2010年9月30日木曜日

書評『梅棹忠夫 語る』(小山修三 聞き手、日経プレミアシリーズ、2010)ー 本質論をズバリ語った「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」


こんなおもろい本はないで! 関西弁で語りつくしたホンネの放談集は、本質論をズバリ語った「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」


今年(2010年)7月、残念なことに、知的世界の巨星がまた一つ墜ちた。老衰のために90歳で亡くなった梅棹忠夫である。

『梅棹忠夫 語る』(小山修三 聞き手、日経プレミアシリーズ、2010)は、戦後日本の「思想」をリードした知的巨人の、死の直前まで語り通した回顧録である。

関西弁で語りつくしたホンネの放談は、しかしながら本質論をズバリ語って尽きることがない。

時代の証言者として、昔の話をする際のライブ感が実にすばらしい。目の前でその光景が見えるようだ。

学者としての業績として残された梅棹忠夫の著作集は実に23巻にも及ぶものだが、その人生はまた、挫折とその克服によって全うされたものであることも語られる。

山歩きにのめり込んで授業に出なかったために放校された三高時代から始まって、日本隊が初登頂を実現したマナスル登頂計画の前にして肺結核で二年間療養、学者としては致命的な両目の失明、と挫折につぐ挫折も経験している。

しかし、「困難は克服するためにある」という精神力がそれらを乗り越えさせてきた。このように、人生論としても実に骨太で、まさに知恵のかたまりの一冊にもなっている。

梅棹忠夫というと『知的生産の技術』という連想しか思い浮かばない人も、『文明の生態史観』『情報の文明学』など主要著作を読んできた人も、梅棹忠夫については何も知らない人も、この本はぜひ読むべきだと強く薦めたい。番外編であるこの本は、すぐれた「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」になっている。

こういう本が、日本経済新聞社から出たということの意味は実に大きい。もちろん、対象とされたビジネスパーソンだけでなく、広く一般に読まれて欲しい本である。ホンネをいうと、ぜひ本という形ではなく、ライブで見たかった対談だ。

こんなおもろい本はないで!、といっておこう。

読めば絶対に元気になることを保証します。


<初出情報>

■bk1書評「こんなおもろい本はないで! 関西弁で語りつくしたホンネの放談集は、本質論をズバリ語った「梅棹忠夫による梅棹忠夫入門」になっている」投稿掲載(2010年9月19日)
■amazon書評「関西弁で語りつくしたホンネの放談集は、本質論をズバリ語ってめちゃオモロイで!」投稿掲載(2010年9月19日)

*再録にあたって、字句の一部を修正した。


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目 次

第1章 君、それ自分で確かめたか?
第2章 文章は誰が読んでもわかるように書く ― 記録と記憶の技術(1)
第3章 メモ/スケッチと写真を使い分ける ― 記録と記憶の技術(2)
第4章 情報は分類せずに配列せよ ― 記録と記憶の技術(3)
第5章 空想こそ学問の原点
第6章 学問とは最高の道楽である
第7章 知識人のマナー
第8章 できない人間ほど権威をかざす
第9章 生きることは挫折の連続である
エピローグ つねに未知なるものにあこがれてきた


著者プロフィール

梅棹忠夫(うめさお・ただお)

1920年京都市生まれ。京都大学理学部卒。理学博士。京都大学人文科学研究所教授を経て、1974年に創設された国立民族学博物館の初代館長に就任。1993年に退官し、同館顧問、名誉教授。文化勲章受章。民族学・比較文明学。2010年7月死去。

聞き手:小山修三(こやま・しゅうぞう)

1939年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。Ph.D.(カリフォルニア大学デイヴィス校)。1976年、国立民族学博物館助教授。同教授を経て、2002年より名誉教授。2004年より吹田市立博物館館長。文化人類学。縄文研究の第一人者(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものに引用者=私が加筆)



<書評への付記>

梅棹忠夫の自伝は、日本経済新聞社の「私の履歴書」に掲載された原稿をもとにした、『行為と妄想 わたしの履歴書』(日本経済新聞社、1997)がある。

連載中は楽しみにしていたものだが、新聞掲載中に見ることのできた写真が単行本化の際には省略されてしまったのが残念。現在は、文庫化されている。『行為と妄想 わたしの履歴書』(中公文庫、2002)

