2023年9月28日木曜日

「断酒千日行」達成(2023年9月28日)ー ついに満願成就!

 

2023年9月28日、ついに「断酒千日行」を達成した。酒をまったく飲まずに1000日間。3年弱である。本日で1001日目である。

比叡山の「千日回峰行」になぞらえてのネーミングだ。「断酒千日行満願成就」である。感慨もひとしおだ。


「三日・三月・三年」(みっか・みつき・さんねん というが、  「最初の3日」を達成すれば、つぎの「三月」は達成が可能になり、それがクリアできれば「三年」も不可能ではなくなるという先人の知恵だ。

3ヶ月は約100日、3年は約1,000日である。100は10の二乗、1000は10の3乗である。なるほど対数で表示可能である。

*****


痛風発症は 2020年9月29日。あすで「痛風発症から3年」になる。

起床時に「右足かかとに激痛」が走ったのであった。「親指の付け根」ではなく、「右足かかと」であったため、しばらく「痛風」とわからなかったのだ。最初は外科にいってしまった。

医療機関において、正式に「痛風」だと判明したのは10月2日のことである。わたしはこの日を正式に「痛風元年」と定めた。Google calendar に記入して、リマインダーとして毎年10月2日に自分に警告することにしている。

現在もなお「尿酸値」を下げるための治療中である。「フェブリック」の「ジェネリック」を毎日1錠服用している。それも3年近い。

それと同時のことだ。「いっそのこと、酒なんか飲むのはやめてしまえ」と思ったのだ。オール・オア・ナッシングである。40年分飲んだからな。未練は無用だ。

おかげさまで、総合健康診断の結果は良好だ。「尿酸値」はつねに7を切っている。状態良好!

数字がすべてではないが、基本的に数値が低いとうれしい。成績は高い方がいいが、放射能の値は低いほうがいい。それとおなじだ。

しかも、酒を飲んでいないので、尿酸値とは直接関係ない項目も下がっているのはうれしい。

 端的にいったら「γ-GT」の数値。なんと「25」。男性としてはきわめて低い数値で安定している。

肝臓よし! 一日抜いたくらいでは、この数値はでないだろう。この数値は高校生なみか?
 



とはいうものの、経営診断もそうだが、局所的な数値だけみていても意味はない。「部分最適のワナ」にはまってしまうからだ。あっち立てれば、こっち立たず。栄養でバランスとるのはむずかしい。 

健康は英語では health というが、全体を意味する whole の関連語だという。後者から holistic という派生語が発生した。 

局所的な部分最適ではなく、全体最適を意識したいものだ。現状は、心技体の三拍子はそろっている。

 *****

たまにビールなど飲んでしまう夢を見る。この1000日間で4~5回だろうか。記憶に残っていないだけで、もっと見ているかもしれない。

「ヤバイ、せっかく断酒記録伸ばしているのに・・」
「あ~あ、もうすこしで1000日達成なのに飲んでしまった・・・」

この夢をどう解釈するべきか、わからない。ほんとうは飲みたいのに、ということもあるだろう。

だが、かならずしもそうではなないような気がする。ムリを敷いていたという気持ちはないが、40年間という、あまりにも長く飲んでいたので、生活習慣化していたためではないかという気もする。

じつはけさ目覚める前も「宴会?」で飲んでしまう夢をみてしまった。「千日も達ししたし、いいかな」、と。そんなことでは、いかんねえ。

*****

千日の稽古を「鍛」とし、万日の稽古を「錬」とすというフレーズがある。宮本武蔵のものだという。「鍛」と「錬」をあわせて「鍛錬」。「修行」の道は長い。なにごとも継続である。

とはいえ、「断酒万日」達成には30年、いまから27年後のことになる。はたして、そこまで生きているという保証はない。そこまでやる必要があるのかどうかもわからない。

「千日行満願成就」したから、もうこれ以上つづける必要もないのかもしれない。では、「部分的に解除」していくことにするか

だが、そうはいっても、なんだか飲むのがおそろしい。

「自己暗示」によって「酒は有害という意識」がすり込まれてしまっているからだ。「飲み始めると止まらないのではないか」という恐怖もある。

もちろん、酒を飲もうが飲むまいが、痛風対策の「フェブリック」(のジェネリック)は飲み続けなくてはなるまいが・・・


 




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2023年9月27日水曜日

書評『バハイ教(シリーズ世界の宗教)』(P. R. ハーツ、奥西峻介訳、青土社、2003)ー なぜ世界和合と多様性の両立を目指すイラン生まれのこの宗教がイランで迫害されるのか?


