がり大炎上してしまった。

はたして「身の丈」は、間違っているのだろうか?

つづきは、本文にて https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58908







<ブログ内関連記事>

2020年元旦あけましておめでとうございます-2020年代の始まりは子年(ねどし)でダブルスタート!

2020年子年の初詣はネズミにちなんで「子之神社」(市川市北方)に行ってきた(2020年1月5日)

「都会のネズミと田舎のネズミ」(The Town Mouse and the Country Mouse)-「身の丈」の意味について考えるイソップ寓話

「ハーメルンの笛吹き男」は「ネズミ獲り男」(Rattenfänger)だった-2020年のいま、1974年に初版が出た『ハーメルンの笛吹き男』(阿部謹也)のブーム再燃がうれしい


 
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2020年1月11日土曜日

『逝きし世の面影(日本近代素描1)』(渡辺京二、葦書房、1998)をめぐる読書体験が、「近代」がもたらした「生きづらさ」に対する治癒行為となる



今年(2020年)の正月休みに、名著としてロングセラーになっている『逝きし世の面影』をようやく読むことができた。通して読むのは、今回がまったくの初めてのことになる。

幕末に来日した外国人(文字通りの欧米人)が記録した日本と日本人の記述から、当時の日本と日本人の生き様を再現した大著である。当時の日本に対する「異国人の目を通した驚き」を項目別に収集整理し、著者の表現を使わせて頂けばる、「コラージュ」したものである。

単行本初版が出版されてから、すでに20年以上たってからのことになる。まとまった時間がとれる年末年始にふさわしい読書体験となった。

ブームとなったのは、平凡社ライブラリーに収録された2005年以降のことだ。わたしがこの本を入手したのは、それ以前のことになる。積ん読のままだった状態であったが、平凡社ライブラリーに収録されたことを知って「しまった!」と思ったのであった。しかし、それからさらに15年以上もたっている。

単行本の初版のタイトルは、『逝きし世の面影(日本近代素描1)』(渡辺京二、葦書房、1998)である。熊本在住の著者が福岡の地方出版から出版した本だが、全国流通ルートに乗っていたため、八重洲ブックセンター本店で見て購入したのだ。

「前近代」の日本と日本人が、西欧近代化された明治時代以降、すなわち「近代」以降の日本と日本人とは、いかに異なるものであったか。読み進めていくと、そのことがおのずから理解されることになる。大量に引用されている外国人の記録そのものが面白いので、思っていたよりすらすら読んでしまった。

こんな文明が存在したのだという驚き、そしてその記述を読むことで神経衰弱が多少なりとも癒やされるという、ある種の解放感読書が治療行為にもなるという希有な体験をすることになる。


■「日本褒め」とは対極にある本だ

もともと、わたしは伴蒿蹊(ばん・こうけい)の『近世畸人伝』(1790年刊)という本が好きで、ときどき引っ張り出してきては、開いたページに登場する実在の江戸時代の畸人たちの言動に、思わずニヤニヤしたり、クスリと笑ってしまうことを喜びとしてきた。

『逝きし世の面影』に収録されているエピソードで、『黒船前夜-ロシア・アイヌ・日本の三国志-』(洋泉社、2010)にも再録されているものがある。捕虜となったロシアの海軍士官ゴロヴニンの裁判をめぐるものだ。

落語のような、なんだか間延びした不思議な雰囲気の裁判であり、役人も含めて関係者みな大笑いという状況は、なんだか意外というか、幕末においてすらそんな状況だったのかという、異文化をのぞき見るような不思議な気分にさせられるエピソードだ。これは、あくまでも一例に過ぎない。



著者が、膨大なページ数の著書をつうじて言いたいのは、けっして最近流行の「日本褒め」ではない。昔の日本人はスゴかったとか、日本人であることを誇りに思って胸を張れとか、そういった類いの主張とは無縁である。