梅棹忠夫の発想の原点がどこにあるのか、なぜ京都からはこのように次から次へと独創的な学者がでてくるのかについてのヒントを得ることができるだろう。

また、オモテの自伝に対して、ウラの自伝があって面白い。

『裏がえしの自伝』(講談社、1992)というタイトルの本である。目次は、「わたしは大工」、「わたしは極地探検家」、「わたしは芸術家」、「わたしは映画製作者」、「わたしはスポーツマン」、「わたしはプレイボーイ」となっているが、いずれも「わたしは・・・になれなかった」という意味を含みとしてもっているもの。

人生には無数の分かれ道があって、可能性自体はいくらでもあるのだが、選択の結果その多くを断念し、捨てなければならない。果たせなかった多くの夢について語る著者の姿勢からは、後悔というよりも、これが人生というものなのだ、という骨太の姿勢がうかがわれる。
 この本は読むと実に面白いのだが、残念ながら絶版なので図書館で探して読むか、著作集でよむしかないだろう。文庫化したらいいと思うのに。


(追記)『裏がえしの自伝』は、2011年4月に中公文庫から復刊された。実によろこばしいことである。一読をぜひすすめたい。(2011年5月1日)


(追記2) 書評 『裏がえしの自伝』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 単行本初版 1992)という記事をブログに書いているので、ご参照していただけると幸いである。(2012年7月22日)


『梅棹忠夫 語る』では、『裏がえしの自伝』に書かれているような話も含めて、オモテもウラもあわせてこそ人生という姿勢で一貫している。だからこそ読んで面白いし、実に痛快(!)な内容の一冊となっているわけだ。

聞き手の小山修三は、「はじめに」のなかで、本書を勝海舟の『氷川清話』になぞらえているが、まさにその内容と語り口はよく似ている。勝海舟のベランメエ調の語りに対し、梅棹忠夫の語りは関西弁ではあるが。

違いはそれにとどまらず、勝海舟が生粋の江戸っ子で貧乏旗本の息子であったのに対し、梅棹忠夫は生粋の京都人で町人の出身であるということもある。しかし、功成り遂げた人間が、オモテもウラもあわせて語り尽くすという姿勢は共通している。

織物の手工業の町・西陣に生まれ育った梅棹忠夫の実家は、祖父の代までは大工の棟梁であったという。

そういう気質が、梅棹忠夫の合理主義でプラクティカルな発想とシンプルなスタイル(=文体)を生んだ背景にあるのかもしれない。


<ブログ内関連記事>

梅棹忠夫関連

梅棹忠夫の『文明の生態史観』は日本人必読の現代の古典である!

企画展「ウメサオタダオ展-未来を探検する知の道具-」(東京会場)にいってきた-日本科学未来館で 「地球時代の知の巨人」を身近に感じてみよう!

書評 『梅棹忠夫-知的先覚者の軌跡-』(特別展「ウメサオタダオ展」実行委員会=編集、小長谷有紀=責任編集、千里文化財団、2011)

書評 『梅棹忠夫のことば wisdom for the future』(小長谷有紀=編、河出書房新社、2011)

書評 『梅棹忠夫-地球時代の知の巨人-(KAWADE夢ムック 文藝別冊)』(河出書房新社、2011)

書評 『ひらめきをのがさない! 梅棹忠夫、世界の歩き方』(小長谷有紀・佐藤吉文=編集、勉誠出版、2011)

書評 『梅棹忠夫-知的先覚者の軌跡-』(特別展「ウメサオタダオ展」実行委員会=編集、小長谷有紀=責任編集、千里文化財団、2011)

梅棹忠夫の幻の名著 『世界の歴史 25 人類の未来』 (河出書房、未刊) の目次をみながら考える

書評 『まだ夜は明けぬか』(梅棹忠夫、講談社文庫、1994)-「困難は克服するためにある」と説いた科学者の体験と観察の記録

書評 『裏がえしの自伝』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 単行本初版 1992)

『東南アジア紀行 上下』(梅棹忠夫、中公文庫、1979 単行本初版 1964) は、"移動図書館" 実行の成果!-梅棹式 "アタマの引き出し" の作り方の実践でもある

書評 『回想のモンゴル』(梅棹忠夫、中公文庫、2011 初版 1991)-ウメサオタダオの原点はモンゴルにあった!

