2024年4月30日火曜日

書評『ねじ曲げられた桜 ー 美意識と軍国主義 上・下』(大貫恵美子、岩波現代文庫、2022)ー 象徴人類学の手法で描いた桜をめぐる日本人の美意識の歴史と明治新政府の制度設計者たちの誤算

 

『ねじ曲げられた桜 ー 美意識と軍国主義  上下』(大貫恵美子、岩波現代文庫、2022)という本を読んだ。もともとは英語で出版された学術書の、著者本人による日本語版(2003年)の文庫化である。

「象徴人類学」の手法で描いた、桜をめぐる日本人の「美意識」の重層的な歴史と、明治新政府の制度設計者たちの誤算と結びついて悲劇的な結末を招くことなった桜の「美意識」。ごくごく短く要約してしまえば、そんなことになるだろうか。

著者のそもそもの出発点は、教養あるエリート青年たちを「特攻」に「志願」させ死に追いやったのは誰か? なぜかれらは死ななけければならなかったのか? そういう根源的な疑問と激しい怒りである。

米国の詩人で哲学者であったエマソンの名言 "Hitch your wagon to a star" (=君のワゴンを星につなげ)をモットーに掲げ、高みを目指した「理想主義」のもと、内外にわたるきわめて広範囲におよぶ読書と思索を行っていた「教養主義」時代のエリート青年たち

けっして無駄死にとは言いたくないが、「散華」(さんげ)と表現されたかれらの死は、あまりにも残酷であり、日本が失ったものの代償は計り知れない。たとえ、あらかじめ決められた死を運命として受け取り、苦悶しながらも、その意味を深く考え抜いた記録が日記として残されたとしても。


直訳すれば、『カミカゼ、桜花、そしてナショナリズム ー 日本史における美学の軍事化』となる。いかにも学術書らしいタイトルである。日本語版の「ねじ曲げらた枝」は、哲学者カントに由来する政治思想家アイザイア・バーリンの表現 The Crooked Timber of Humanity を援用したものだ。




「軍国主義」が徹底的に批判され、忌避されてきたのが敗戦後の日本だが、それにもかかわらず桜の花だけは、かつて「見事に散りゆく花」として特攻のシンボルとなっていたことなど想起されることもなく、毎年のように繰り返し楽しまれてきた。

それは各種の SNS への投稿をみたら一目瞭然だろう。日本人にとって花といえば桜をさしているが、咲いている期間のきわめて短い桜の開花を喜び、一分咲き、二分咲きと咲いていくプロセスを楽しみ、そして満開の桜を心の底から楽しむ。

しかしながら、散りゆく桜のことを惜しんでも、特攻隊のことが想起されることなどほとんどない。

なぜなら、「桜をめぐる日本人の美意識」は平安時代以降、千年をこえる長い歴史をつうじて重層的に形成されており、たかだか150年に過ぎない「近代日本」など、その一部分に過ぎないからだ。けっして健忘症がその理由ではないだろう。

だが、わたしたちは、明治新政府の制度設計者たちの誤算が招いた悲劇について自覚しなくてはならないのである。


■シンボルによるコミュニケーションで発生する「相互誤認」

言語には依存しない、桜の花というビジュアルなシンボルであるからこそ、満開に咲いて、そして(いさぎよく)散る桜の花は、政府にとってはシンボルとして大きな成功を収めたのである。

「発信する側」と「受け取る側」でシンボルにかんする解釈の違いがあるにもかかわらず、誤解しながらもコミュニケーションが成立していたのである。

そこにあったのは「相互誤認」である。著者がキーワードとして使用する、フランス語由来の「メコネサンス」(méconnaissance)である。よく言われるように、「コミュニケーションはディスコミュニケーション」なのだ。

怒濤のように押し寄せる西洋諸国家に対抗すべく、近代化のプロセスを加速した明治政府は、本来の日本文化にそぐわない「父性的な天皇」を、キリスト教的な「パストラル・モデル」にのっとり、朱子学によって補強して構築した。そして、大元帥としての天皇をいただく近代軍隊のシンボルに桜花を採用したのである。

愛国心の涵養とネーション(=民族、国民)は、天皇への忠誠という形をとって、モデルとした近代西洋をはるかに超える存在となった。著者が注意喚起しているように "pro patria mori" と "pro rege et patria mori" が区別されることなく一体化したのが「近代日本」であった。

"pro patria mori" は、古代ローマの詩人オウィディウスの詩句に由来するラテン語の表現だが、その意味は「国(くに)のために死ぬ」という意味だ。

 "pro rege et patria mori" は、その詩句をもじったもので「王と国のために死ぬ」という意味になる(下線に注意!)。おなじ「愛国心」といっても、忠誠の対象が「国(くに)という抽象的な共同体」であるか、国王という「生身の身体をもった人間」に対するものも含まれるのかという違いがある。そして、この違いは大きい。