著者が言いたいのは、すでに「近代」に突入していた欧米人の目から見ると、「前近代」の日本人が幸せに見えた、ということである。それは、西洋と日本の違いというよりも、近代文明と前近代文明の違いなのであって、西欧もまた中世から近世にかけては、前近代の日本とよく似た姿を示していたのである。これは、歴史を振り返ったらすぐにでもわかることなのだ。

「近代」と「前近代」は、著者が何度も繰り返すように、まったく異なる文明であるといっていい。だから、前近代の江戸時代後期の文明は「逝きし世」なのであって、もはや戻ってくることはない。現代に生きるわれわれは、イマジネーションを駆使して、あくまでも「面影」として感じ取るしかできないのである。

いったん失われたものは(・・というよりも、日本人は自ら江戸時代を否定して近代化し、西欧化したのである!)、もはや元に戻ることはない。「近代」がいかに特殊な時代であったかは、「近代」以前の「前近代」のほうが、はるかに長いことを考えるべきなのである。

すでに消え去った「文明」であり、もはや蘇ることもない存在を哀惜し、懐かしく思うしかない。しかしながら著者もまた、「近代」を乗り越えなければ現在の日本があり得なかったことも重々承知している。とはいえ、「近代」がもたらしたものはベネフィットだけではない。この件については、のちほど再び触れることにする。


■姉妹書ともいうべき『江戸という幻景』とあわせて読むべき

『逝きし世の面影』の単行本初版に日本近代素描1」という副題がついていることについて先に触れたが、それは日本近代素描2」以降も想定にあったためのようだ。だが、現在に至るまで出版はない。

その代わりというわけでもないが、江戸という幻景』(弦書房、2004というタイトルの本が出版されている。『逝きし世の面影』の姉妹編といってよいだろう。著者の表現を借りれば「裏取り」としての、同時代の日本人の書き物から「コラージュ」したものだ。

『逝きし世の面影』が外国人の視点からみた日本と日本人であるなら、『江戸という幻景』は、同時代に生きた日本人の視点から見た日本と日本人である。『逝きし世の面影』とあわせて読むことで、前近代の日本と日本人を立体的に再現することが可能となるだろう。



地方出版社からでた前者が平凡社ライブラリーに収録されたことによってベストセラーとなり、ロングセラーになった『逝きし世の面影』と違って、別の地方出版社から出たこの本は、いまだに文庫化されていないのが残念だ。「姉妹編」と銘打って文庫化すべきだと思うのだが、どうだろうか。

この両者をあわせて読むと、通念として流通していた江戸時代観が大きく変更を迫られることを認めざるを得なくなるはずだ。けっして体系的に叙述されているわけではないが、おのずから浮かび上がってくる空気といったものを読者は感じ取ることになる。





■「近代」がもたらした「生きづらさ」

「近代」以後に生きるわれわれが痛切に感じている「息苦しさ」や「生きづらさ」といったものに、どう対応したらいいのか? 

近代文明はベネフィット(=便益)をもたらしたが、一方では大きなコスト(=犠牲)を個々人に強いている。 かつての日本や日本人が生きてきた軌跡を振り返ることが、は解決策の1つとなるといえよう。それほど、現代に生ける日本人の目から見ても、かつての日本人は、じつに幸せそうに見えるからだ。 

『逝きし世の面影』を読むということは、前近代の日本のような文明が存在したという驚きを知識として得ることだけでなく、神経衰弱が多少なりとも癒やされるという、ある種の解放感でもある。読書体験が、ある種の治癒行為にもなるのだ。 

『逝きし世の面影』がベストセラーとなってロングセラー状態が続いているのは、ある意味では当然だと思う。しかしながら、依然として誤解も消えないようだ。この本は「日本褒め」ではないかとか、その類いのものである。繰り返すが、著者の本意はそこにないし、虚心坦懐に読んでいけば、そうではにことは十分理解されるものと思う。