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (1) -くもん選書からでた「日本語論三部作」(1987~88)は、『知的生産の技術』(1969)で黙殺されている第7章とあわせ読むべきだ

梅棹忠夫の「日本語論」をよむ (2) - 『日本語の将来-ローマ字表記で国際化を-』(NHKブックス、2004)


知的生産の技術

書評 『知の現場』(久恒啓一=監修、知的生産の技術研究会編、東洋経済新報社、2009)

書評 『達人に学ぶ「知的生産の技術」』(知的生産の技術研究会編著、NTT出版、2010)

書評 『知的生産な生き方-京大・鎌田流 ロールモデルを求めて-』(鎌田浩毅、東洋経済新報社、2009)

*2012年7月22日に増補した


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2010年9月29日水曜日

書評『ギリシャ危機の真実-ルポ「破綻」国家を行く-』(藤原章生、毎日新聞社、2010)-新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート




新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート

 特派員としてローマに駐在する毎日新聞社の記者が、足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポートである。日々のマスコミ報道では知りようのない「ギリシアのいま」を伝えてくれるものだ。
 
 「ユーロ危機」の引き金となった「ギリシア財政危機」。一時期に比べたら、「日本はギリシアになっていいのか!」というトンチンカンな叫びは沈静化したが、そもそも日本とギリシアはいっけん似たような地政学的ポジションにはあるものの、全く異なる歴史と文化をもつ国と国民であることが本書では確認される。

 一言でいってしまえば、現代ギリシアは、アングラ経済の発達した、いまだ近代化されていない「前近代社会」なのである。政治家が世襲される点は似ていなくもないが、すでに近代を通過し、「後近代」に入っている日本とは根本的に違う国なのだ。なんせ、統計データがまったくあてにならないのがギリシアである。

 経済的にみれば、民間需要に乏しく、公的支出に依存する比率のきわめて高い経済。公務員が増殖しても、一人あたりの給与は欧州の水準よりは低いため、副職を掛け持ちして生計を成り立たせている多くの人々。

 海運業と観光業と農業以外に、これといった産業のない輸入超過の貿易赤字国ギリシア。海外からの援助と借金、海外移民からの送金で対外収支の帳尻を合わせてきた島国ギリシアは、アジアでいえばフィリピンのようなものか。

 「欧州文明の原像」という他者イメージをうまく利用し、欧州のフリをして多額の援助を引き出してきたギリシアであるが、今回の危機でこの虚像は崩壊してしまった。しかし、アングラ経済の発達でもわかるとおり、かなりしたたかに生き抜いてきた国であり、国民であるようだ。

 過去に特派員として駐在した経験をもつアフリカやラテンアメリカを踏まえた記述は、ギリシアをあくまでも 「南の発展途上国」 と位置づける視角を提供しており、「北の先進国」からすべてを断罪するワナを回避させている。

 ギリシア駐在ではなく、またギリシア語ではなく英語で取材する新聞記者のレポートであるが、「ギリシアからみたギリシア危機」という姿勢を貫いており、興味深く読むことができた。性急にわかりやすい結論を出そうとはしない姿勢に共感を感じた。

 ギリシアの行く末はギリシア国民自身の問題だ。日本の行く末は日本国民自身の問題だ。安易な比較論にはあまり意味がないことを、本書によって確認すべきだろう。一読の価値はある。





<初出情報>

■bk1書評「新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート」投稿掲載(2010年9月16日)
■amazon書評「新聞記者が足で稼いで書いた 「ギリシアからみたギリシア危機」レポート」投稿掲載(2010年9月16日)


目 次

序章 ギリシャ危機の実像
第1章 アテネ暴動はガキ大将の喧嘩か
第2章 「デモは文化」とみなが言う
第3章 シュールなドラマ
第4章 「事業仕分け」を我が国に
第5章 世襲がもたらした「全ギリシャ借金運動」
第6章 はしっこ国のツール、共産党
第7章 ヨーロッパ人じゃない?
付記 ギリシャ政府はどう改め、何を国民に強いるのか


著者プロフィール

藤原章生(ふじわら・あきお)

1961年生まれ。北海道大学工学部卒業後、鉱山技師を経て毎日新聞記者。アフリカ、ラテンアメリカ特派員の後、2008年よりローマ特派員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<書評への付記>

 この国の首相が、つい先日再選される前、「ギリシアが、ギリシアが・・」とバカの一つ覚えのように絶叫していたのを皆さんは覚えているだろうか?

