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2024年4月25日木曜日

上州への日帰り旅 その2 「高山彦九郎記念館」と関連史跡を訪ねる(群馬県太田市) ー 生誕の地で忘れられた「尊王思想の先駆者」について考える(2024年4月23日)

 (記念館では銅像のみ写真撮影可 筆者撮影)


「縁切寺満徳寺資料館」(群馬県太田市)を訪問したあとは、東武伊勢崎線に乗って世良田駅から館林方面に2駅目の細谷駅へ。ここからは徒歩で「高山彦九郎記念館」へ向かう。


(細谷駅をでると名所案内の石碑がある)


歩くこと10分で記念館に到着。記念館一帯は高山彦九郎関連の遺跡が現在なお残っている。これこそが今回の訪問の最大目的地である。


(高山彦九郎邸跡地)



■高山彦九郎って誰? 何をした人なの?
   
とはいえ、高山彦九郎って誰? 何をした人なの? というのが正直なところであろう。

よほど江戸時代後期から幕末にかけての「尊王思想」に関心がなければ、名前さえ聞いたことがないかもしれない。

ただし、例外は京都と久留米である。京都の三条大橋のたもとには、京都御所にむかって拝跪する高山彦九郎の巨大な銅像が据えられている。それほど尊王の念の篤い人だったのだ。
  

(京都の三条大橋の東岸にある高山彦九郎の銅像 筆者撮影)


そうなのだ、高山彦九郎(1747~1793)は尊王思想の先駆けともいうべき存在なのである。幕府からみたら「反体制派」だとして、幕府の密偵に追われていた彦九郎は、追い詰められて九州の久留米で自刃するという最期を遂げている。享年47歳であった。
    
高山彦九郎は、戦前はその尊王思想ゆえに称揚されたが、戦後は狂信的な天皇主義者であるとして排斥され、その名前さえ忘却されていった。人物を中心に日本思想史を描いてきた群馬県出身の松本健一氏ですら、大人になるまで存在すら知らなかったと回想しているくらいだ。
  
その点は、平田篤胤と似ているかもしれない。だが、近年復権が著しい篤胤と違って、おなじく学者であった彦九郎の復権はいまだ道半ばというべきであろう。いや、その緒についたというのも時期尚早か。
 
理由がないわけではない。発禁となった『海国兵談』の著者である林子平、そして天皇陵についてはじめて本格的に考察した蒲生君平とならんで「寛政の三奇人」と賞された高山彦九郎だが、先の二人とは違って著作がまったくないのだ。

だから、高山彦九郎って誰? 何をした人なの? という疑問がでてきても仕方がないのである。

(記念館にて入手 左の肖像画は池大雅によるもの)

 
とはいえ、日本全国をくまなく歩き回り、その当時のおもだった文化人や知識人と対話し、公家から一般庶民に至るまで交流をもった彦九郎には膨大な日記が残されている。彦九郎の親友の1人医者で蘭学者の前野良沢であり、肖像画の1つは、京都の画家の池大雅によって描かれたものだ。

双方向の交流こそ、思想を鍛える機会となったのであり、日本全国に思想を伝える手段となったのである。人びとの目を天皇に向けさせるという大きな役割を果たしたのだ。
  
蝦夷地行きを考えたものの断念しているが、東北地方の「天明の飢饉」にかんするリアルな見聞なども記録しており、18世紀後半の日本が抱えていた内憂外患的な危機状況をいちはやく理解し、あるべき政治の姿を探求していたのである。
   
日記という素材をもとに歴史小説家の吉村昭氏が『彦九郎山河』という作品を書いている。わたし自身、彦九郎にかんする知識も、その多くは吉村昭氏の労作に負っている。吉村氏は、前野良沢を主人公にした『冬の鷹』執筆を通じて、高山彦九郎にたどりついたのだそうだ。

吉村昭氏以外には、いまだに彦九郎関連の書籍じたい少ないのは残念なことだ。歴史家による本格的研究と評伝が望まれる。 
  
そんな高山彦九郎の生誕地が群馬県太田市の細谷であり、彦九郎を顕彰するための記念館が設置されていることをネット検索で知ってから、いつか訪問しようと思っていた。
 

■高山彦九郎記念館
  
記念館は2階建てだが、1階のフロアをすべてつかって高山彦九郎関連の常設展示がなされている。


(記念館のパンフレット)

  
館内は撮影禁止だが、銅像のみは撮影OK(上掲の写真)となっている。


こういう点は情報感度が低いと言わざるを得ない。写真なんかジャンジャン撮らせてSNSにアップさせればいいのに、行政のやることはピントがはずれている。これでは高山彦九郎復権はまだまだ遠いと言わねばなるまい。交流こそが彦九郎の本領であったのに・・


(史跡であることを示した石標)

 
彦九郎の墓は自刃によって最期を遂げた久留米にあるので、生誕地の細谷には遺髪を収めた遺髪塚があるのみだ。石碑の題字は徳富蘇峰によるものだ。


(彦九郎の遺髪塚 題字は徳富蘇峰)


このほか、生誕地でありながら高山彦九郎邸の跡地が残るだけで、京都や久留米よりも認知度が高いとはいえない状況がつづいている。18歳で出奔して以来、人生の大半を旅に過ごした彦九郎だから、そういうものなのかもしれない。

それにしても祖母の死に際して、『礼記』にもとづいて「三年の喪」に服したというのはすごい。直情径行でありながら、有言実行の人。その熱量の高さには驚かされる。


 (パンフレットに記された展示内容)


そんな高山彦九郎については、わたしもまだまだ知らないことも多いので、記念館で入手した『高山彦九郎の実像』などの資料を含めて、今後も引き続きフォローしていきたいと考えている。

 
ということで、記念館と関連遺跡をめぐったあとは、歩いて細谷駅に戻る。なんせ電車は朝夕を除けば1時間に1本しかないのである。すでに12時を過ぎている。先を急がなくてはならない。
 
(つづく)



<ブログ内関連記事>


*****


・・『草莽論-その精神史的自己検証』には、「預言者」としての蒲生君平と高山彦九郎が取り上げられている。「預言者」という位置づけが示唆に富む

・・京都で高山彦九郎と交流のあった池大雅は彦九郎の肖像画を描いている

・・「尊王思想」と「前期水戸学」について。「攘夷思想」は「後期水戸学」



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