儒学の徳目である「忠」と「孝」。後者の「孝」は自分の親に対するものであり、前者の「忠」は主君に対するものである。儒学においては本来、「孝」は「忠」に優先するが、江戸時代に発展した日本儒学においては「忠」が「孝」に優先し、「忠孝」という形で一体化した。

明治政府は、この「忠孝」の対象を天皇に一元化すべく、朱子学をフルに活用して制度設計したのである。しかも、大日本帝国憲法の設計段階において、ドイツ人アドバイザーたちの意見を振り切って、ある条項を挿入している。「神聖にして犯すべからず」にして、「万世一系」の天皇という条項である。

中世の政治思想研究者であるエルンスト・カントロヴィッチの名著『王の二つの身体』(King's Two Bodies)は、「生身の身体をもった王」と「制度としての王政」の相克について語ったものだが、明治政府は「大日本帝国憲法」に挿入した「神聖にして犯すべからず天皇、万世一系の天皇」条項によって、「王の二つの身体」を解決したのであった。

そして、日清と日露の対外戦争をつうじて19世紀の終わりまでには「ネーション」の形成に成功する。だが、その結果もたらされたのは、制度設計者が考えもしなかったような破滅的敗戦という悲劇的結末であったのだ。まさに社会科学の重要テーマである「意図せざる結果」がもたらされたのである。

桜の花をシンボルにした日本のナショナリズムは、すでに見てきたように国粋主義のなかから生まれてきたものではない。日本文明と西欧文明が交差するところに形成されたのである。グローバルの媒介なくして、ナショナルなものは成立しえないのだ。

そして特攻隊員として散っていった学徒たちもまた、グローバルとナショナルが交差する場所に身を置いていたのである。





■学術書を一般書として読むために

本書は基本的に学術書なので、議論の進め方や記述にややまどろっこしいものを感じる。

もともと英語読者向けに英語で書かれた本なので、日本語をつかう日本人なら、ある程度まで「常識」として知っていることまで、詳細に説明されるのは、正直いってくどいという感想は否定できない。

だから、そういう記述は飛ばし読みしてもかまわないだろう。重要な事項や指摘にかんしては、繰り返しでてくるので問題はない。学術目的の読書でなかれば、「注」もあえて参照する必要はない。

ただし、「付録 ー 特攻隊員4人の読書リスト」は、戦前の「教養主義」時代のエリート青年たちの読書について知るための貴重な資料である。ぜひその詳細に目を通して欲しい。

著者をしてこの研究に向かわしめた特攻隊員たちの手記にかんしては、全12章のうち1章を占めるに過ぎない。日本語版出版後、日本語読者からの反応は、特攻隊員として散っていたエリート青年学徒たちのことをもっと知りたいという要望であったという。


内容的には重なるものが多いが、『ねじ曲げられた桜』では取り上げられていない手記にかんする紹介と考察があるので、あわせて読むべきであろう。


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目 次 
はじめに
序章
第1部 
 第1章 桜の花と生と再生の美学
 第2章 もののあわれの美的価値―咲く桜から散る桜へ
 第3章 仮想の世界の美と桜―自己と社会の規範を超えて
 第4章 文化的ナショナリズムと桜の花の美的価値
第2部 
 第5章 天皇の二つの身体―主権、神政、軍国主義化
 第6章 桜の花の軍国主義化―桜の花が戦没兵士の生まれ変わりになる過程
 第7章 国土の象徴としての桜の花―民衆の軍国主義化

(以下は文庫版下巻)

第3部
 第8章 「運命を選ぶ自由」―特攻隊の成り立ち
 第9章 特攻隊員の手記
第4部
 第10章 国家ナショナリズムとその「自然化」の過程
 第11章 グローバルな知的潮流を源泉とする愛国心
 第12章 幹を曲げられた桜
引用文献(文庫版では上巻に収録)
付録 ー 特攻隊員4人の読書リスト(下巻に収録)
岩波現代文庫版あとがき
解説(佐藤卓己)
索引

著者プロフィール
大貫恵美子(おおぬき・えみこ )
神戸市生まれ。津田塾大学卒業。1968年、ウィスコンシン大学人類学博士号取得。ウィスコンシン大学ウィリアム F.ヴァイラス研究専任教授。アメリカ学士院正会員。日本語の主な著書に『日本人の病気感』『コメの人類学』『日本文化と猿』などがある。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに加筆)



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・・特攻隊は海軍の大西中将の発案であった。大西中将は特攻隊として有為の若者たちを死に追いやった責任をとって自決したが、その他の海軍将校たちはのうのうと戦後社会を生き抜いた