 
バハイ教(=バハーイー教 Baha'i)については、耳にしたことはあっても、どういう宗教なのかについて知ることはほとんどない。そもそも、世界の三大宗教には含まれないので日本語のメディアで言及されることもほとんどない。


そこで、ずいぶん前に購入していながら積ん読状態になっていた『バハイ教(シリーズ世界の宗教)』(P. R.  ハーツ、奥西峻介訳、青土社、2003)を読んでみることにした。こんな機会でもないと、読まないままになっていた可能性は高い。

なぜ世界和合と多様性の両立を目指すこの宗教は、イランで迫害されるのか? この謎が完全に解明されるかどうかわからないが、まずは読んでみた。


■バハイ教とはなにか その歴史と現在

バハイ教は、19世紀初頭にカージャール朝時代のペルシアのシーラーズで生まれた「新宗教」だ。わずか1世紀あまりで世界230国以上に拡がった世界宗教である。普及の度合いはキリスト教についでおり、2020年現在で全世界に信徒が800万人いるとされる。

バハイ教には前史がある。人類平等、男女平等を説いたバーブによるバーブ教である。このバーブ教じたいが最初の最初から迫害につぐ迫害の歴史をもっている。

バーブが、イランの国教であるシーア派の伝承である「隠れイマーム」が姿を消して、ちょどその1000年後に出現したとした使徒「マフディー」である、民衆からそう信じられるようになったことが、イランの宗教界に激震をもたらすことになった。シーア派の権威に真っ向から対立する存在となったからだ。

バーブは不信心者であるとして、シーア派の聖職者たちから激しく非難され、最終的にバーブは処刑されることになる。バーブに帰依する者が爆発的に増大していたからだ。

のちバーブ教を吸収したバハイ教の開祖バハーオッラーもまた迫害を受けている。勢力拡大を恐れた政府は弾圧を加えるが、地主階層出身で政府にもコネクションがあったバハーオッラーは過酷な投獄生活を送るが、最終的に追放刑となってオスマン帝国を転々とすることになった。

当時はオスマン帝国領であったパレスチナ北部のアッカの監獄に収容され、解放後はその地で暮らし、その地に葬られることになった。現在ではイスラエル北部のアッカはバハイ教の聖地になっている。

また、バハイ教の世界本部である万国正義殿がイスラエル北部のハイファにあるのは、そういった経緯があるようだ。当時はイスラエル独立前のことである。

ハイファはアッカとならんでバハイ教の「聖地」である。現在でもハイファは、ユダヤ系とアラブ系が共存して暮らしている寛容性の高い都市である。1990年代以降はロシアから移民もコミュニティをつくっている。その意味でも、バハイ教の世界本部の立地としてふさわしいかもしれない。


原著第2版 写真はインドの首都ニューデリーの礼拝堂。「蓮の寺院」とよばれる)



教義の内容は、先にも触れたように、唯一の神のもとの人類平等、人種や民族の差別を撤廃し、男女平等を説き、世界平和の実現を願うという、いたって筋のとおった真っ当な内容だ。宗教であるが、道徳的な要素が濃厚である。自分自身が入信しようとは思わないが、すくなくとも外部から誹謗中傷するような教義ではまったくない。

バハイ教は、一桁の数字では最後にくる「9」を重視して「完全数」とし、19ヶ月で19日の太陽暦をもちいているなど、なかなか興味深いものがある。イランの太陽信仰や、ゾロアスター教の影響も受けているという。

*****


現在もなお弾圧はつづいており、アムネスティ・インタナショナルによれば、「逮捕、拷問、強制失踪、事業閉鎖、財産没収など過酷な差別や弾圧に加え、当局や国営メディアによるヘイトスピーチにさらされ、高等教育を受けることも禁じられている」のである。