 流行り廃りの激しいこの国のことだから、もう覚えている人も少ないかもしれないが・・・。
 しかしそのギリシアの実態はどうなのかというと、デモの光景は大量に映像として流れたものの、実際のところはよくわからない。

 本書は、その意味では、ギリシアのいまを知るための格好の一冊になっている。

 書評のなかで、「現代ギリシアは、アジアでいえばフィリピンみたいなものだ」と書いたが、これは別にギリシアもフィリピンもおとしめるつもりは一切ない。

 フィリピンは、米国企業や日本企業の外資によって支えられていた第二次産業の産業基盤が崩れて、近年はコールセンターなどのサービス産業中心の方向へ進んでいるが、国内の製造基盤がまったくないわけではない。

 一方、ギリシアは、基本は農業と牧畜の国で、国内に雇用を吸収するだけの産業基盤がないので、海外に移民として大量に流出している。とくに米国のシカゴ、オーストラリアのメルボルンは、たしかアテネよりギリシア系市民の人口は多い。

 もちろん人口規模でいえば、国内人口8千4百万のフィリピンは、同1千万人強のギリシアの8倍近いので大きな違いがある。一人あたりGDPでは逆に、US$27,790 のギリシアは、 同 US$1,390 のフィリピンの20倍近い。

 とはいえ、ギリシアもフィリピンも、ともに海外移民や海外就労者からの送金が、国家財政の少なからぬ割合を占めている点は共通している。

 また、共通しているのは、船員の供給国であることだ。
 欧州ではギリシアやクロアチアなど、アジアではフィリピンとミャンマーが船員の主要な供給源である。国内産業基盤の弱い国は、人的資源の輸出で稼ぐしかない

 また、フィリピンでは、外貨を稼ぐのは、エンターテイナー、ベビーシッターなどの女性労働力のチカラが大きい。分野は違うが、女がせっせと働く一方、男はカフェでだべるか将棋をさしている光景は、ギリシアを初めとして南欧、地中海世界では不思議でもなんでもない地中海世界の例外は、イスラエルくらいだろう。イスラエルにはシエスタの習慣はない。

 貧富の大きな格差、ファミリー政治の腐敗、巨大なアングラ経済・・・ギリシアとフィリピンの共通性は多い。違いは、ギリシアがギリシア正教に対して、フィリピンはカトリックが主流でイスラーム人口も多いとおいうことくらいか。

 同じ島国といっても、日本とギリシアは大きく異なるし、日本とフィリピンも大きく異なる。むしろ、ギリシアとフィリピンを比較したほうが、共通性が多いので、比較としては面白いのではいか、と思う。

 複眼的思考が求められるところだ。



<関連サイト>

ギリシャ現地レポート:「破綻国家」を救うのは「EU」か「中国」か (フォーサイト、2015年1月30日)

ギリシア-ヨーロッパの内なる中東 (中東-危機の震源を読む(88) )(池内恵、フォーサイト、2015年7月8日)
・・「ギリシア問題は、歴史的に遡ってみれば、「中東問題」の一部とも言えるのではないのか」という視点からの論考

(2015年1月30日 項目新設)
(2015年7月10日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

書評 『物語 近現代ギリシャの歴史-独立戦争からユーロ危機まで-』(村田奈々子、中公新書、2012)-日本人による日本人のための近現代ギリシア史という「物語」=「歴史」

書評 『本当にヤバイ!欧州経済』(渡邉哲也、 三橋貴明=監修、彩図社、2009)

書評 『ユーロ破綻-そしてドイツだけが残った-』(竹森俊平、日経プレミアシリーズ、2012)-ユーロ存続か崩壊か? すべてはドイツにかかっている 

書評 『国家債務危機-ソブリン・クライシスに、いかに対処すべきか?-』(ジャック・アタリ、林昌宏訳、作品社、2011)-公的債務問題による欧州金融危機は対岸の火事ではない!

書評 『ブーメラン-欧州から恐慌が返ってくる-』(マイケル・ルイス、東江一紀訳、文藝春秋社、2012)-欧州「メルトダウン・ツアー」で知る「欧州比較国民性論」とその教訓

書評 『終わりなき危機-君はグローバリゼーションの真実を見たか-』(水野和夫、日本経済新聞出版社、2011)-西欧主導の近代資本主義500年の歴史は終わり、「長い21世紀」を生き抜かねばならない

(2014年1月15日 情報追加)



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2010年9月28日火曜日

「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α ー 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に (総目次)




 現在までに、47都道府県のほぼすべてにいっている私が、いまだ訪れたことがなかったのが山形県。その日本海沿岸部に拡がる庄内平野と背後になだらかな山容をしめしている出羽三山。