・・東京商大で高島善哉の弟子であった著者は、学徒出陣ではなく海軍に志願する


■桜の花




■人類学の実践






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2024年4月28日日曜日

藤の花は藤色だ

 

藤の花は「藤色」だ。

「桜色」の桜、
「肌色」の肌、
「玉虫色」の玉虫・・・

藤の花は「藤色」だ。



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2024年4月27日土曜日

上州への日帰り旅 その4 「久伊豆神社」を再訪(埼玉県越谷市)ー 平田篤胤と縁の深いこの神社は元荒川流域にのみ分布(2024年4月23日)

 (久伊豆神社の本殿 筆者撮影 以下同様)



時間の関係から「藤の牛島」訪問は来年以降にすることにし、今回の旅の最終目的地である「久伊豆神社」に向かう。場所は埼玉県越谷市である。

かつて越谷で勤務していたことがあって、1度だけ訪問し参拝したことがあるので、今回の再訪はほぼ10数年ぶりということになる。


(石鳥居と本殿につづく参道)



■久伊豆神社は平田篤胤との縁が深い神社

「久伊豆神社」と書いて「ひさいず・じんじゃ」とよむ。けっして「くいず・じんじゃ」ではない。

わたしも、「クイズ神社」とは珍しい名前だなと思っていたが(笑)、そうではないことがあとからわかった。越谷の総鎮守である。

東武鉄道の北越谷駅で下車し、徒歩で約10分。このコースだと西門から入ることになる。

10数年ぶりの再訪なので、なんだか記憶のなかの神社とちょっと違うような気がしたのは、この間に石碑が増えたからだろうか。


(まもなく満開を迎えるグッドタイミングの藤)


だが、藤棚は健在であった。藤の花が咲くこの時期に「天然記念物」の藤を見ることができたのは幸いだった。

(藤棚の藤の木は「天然記念物」)


しかも、この枝分かれしてタコ足のような、妖怪のような藤の木は、平田篤胤ゆかりのものだという。

そうなのだ、なぜ久伊豆神社を再訪したいと思っていたかというと、最初の参拝後にこの神社と平田篤胤の縁が深いことを知ったからだ。『古史徴開題記』(岩波文庫)の「序」に「越谷」の文字を発見して驚いたのだ。


(『古史徴開題記』の「序」はパトロンだった山崎篤利が執筆している)


カネに不自由していた篤胤は、門人で越谷の油商人・山崎篤利のパトロネージのもと越谷に滞在、久伊豆神社の境内に庵(いおり)を設けて滞在していたという。




この地で主著である『古史徴』が執筆されている。古伝説や神代文字、記紀(=古事記+日本書紀)や新撰姓氏録などを論じたものだ。


(水神社)


境内にもうけられた池には水神社があり、その池の周囲に「松声庵」という名の「平田篤胤の仮寓」があった。今回はその場所も確認することができた。


(「平田篤胤仮寓跡」は埼玉県指定の旧跡)



■久伊豆神社は元荒川流域にのみ末社が分布

久伊豆神社は、元荒川流域にのみ末社が分布する神社である。かつて物流が水運に依存していただけでなく、領域支配が河川流域をベースにしていたことを物語っているといえよう。


(久伊豆神社の分布図 『[縮刷版] 神道事典』(弘文堂)より)


けっして全国的に有名な神社ではないが、ひじょうに特徴のある神社なのである。そんなこともあって、再訪したいと思ってきたのだ。

境内には「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」も2004年に建立されている。久伊豆神社の姿勢をよく示している。「南洋神社」は、かつて南洋のパラオにあった神社である。


(「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」)


懸案事項であった久伊豆神社の再訪も終え、正門から出ることにして、長い長い参道(・・参道は産道でもあるのだな)を歩いて行くと、正門には見事なまでの「ワラ龍」が鳥居に掲げられていた。


(鳥居にはワラ龍。正門から長い、長い参道がつづく)


最近はビニール製のしめ縄を張った神社も少なくないのが現状で、嘆かわしい限りだが、ワラで編んだ龍のしめ縄を見ると、ほんとうれしくなる。これこそ神社なのだ、と。


■越谷で東武鉄道と第2環状線であるJR武蔵野線が交差する

帰途は北越谷駅に戻ることなく、そのまま南越谷駅まで40分歩くことにした。1駅乗るだけならバカバカしいと思ったからだが、電車に乗ってばかりの旅に飽きていたこともある。

JR南越谷駅は東武鉄道の新越谷駅と交差している。帰途は南越谷駅から武蔵野線で西船橋駅方面に帰る。東京をバイパスして、埼玉県から千葉県に戻ることが可能なのだ。

歩きに歩いたおかげで、この日の歩数は2万歩を超えたのであった。

(終わり)