シーア派を国教とするイランだが、スンニ派も含めたイスラームがが完全な市民権を認められた宗教である。その下にゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教の三宗教が「啓典の民」(=ズィンミー)として認められている。かつてのオスマン帝国とおなじである。

だが、シーア派の指導者であったホメイニ師はバハイ教を邪教と断じ、受け入れられないと発言している。イスラームから派生した新宗教であるバハイ教は、ムハンマドを最後の預言者であるとするイスラームの教義を否定しているからであろう。その点が絶対に容認されないのである。

さらにいえば、世界本部がイスラエルにある以上、イラン国内のバハイ教徒が巡礼するには困難がつきまとうだろうと容易に想像される。イランとイスラエルは敵対関係にあり、外交関係は断絶している。


原著第3版 写真はイスラエルのハイファにある「万国正義殿」


日本では、ほとんど取り上げられることのないバハイ教だが、イランについて考えるうえで、無視できない要素である。

なぜなら、宗教マイノリティでありながら、現在でもイランには信徒が30万人ほどいるのである。イスラーム以外のなかでは最大の規模なのである。ゾロアスター教徒や、1万人弱となったユダヤ教徒よりも多いのだ。

不思議なことに『イランを知るための65章(エリア・スタディーズ)』(岡田恵美子他編著、明石書店、2004)では、項目としてバハイ教が取り上げられていないのだ。イランの現体制に忖度しているのか、それとも重要視していないのか。イラン関係者ではない外部の人間には理由は不明である。

本書はその意味でも、日本語で読めるほぼ唯一の解説書として有用だ。シリーズものの1冊だから出版が可能になったのであろう。もちろん、「世界宗教」としてのバハイ教について知っておく必要があることは言うまでもない。




目 次 
序文
1 バハイ教とその信者 
2 バハイ教の基礎 
3 バハイ教の開祖バハーオッラー 
4 バハイ教の聖典 
5 バハイ教の流布 
6 バハイ教の信仰と礼拝 
7 バハイ共同体 
8 今日のバハイ教
原註
訳者あとがき
文献一覧
用語解説
索引


著者プロフィール 
ポーラ・R・ハーツ(Hartz, Paula R.)
ミドルベリーカレッジ卒業。ノンフィクション作家、青少年向け書籍(推奨年齢12歳以上)の編集者として活躍。「シリーズ世界の宗教」(青土社)では、『ゾロアスター教』 『アメリカ先住民の宗教』『神道』『道教』が翻訳されている。

日本語訳者プロフィール
奥西峻介(おくにし・しゅんすけ)
1946年生まれ。京都大学大学院卒業。現在、大阪外国語大学名誉教授。著書に『遠国の春』(岩波書店)のほか訳書多数。(各種情報から編集)。



PS 民芸運動にもかかわったバーナード・リーチは最終的にバハイ教に入信している。

「リーチは1940年、アメリカ人の画家・マーク・トビーとの交友を通じバハイ教に入信していた。1954年、イスラエルのハイファにある寺院を巡礼に訪れたリーチは、「東洋と西洋をより一つにするため東洋に戻り、バハーイ教徒として、またアーティストとして私の仕事により正直になろうと努力したいと思います」との感を強くしたという。」(Wikipediaより


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・・著者は文化人類学者で、アラブ人キリスト教徒の多い、イスラエルの港町ハイファでフィールドワークを行ってきた人。

(2023年11月13日 情報追加)


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2023年9月26日火曜日

書評『米国とイランはなぜ戦うのか? ー 繰り返される40年の対立』(菅原出、並木書房、2020)- 1979年の「イラン・イスラーム革命」からはじまる相互不信。お互いに被害者意識をもつ両国の敵対関係はいまだに解消の見通しがない


 
この本が「緊急出版」されたとき、マジで一触即発の危機が迫っていたのだ。

2020年1月13日、米国による革命防衛隊のコッズ部隊のソレイマニ司令官殺害。それに対するイラン国民の怒りはピークに達する。だが、かろうじてイランは軍事衝突を回避した。イランだけでなく、米国のトランプ大統領もそれを欲していなかったのだ。