『逝きし世の面影』や『江戸という幻景』に表現された著者の考えを知るには、すでにこのブログでも取り上げている『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)のほか、『無名の人生』(文春新書、2014)や、津田塾大学の三砂ちづるゼミの女子学生たちとの対話を書籍化した『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫、2014)を読むといい。いずれも語りが文章化されている。

これらの本を読むと、「近代の生きづらさ」とは何かが、著書の一貫したテーマであることがわかるはずだ。「近代」をすでに通過した現在ではあるが、「近代」がもたらしたベネフィット(便益)とコスト(代償)との両面から考えることが必要なのである。




『無名の人生』の帯には、「「成功」「出世」「自己実現」などくだらない」。「生きるのがしんどい人びとにエールを送りたい」とある。これは、前近代の日本人の生き方であり、その生き方を参考にすれば、「生きづらさ」もある程度までは軽減できるだろうということだ。

もともと「出世」したいとか「えらくなりたい」とか考えたこともないわたしは、著者が言うことに大いに賛成だ。『無名の人』だけでも読んでみることを薦めたい




『逝きし世の面影』 目次 
第1章 ある文明の幻影 
第2章 陽気な人びと 
第3章 簡素とゆたかさ 
第4章 親和と礼節 
第5章 雑多と充溢 
第6章 労働と身体 
第7章 自由と身分 
第8章 裸体と性 
第9章 女の位相 
第10章 子どもの楽園 
第11章 風景とコスモス 
第12章 生類とコスモス 
第13章 信仰と祭 
第14章 心の垣根 
あとがき 
参考文献




『江戸という幻景』 目次
1. 振り返ることの意味 
2. 朗々たる奇人たち 
3. 真情と情愛 
4. 奇談のコスモロジー 
5. いつでも死ねる心 
6. 家業と一生 
7. 風雅のなかの日常 
8. 旅ゆけば 
9. 隠されたゆたかさ 
10. ぬしが殿様じゃったや 
11. 法と裁判 
登場人物略歴 
元号西暦対照表 
引用書目一覧 
あとがき




著者プロフィール 
渡辺京二(わたなべ・きょうじ) 
1930年京都生まれ。大連一中、旧制第五高等学校(熊本)文科を経て、法政大学社会学部卒業。評論家。河合文化教育研究所主任研究員。熊本市在住。主な著書に『北一輝』(毎日出版文化賞受賞、ちくま学芸文庫)、『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞受賞、平凡社ライブラリー)、『黒船前夜』(大佛次郎賞受賞、洋泉社)、『バテレンの世紀』(読売文学賞、新潮社)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。



<ブログ内関連記事>

書評 『近代の呪い』(渡辺京二、平凡社新書、2013)-「近代」をそれがもたらしたコスト(代償)とベネフィット(便益)の両面から考える

書評 『日本政治思想史〔17~19世紀〕』(渡辺浩、東京大学出版会、2010)-歴史は「断絶」ではなく「連続」していることを、斬新な切り口と縦横無尽な引用で読ませてくれる渾身の一冊

国立歴史民俗博物館は常設展示が面白い!-城下町佐倉を歩き回る ①

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2016年8月12日)-江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

JBPressの連載コラム第68回は、「250年前に日本に来ていたトゥーンベリさんは何者か 「今年の人」グレタさんと時空を超えて共通するもの 」(2019年12月31日)-大みそかでもコラム公開です!
・・オランダ商館付け医師として来日したスウェーデン人の植物学者ツュンベリのこと

書評 『苦海浄土-わが水俣病-』(石牟礼道子、講談社文庫(改稿版)、1972、初版単行本 1968)
・・『苦海浄土』の成立には、渡辺京二氏が全面的にかかわっている

『王道楽土の戦争』(吉田司、NHKブックス、2005)二部作で、「戦前・戦中」と「戦後」を連続したものと捉える
・・「コラージュ・ノンフィクション」という手法によって描かれた近現代史


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