<ブログ内関連記事>

上州への日帰り旅 その1 「縁切寺満徳寺資料館」(群馬県太田市)を訪問。江戸時代に公認されていた「縁切寺」として、北鎌倉の東慶寺とならぶ存在だった満徳寺について知る



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上州への日帰り旅 その3 「足利学校」に立ち寄る(栃木県足利市)ー 「日本最古の学校」は、東京・本郷の湯島聖堂よりはるかに古いのである!(2024年4月23日)

 (学校門の前にて筆者撮影 以下同様)


今回の旅の主要目的であった「高山彦九郎記念館と関連史跡」を訪れたあと、東武伊勢崎線の細谷駅から館林行きのローカル列車に乗る。 

電車に乗って移動中に「そういえば来るときに足利市駅というのがあったな・・」と思いだし、かの「足利学校」は足利市駅から歩いていけるのかどうかスマホで検索してみた。 

駅から徒歩15分ということなので、きゅうきょ予定を変更して足利市駅で途中下車することに。なんといっても腹が減っていたので、駅前のコンビニで総菜パンを買って食べる。時間とカネの節約のためだ。 


(足利市駅前の看板)


足利学校は、距離的にはJR両毛線からのほうが近いが、東武伊勢崎線の足利市駅からも歩いていける範囲にある。


(左端が足利市駅 中央左下が足利学校)


渡良瀬川をわたって足利学校の領域に入ると、門前町らしい風情がでてくる。鑁阿寺(ばんなじ)という古刹があるからだ。 


(鑁阿寺(ばんなじ))


12世紀が創建で、足利氏とゆかりの深い鑁阿寺(ばんなじ)参拝は足早にすませ、足利学校へ。足利学校はその隣にある。 

「足利学校は日本最古の学校で・・」というフレーズは、なんど耳にしたことか。足利市駅前の看板にもそう書いている。

行ってみたいという気持ちはあったものの、自分のなかでの優先順位はけっして高くなかった。だから、この機会を逃したら二度と訪問することはないかもな、と思ったわけだ。


■「足利学校」は「湯島聖堂」よりはるかに古い

足利学校は室町時代中期に設立され、戦国時代を生き延びて江戸時代の終わりまでつづいた由緒ある「学校」だ。


(入徳門 ここから入場する 筆者撮影)


正門には「學校」という正字体による扁額が掲げられている(上掲の写真)。この扁額は複製で、17世紀に製作されたものは「方丈」に保管展示されている。


(右から左へ「学校」と読む)


入館料480円はちと高いなという気がしなくもないが、「日本最古の学校 足利学校入学証」なるノベルティがついてくるので、まあ良しとしておこう。カネを払えば「入学」はできても、「卒業」はできないということだな(笑)

足利学校は、言うまでもなく今回がはじめての訪問であるが、なんとなく東京の湯島聖堂のような感じだなと思った。かつての昌平坂学問所(あるいは昌平黌)である。 


(奥に鎮座するのは孔子の木像)


なるほど、足利学校のある地域が「昌平町」というのもうなづける。儒学を学び、孔子を祀る聖堂のある学校。「昌平」とは、孔子の生誕地である魯の「昌平郷」からとられたものだ。

(「孔子のふるさと昌平郷」とある昌平町)


いやいや、そうではないのだ、設立年代からいったら足利学校のほうがはるかに古いので、江戸時代前期に林家の私塾から発展した昌平黌は、足利学校をモデルにしたというべきだろう。

(「杏檀」とは孔子が弟子たちを教えた場所)


戦国時代末期の16世紀、キリスト教の宣教師たちは足利学校を大いに意識していたという。儒学を学んで知的武装している日本人に宣教するのは並大抵のことではないぞ、と。

(真ん中が孔子、左端が孟子。 方丈にて筆者撮影)


さすがに儒学の「学校」だけあって、白人は見かけないが、おそらく台湾人であろう、インバウンド客が少なからず見受けられた。さすがに、これほど古い「聖堂」は台湾にはないのだろう。



■足利学校訪問のため「藤の牛島」訪問は断念

まあ、そんな感想を抱きながら足利学校の訪問を終え、歩いて足利市駅まで戻る。

なんせ館林までは1時間に2本しかないのだ。そのうち1本は特急である。特急料金など払いたくないので、実質1時間に1本の電車を待つ。まったくもってJRのローカル線とおなじ状態だな。 

というわけで、途中下車して予定外の足利学校に立ち寄ることにしたので、予定に入れていた「藤の牛島」行きは断念、足利学校の藤棚の咲き具合を見て満開ではないと判断したためでもある。 

東武伊勢崎線を館林まで乗り、さらに久喜行きに乗り換え、久喜から先は中央林間行きに乗り継ぐ。最終目的地である「久伊豆神社」再訪のため、北越谷駅に向かうのである。 

(つづく)


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