『米国とイランはなぜ戦うのか? ー 繰り返される40年の対立』(菅原出、並木書房、2020)という本の存在を知ったのは、米国とイランの軍事衝突が回避されてから3年後の最近のことだ。

だが、2023年9月の現時点でも読む価値はある。なぜなら対立関係が解消されていなからだけではない。実際に通読してみてそう思った。

そもそも、意外なことに類書があまりないという状態であること。2019年末から始まった「新型コロナ感染症」(COVID-19)の世界的蔓延で、およそありとあらゆる国際紛争そのものが凍結状態になっていたことがある。均衡を破ったのは、ロシアによるウクライナ侵攻である。

なによりも、1979年の「イラン・イスラーム革命」に端を発した「米国とイランの敵対関係」を時系列でよく整理していることに本書の特徴がある。

そもそもをたどれば、イランのモサデク政権が産業ナショナリズムの観点から石油産業を国有化し、それに反発する米英の石油資本をバックにした米英政府が、情報機関のCIAを中心にモサデク政権を転覆した1953年にさかのぼる。

クーデタ成功後、米国は親米のパーレヴィ国王を全面的にバックアップする体制を四半世紀にわたって継続してきたのである。

その親米政権が革命によって転覆され、学生たちによってテヘランの米国大使館が444日間にわたって占拠されるという、前代未聞の事態とつながっていく。

長年にわたるパーレヴィ国王のよる政府は反対派を弾圧、貧富の差が拡大して民衆の不満が増大と、イラン人の被害者意識が高まっていっただけでなく、米国サイドも大使館占拠と救出作戦が失敗とい屈辱による被害者意識が増大し、お互いに被害者意識をもつ両国の関係は相互不信と憎悪以外のなにものでもなくなっていった。

米国とイランは1980年に外交関係を断交して以来、40年以上にわたって敵対関係がつづいているのである。米国による経済制裁によってイラン経済は疲弊しながらも、イラン国民は耐えがたきを耐え、現在にいたる。

米国とイランの対立関係は、いまだに解決の見通しもない。イスラエルとイランの対立関係がそれにからんでおり、状況はきわめて複雑なのだ。

1979年移行のイランと米国の関係について、時系列で記述された本書は、あたまの整理になるだけでなく、随所に挿入された明解な地図とともに、参考資料としての有用性を失っていない。

 
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目 次
プロローグ
米国とイラン対立の経緯
第1章 米・イラン相互不信の歴史 
第2章 オバマ「核合意」の失敗 
第3章 トランプ政権の対イラン戦略 
第4章 限界近づくイランの「戦略的忍耐」 
第5章 イランを締め上げるトランプ 
第6章 イランの「最大限の抵抗」戦略 
第7章 軍事衝突に向かう米国とイラン 
エピローグ
主要参考文献

著者プロフィール
菅原出(すがわら・いずる)
国際政治アナリスト・危機管理コンサルタント。1969年生まれ、東京都出身。中央大学法学部政治学科卒業後、オランダ・アムステルダム大学に留学、国際関係学修士課程卒。東京財団リサーチフェロー、英危機管理会社役員などを経て現職。合同会社グローバルリスク・アドバイザリー代表、NPO法人「海外安全・危機管理の会(OSCMA)代表理事」も務める。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


<ブログ内関連記事>






■菅原出氏の著書



・・『秘密戦争の司令官オバマ』(菅原出、並木書房、2013)を紹介

(2023年12月3日 情報追加)


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2023年9月25日月曜日

書評『そして人生は続く あるペルシャ系ユダヤ人の半生(ブックレット《アジアを学ぼう》別巻⑬』(辻圭秀、風響社、2017)ー 1979年の「イラン革命後」の「イラン・イラク戦争」を機にイスラエルに移住した女性もまた「同時代人」である

 

