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2016年8月13日土曜日

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2016年8月12日)-江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

(国立歴史民俗博物館にて)

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館・千葉県佐倉市)に行ってきた(2016年8月12日)。

「ミュンヘン五大陸博物館」(旧ミュンヘン国立民族学博物館)所蔵のシーボルト収集の日本関連グッズが150年ぶりに里帰りしたのである。明治になってから大量に海外に流出した浮世絵などの日本絵画の「里帰り展」は多いが、日常生活で使用する工芸品や、美術品としてはそれほどのカチが高いわけでもない品々が展示されるのは、考えてみたら珍しいことかもしれない。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダ東インド会社所属の医師として19世紀前半の江戸時代後期に来日した。来日したのは1823年、27歳の若さ(!)であった。長崎を拠点に高野長英など医学上の日本人弟子たちを養成、かれらをつうじて、じつに幅広く日本関連グッズを収集し、1828年の帰国に際してヨーロッパに持ち帰っている。

シーボルトは、その当時の日本人の生活関連や工芸品、植物や地図からなにからなにまで収集して日本学研究を行った植物学者であり博物学者でもある。日本人ならシーボルトの名を知らない人は、まずいないのではないだろうか。

(ドイツの切手に採用されたシーボルトの肖像画 wikipediaより)


■シーボルトの来日の背景と当時の欧州情勢

オランダは、1602年に設立された世界最古の株式会社「東インド会社」の拠点をバタフィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。

17世紀はオランダの黄金期であり、欧州における貿易と情報流通の中心地であったが、西欧諸国のなかで日本貿易を独占していたオランダの黄金期は意外と短かった。急速に勃興してきた英国に覇権を奪われたからだ。

フランス革命の混乱のなか、1799年には東インド会社は解散、しかもフランス革命後のナポレオン戦争時代には、混乱に乗じてオランダはフランスに占領され、海外植民地のオランダ領東インドは英国に占領されている。

(国立歴史民俗博物館の展示より「江戸時代の対外関係」地図)

ナポレオン戦争後に回復した国際秩序のウィーン体制(1814年)のもと、英国とオランダの関係は回復し、オランダは共和制から王政に転換する。戦後混乱のなか財政危機に陥ったオランダ本国は、植民地であった東インドの過酷な収奪によって財政再建を図る

1823年にシーボルトが日本に派遣されたのは、まさにこの時期のことであった。オランダ本国政府は財政再建の一環として、オランダ領東インド政庁を介した対日貿易の再建を考えており、シーボルトは日本市場の市場調査がミッションとして与えられていたのである。だからこそ、カネに糸目をつけずに日本の物産を購入することが可能で、地図などの軍事情報の収集も精力的に行ったのであった。

伊能忠敬作成の日本全図をひそかに国外持ち出しを図ったことが露見し、国外追放になった。いわゆる「シーボルト事件」である。1828年のことだ。国外追放処分となったシーボルトは、さらなる日本への渡航を希望していたが入国禁止となっており、「開国」後の日蘭通商条約締結後の1858年まで再来日はできなかった。

「シーボルト事件」にかんしては、『文政十一年のスパイ合戦-検証・謎のシーボルト事件』(秦新二、文春文庫、1996)に詳しく書かれている。同書によれば、幕府自身も地図の一件は知りながらシーボルトを泳がせていたようだ。日本国内の政争も背景にあり、なかなか複雑な構図があったようだ。

ともあれ、シーボルトは地図そのものは持ち出せなかったものの(・・ただし密かに写しを作成し持ち帰っている)、それ以外の日本関連グッズは収集品として大量に持ち帰ることができたのであり、その収集品をもとに「日本博物館」」として展覧を実現したのである。

(国立歴史民俗博物館にて)

医師・博物学者として優秀であったからこそオランダ政府から絶大な信頼を受けていたシーボルトであったが、シーボルトが、オランダ人ではなくドイツ人であったことは意外と知られていないかもしれない。シーボルトの収集品がドイツのミュンヘンで保存されているのはそのためだ。

ドイツ南部のミュンヘンは、当時のバイエルン王国の首都。シーボルトが生まれたのはヴュルツブルクだが、1814年にはバイエルン王国領となっている。そういうわけで、シーボルトはバイエルン王とは関係もあり、展示品のなかには、かの有名なルートヴィヒ2世あての書簡もある。


■江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

まあ、そういったシーボルトのバックグラウンドはさておき、19世紀前半の日本を、そっくりそのままモノをつうじて知ることができる興味深い企画展になっている。

展示品のなかには、カツオの形をした木製の刺身皿もあり(・・下図参照 『目録』より)、魚の腹の部分がフタになっており、開け閉めできるのが面白い。これなど復刻したら現在でも商品になるのではないかな。とにかく日本人は、小さなモノにかんしてはバツグンの能力を発揮していることが、あらためて確認できる。

(上は弁当箱、下はフタを閉めた状態の刺身皿 『目録』より)

常設展示の江戸時代の展示室とあわせて見学すると、江戸時代の日本がいかにすぐれていたかが実感されることになるはずだ。今回の企画展は、その意味でもおおいに意義のあるものだといえよう。


PS なお、今回の企画展の目録は、『よみがえれ! シーボルトの日本博物館』として青幻社から市販もされている。会場だけでなく、amazonなどのネット書店での購入も可能。






<関連サイト>

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」 特別サイト


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・・「当時のオランダは、世界最古の株式会社といわれる「東インド会社」の拠点をバタフィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。17世紀はオランダの黄金期であり、欧州における貿易と情報流通の中心地であったが、最盛期は意外と短く、覇権は英国に奪われる。」 

書評 『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)-オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか




(2012年7月3日発売の拙著です)






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