1979年の「イラン・イスラーム革命」以降、イランと米国は断交し、イランとイスラエルの関係はきわめて悪い

そんな状態がつづくなか、ユダヤ人の状況はどうなっているのか。そいえば、この本があったなと思い出して読んでみることにした。

******

イスラエルを中心に中東研究を行っている研究者が、6年におよぶイスラエル滞在中に出会って親しくなった「あるペルシャ系ユダヤ人」への聞き取りの記録である。

「ユダヤ系イラン人」として生まれ育ち、革命後の「イラン・イラク戦争」のなかユダヤ人の夫が徴兵される危険を感じたため、夫婦で子どもと一緒に命からがら脱出した女性。 

「乳と蜜の流れる約束の土地」であったはずのイスラエル。移住してからわかったのは、中東欧を中心にしたヨーロッパ出身のアシュケナージ系ユダヤ人が支配的なイスラエルでは、中東出身のミズラーヒは二級市民扱いされることに、いやがおうでも気がつくことになる。

ヘブライ語起源で、イディッシュ経由でアメリカ英語にもなった「フツパ」(chutzpah)ということばがある。

「ど根性」といえばポジティブな響きがあるが、「ど厚かましい」という意味においてはネガティブにも響く。世界中どこにいってもイスラエル人のバックパッカーがいるが、たしかにずうずうしいという印象が強く、ネガティブに感じている。

その「フツパ」に象徴されるイスラエル文化への「同化」に困難を感じ、この女性においても「ペルシア系」としてのアイデンティティが浮上してきたという。中東の伝統文化との違いがあまりにも大きいからだ。

*****

さまざまなテーマに質問がてんこもりだが、面白いと思ったものをいくつかピックアップしておこう。

おなじユダヤ系といっても、生まれ育った古都イスファハンと首都テヘランとの違い。8世紀からつづくユダヤ人コミュニティで生まれ育ったこの女性は、ユダヤ人としてのアイデンティティとともに、中東の伝統文化にどっぷり漬かって育っている。まるで明治時代の日本人のようだ。

イランといえば「詩の国」であるが。この女性もまた、ハーフェズ、サアディー、ルーミー、フェルドゥースィーといった全盛期のペルシア詩人たちの詩を暗唱してきた。イスラエルに移住してから、本格的にペルシア音楽を学び始めたという。

面白いことに、ペルシア音楽の担い手はユダヤ人とアルメニア人だという。イスラームが音楽を「ハラーム」(禁止)としていることもあって(・・アフガンをふたたび制圧したタリバーンを見よ)、音楽家の地位はきわめて低い。現在のイランでもユダヤ系音楽家は尊敬されているという。

「イラン革命」前後については、最初はまず共産主義運動から始まり、最終的にイスラーム主導の革命に変化したという。

ホメイニ師は「啓典の民」(ズィンミー)であるとしてユダヤ教徒、キリスト教徒の身の安全を保証した(・・これはオスマン帝国とおなじだ)。だが、バハーイー教徒に対しては過酷な弾圧が行われていたらしい。


「イスラエルはエジプトと政府レベルでは関係良好、民衆レベルでは関係最悪。イランは政府レベルでは関係最悪、民衆レベルでは関係良好」という発言を親しい友人から聞いたと著者が書いている。なるほどと納得。国家間関係と民衆意識は別物である。

*****

それにしても驚くのは、1963年生まれのこのユダヤ人女性は、少女時代に「イスラエルという国の存在」を知らなかっただけでなく、イスラエルに移住するまで「ホロコーストのことを知らなかった」のだという。それを聞いたイスラエル人もまた驚いたのだとか。

われわれにとって「常識」となっていることも、かならずしも「常識」ではないということだ。世界は広くて多様性に富んでいる。この「ペルシャ系ユダヤ人」もまた、その一例に過ぎないのである。




目 次 
はじめに
1 本書の理解のために
 1 中東系ユダヤ人小史
 2 イラン・ユダヤ・イスラエル
2 革命前のイランに生まれて
 1 エスファハーンとユダヤ人
 2 家族・学校・言語
 3 ムスリムの学校に編入
 4 差別・反ユダヤ主義
 5 音楽
3 革命、戦争、そして脱出
 1 革命
 2 戦争と結婚
 3 脱出を決意する
 4 闇に潜んで山を越える
4 乳と蜜の流れる約束の地にて
 1 移民収容センターにて
 2 ヘブライ語のクラスにて
 3 イスラエル社会に飛び込む
 4 ユダヤ系イラン人から、ペルシャ系ユダヤ人に
おわりに
注・参考文献
あとがき

著者プロフィール
辻圭秋(つじ・よしあき)
1983年、大阪府八尾市生まれ。同志社大学神学研究科博士課程単位取得満期退学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)
 



<関連サイト>




<ブログ内関連記事>

・・『見えざるユダヤ人-イスラエルの<東洋>-』(平凡社選書、1998)は、中東イスラーム世界出身のユダヤ人であるミズラヒームの存在について、日本語でよめる書籍としてはじめて焦点をあてた先駆的かつ貴重な本である。



・・類書にはめずらしくイスラーム統治下の中世ユダヤ人社会について取り上げている

・・オスマン帝国はイベリア半島から追放されたセファルディム系ユダヤ人を大量に受け入れた


・・ソ連崩壊後にロシアからイスラエルへ移住した中高年夫婦

・・エジプトでイスラエルがどう見られているか、カイロ大学に1993年から1995年まで実際に在籍していたジャーナリストが体験談をもとに具体的に書かれている




(2023年11月7日 情報追加)


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2023年9月24日日曜日

『ハルビンの詩がきこえる』(加藤淑子、加藤登紀子編、藤原書店、2006)と 『ハルビン新宿物語 ー 加藤登紀子の母 激動の半生記』(石村博子、講談社、1995)をつづけて読む。女性の視点による「20世紀前半のハルビン社会史」がそこにある




ロシアについて考えているうちに、ふたたび内村剛介氏の著作をひもとくことになるスターリン時代に11年間の監獄生活を送ることを余儀なくされた内村氏の原点は「ハルビン学院」にあり、その文章を読んでいると、必然的にハルビンそのものへと思考が向かう。

ハルビン(Harbin)という響きがいい。ハルビンは漢字で「哈爾浜」と書く。満洲にあった都市である。伊藤博文が暗殺されたのはハルビン駅である。

ハルビンは、もともと帝政時代のロシアが建設した都市だ。

「東方を制服せよ」という意味のウラジオストック(=ヴラジ・ヴォストーク)がロシアの東方進出を象徴する都市であるとすれば、ハルビンはもともと現地人の満州語の地名である。鉄道建設のために新規に開発されたロシアの都市であった。

植民地となった満洲。その満洲にあるハルビンは、おなじくロシアが開発した大連以上に日本人にとってはヨーロッパを感じさせる都市であった。

共産主義を意味する「赤系」のソ連から逃れてきた「白系」のロシア人が多く居住していたハルビン。ユダヤ人もふくめ、かれらの多くは「無国籍者」となっていた。

ハルビンといえば歌手の加藤登紀子である。加藤登紀子氏は、ハルビンに生まれて日本に引き揚げてきた人だ。そしてその母を描いた本である『ハルビン新宿物語 ー 加藤登紀子の母 激動の半生記』(石村博子、講談社、1995)は買ったまま、ずっと本棚にありつづけた。

その後、『ハルビンの詩がきこえる』(加藤淑子、加藤登紀子編、藤原書店、2006)の存在を知って、これも入手することにした。

そうだな、この機会にこの2冊を読んでしまおう。そう思った。いつまでも読んだつもりにしておいてはいけない。読まないままにしておいてはいけない。

まずは、『ハルビンの詩がきこえる』から先に読むことにした。内容は、加藤登紀子の母の手記である。91歳になった著書にとって、すみずみまで記憶のなかで生きているハルビン。まさに著者にとってハルビンは青春そのものだった。

本のカバーの内側に著者のことばがある。昭和10年は1935年、昭和21年は1946年である。


昭和10年から21年までのたった11年のハルビン。
でもそれはまさに二十代の私の青春そのものだった。
同じこの場所にその面影が消えてしまった今も、
私の心の中にはすべてがあざやかに刻まれている。
          ーーーーー 加藤淑子


京都の呉服屋に生まれ育った女性が、因習に縛られた狭い京都から自由をもとめて大陸へ。
ハルビン学院卒の男性と結婚にしてハルビンへの渡航、白系ロシア人の住居の一部に賃貸で入居を繰り返したことで、さまざまなロシア人の暮らしぶりを目の当たりにすることになる。

ここにあるのは、日常の「生活」(ジーズニ)、この記述がまさに貴重なのである。男性による「満洲もの」には描かれない世界。その他圧倒的多数の日本人とは違って、加藤夫妻はハルビンには日本的生活を持ち込まなかった。避暑を兼ねたダーチャの生活も含めて。だからこそ、加藤淑子氏の手記は「20世紀前半のハルビン社会史」としても貴重な内容なのである。




目 次
プロローグ
第1章 太陽は地平線を昇る 
 大地の夜明け/マリア・ニコラーエヴナの家/炊事場のロシア語レッスン/ハルビンでのお買い物/見知らぬ街での生活がはじまる/男の友情/お茶を飲む女たち/いつも音楽があった
(コラム) ウォトカの飲み方/サモワール 
第2章 チェリョームハの木陰で 
 サハロフの家/ロシア人のお祭り/ロシア語を習う/スンガリーで遊ぶ/ストラグスの家/ユシコフはマネキン屋/大和アパートへ/太陽島でのひと夏/父のハルビン訪問/スンガリーのダーチャで/トホール家の動物たち 
(コラム) ペチカ 
第3章 戦火しのびよる街 
 再び京都へ/祖母ハナとの暮らし/祖母ハナの死/トホール家の結婚パーティー/イワノフの家へ/ピアノのレッスン/義弟の結婚、そして召集/新町の家で/夫は露語教育隊/ハルビンへの帰郷/家をつくる若いロシア人夫婦/登紀子の出産/奉天は臨戦態勢/昭和19年年末の空襲/夫はいよいよ戦地へ/ソ連参戦 
(コラム) ハルビン学院/ハルビンという街 
第4章 今日を生きる野草の如く
 終戦の日/トラックに乗って収容所へ/略奪がはじまる/北方からの避難民/将校オサッチ /人形づくり/秋林(チューリン)のお針子になる/星輝寮をでる/ミシンで開業/中国式の食べ物/ソ連軍の撤退/ハルビンに残る?/引き揚げを決心/出発の日 ―― 9日6日/フローシャの最後のごはん/地平線の向こうに 
エピローグ(加藤登紀子) 
あとがき(加藤淑子) 
加藤淑子年譜(加藤淑子・加藤登紀子) 
図版出典一覧


その「生活」を乱したのは外部の状況であった。悪化する戦況は「内地」では大きな被害をもたらしていたが、大陸とのタイムラグが存在したのである。出産のたびにハルビンと京都を往復していた著者だが、昭和20年(1945年)の6月になってからハルビンに戻るのである。

だが、状況は突然やぶられることになる。米国ではなくソ連が侵攻してきたからだ。8月9日のことである。

ソ連軍によって占領されたハルビン、出征したまま帰ってこない夫。そんな状況のなかでも洋裁の技能を活かし、ユダヤ人の顧客たちから信頼されて生き抜いてゆく著者。ユダヤ人とロシア人の違いにかんする観察もさすがである。

戦後のハルビンでの生活も安定してきたが、最終的に日本への帰国を決意し、女手ひとつで3人の子をつれて脱出する命からがらの逃避行へ。手記はそこで終わっている。




『ハルビンの詩(うた)がきこえる』の帯には、作家のなかにし礼氏の推薦文が記されている。

「女たちの満州」
満州の歴史とは、実は女たちの物語なのである。
満州建国を夢見たのは男たちであったが、その夢破れたのちのあとかたづけはすべて女たちがやった。その一つの証言をここに見る思いがする。
加藤登紀子も私も、阿修羅のごとく戦った母によって守られ、日本に流れついた命なのだということをあらためて痛感する。


満洲からの引き上げを描いた『赤い月』の作者だけに、まさにそのとおりだと思う。これに付け加えることはなにもない。『流れる星は生きている』だけではないのである。


■『ハルビン新宿物語』は加藤淑子氏の「戦後」まで描く

『ハルビン新宿物語』は、1995年の出版から28年目にはじめて通読した。しかも、購入から22年もたっている、とは! 

2001年1月7日に amazon で購入していたことが「履歴」からわかった。さすが電子取引である。いまではまず目にすることもない「amazon.co.jp のしおり」がはさまっていたことに気がついた。新刊書として購入していたのだ。

amazon が日本に進出したのは、2000年11月のことである。そんな初期から利用していたわけである。まだ amazon は書籍中心の取り扱いであり、初期段階で利用者が多くなかったのでプロモーションの一環として「紙のしおり」がつけられたのであろう。




先に『ハルビンの詩がきこえる』を読み、ついで『ハルビン新宿物語』を読んだのは正解だった。

前者は加藤淑子氏の「青春時代」であり、後者はそれも含めた「戦後」まで描いているからだ。

女性の自立の物語でもある。洋裁の技能を活かして生計をたて、その後は夫が開いたロシア料理店スンガリーの切り盛りに追われることになる。スンガリーはハルビンを流れる川の名前である。スンガリーは松花江である。

先になかにし礼氏の文章を引いたが、加藤淑子氏の戦後もまた「夢破れた男のあとかたづけを」やることになったわけである。

「戦後日本」は「満洲時代」の遺産抜きにはありえないことは、戦後復興や新幹線の存在を知れば明らかである。そんな「男たちの世界」だけでなく、当然のことながら「女たちの世界」でもそうだったのである。

加藤登紀子氏の兄の加藤幹雄氏は一橋大学経済学部の出身で、わたしからみたら大先輩にあたる人だ。

1960年の安保闘争における挫折とその後の国際ビジネスマンとしての人生は、一橋大学卒業生の会である如水会の『如水会報』への本人の寄稿で知った。

その他の関連記事がないか検索していて、父親が京都で開いたロシア料理店キエフの経営を数年前に継いだことを知った。「住金副社長からロシア料理店経営へ 生涯現役モデルに」という記事がある。

加藤淑子氏は夫の遺骨をスンガリーに流すため、加藤幹雄氏ら子どもたちとともに1993年にハルビンを再訪している。『ハルビン新宿物語』の著者である石村博子氏も同行し、その記述が本書の最終章に書かれている。

そのことはまったく知らずに、わたしは1999年にハルビンを含めた満洲に旅している。大陸から引き揚げ者の家庭ではないが、満洲というものは学校の先生をつうじて子ども時代から聞き知っていた。そんなこともあり、どうしても自分の目で見て、自分で歩いて体感したかったのだ。

わたしが訪れたとき、ハルビンにはまだわずかながらロシアの痕跡をとどめていた。ハルビンのロシア料理店で食べたロールキャベツは美味かった。

そんな1999年のハルビン旅行のあと、2001年1月に『ハルビン新宿物語』を購入していたのであった。




目 次 
はじめに 加藤登紀子
Ⅰ章 敗戦―ハルビンで
Ⅱ章 自由への旅立ち 
Ⅲ章 焦土から、ふたたび
Ⅳ章 出会いと別れ―新宿 
終章 スンガリーの流れのように
おわりに 加藤淑子
あとがき 石村博子
関連略年表

著者プロフィール
石村博子(いしむら・ひろこ)
1951年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。法政大学卒業。加藤淑子が切り盛りしたロシア料理店スンガリーで働いていたロシア人女性クセニアの息子ビクトル古賀を主人公にした『たった独りの引き揚げ隊 ― 10歳の少年、満州1000キロを征く』(角川書店、2009)など著書多数。


<ブログ内関連記事>

・・「この本でとくに興味深いのが、「物書く商社マン」であったロシア文学者で評論家の内村剛介氏(故人)の回想。(・・・中略・・・)シベリアで抑留され、ソ連の収容所に11年間も抑留されていた内村剛介の諸著作は、ロシアについて考えるためには必読書であり、ほんとうの知識人とはどういう存在かを身をもって教えてくれる存在だ。内村剛介氏は、日本に帰国後は総合商社の日商(のち合併して日商岩井)で、ロシア語を駆使して辣腕の商社マンとしてソ連貿易に携わっていた。大学教授に転身する前は、「物書く商社マン」として知られていたらしい。そんな話が読めたのもうれしい。」




・・『危機の宰相』 のもう一つのテーマは、満洲国の存在と戦後日本におけるその意味である


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