 「庄内平野と出羽三山への旅」と題した今回の旅のテーマは以下のとおりであった。

① 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加すること
② 出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)をすべて歩くこと
③ 即身成仏による「ミイラ仏」を実際に見ること
④ 庄内地方が生んだ 大川周明、石原完爾ゆかりの地をまわること


 1週間にしてはかなり盛りだくさんの旅であったが、かなり充実したものとなった。

 記憶が失せてしまわないうちに、旅の記録を紀行文風に綴ってみたのが、「庄内平野と出羽三山への旅」全12回である。
 紀行文あり、修行体験記あり、背景解説のコメントあり、書評あり。これまた盛りだくさんの内容になっている。

 編集長兼ライターという特権を享受できるのが、このブログという「個人雑誌の」の強みであり、面白さでもある。

 この文章が、みなさんのお役に少しでも立つのであれば、執筆者冥利に尽きるというものです。どうぞご覧あれ。

 ボナペティ(Bon Appetit !)


(1) はじめに

(2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性

(3) 「山伏修行体験塾」(二泊三日)に参加するため羽黒山方面に移動

(4) 「山伏修行体験塾」(二泊三日) 初日の苦行は深夜まで続く・・・

(5) 「山伏修行体験塾」(二泊三日) 二日目は早朝から夜中まで実に長い一日だった・・・

(6) 「山伏修行体験塾」(二泊三日) 最終日の三日目が終了! 精進落としの楽しみとは・・・

(7) 「神仏分離と廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が、出羽三山の修験道に与えた取り返しのつかないダメージ

(8) 月山八号目の御田原参籠所に宿泊する

(9) 月山八号目から月山山頂を経て湯殿山へ縦走する

(10)松尾芭蕉にとって出羽三山巡礼は 『奥の細道』 の旅の主目的であった

(11) 湯殿山で感じる「出羽三山の奥の院」の意味

(12) 庄内平野の湯殿山系「即身仏」(ミイラ仏)を見て回る


<番外編>

書評 『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎、講談社文庫、2010 単行本 2008)

「山伏修行体験塾 2011 東京勧進」 に参加-ヤマガタ・サンダンデロ(銀座)にて山形の食材をふんだんにつかった料理とお酒を存分に楽しんできた(2011年11月11日)



<参考サイト>

山伏(体験)wikipedia

「いでは文化記念館」(羽黒山)の「山伏修行体験塾」

宿坊・大聖坊が主催する山伏修行体験・・民俗写真家・三好祐司が日本各地の民俗・風習を訪ね歩いた記録。「いでは文化記念館」以外が主催する「山伏修行体験塾」以外の山伏修行。


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2010年9月27日月曜日

書評『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』(岡田芳郎、講談社文庫、2010 単行本 2008)ー 地方発の文化発信を実践した、類い希な「文化プロデューサー」の生涯とその時代




地方発の文化発信を実践した、類い希な「文化プロデューサー」の生涯とその時代

 つい先日、今年(2010年)の9月の初めのことだが、生まれて初めて酒田市にいっていきた。

 47都道府県のほとんどに足を運んでいる私だが、山形県が数少ない未踏地帯となっていた私は意を決して庄内平野と出羽三山への旅にでかけたのだが、庄内平野を代表する二つの地方都市である酒田と鶴岡を訪れたのはいうまでもない。

 この旅から帰宅して数日たった頃、文庫本の新刊でこの本が出版されたことを知った。まさにシンクロニシティというべきか、セレンディピティというべきか。『世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか』・・・おお、そんな映画館とフランス料理店が戦後の酒田にあったとは知らなかった。そんなことをやり遂げた経営者がいたとはまったく知らなかった。これは読まなければと思ってさっそく読み出した。熱中して一気に読んでしまった。旅の前に読んでいたら、おそらく酒田にはまた違った印象をもったことだろう。

 酒田は東北の地方都市というよりも、日本海側の地方都市というのがふさわしい。江戸時代に河村瑞賢が開設した西回り廻船の繁栄によって、「西の堺、東の酒田」と並び称された湊町。裏日本と蔑称された日本海側こそが、本来はオモテ日本だったのだ。交通物流体系が抜本的に変化したいまは、その面影はイマジネーションで再現してみるしかないのだが。

 現在では発展から取り残された、レトロ感漂う、落ち着いた地方都市といった印象が強い酒田であるが、往事の繁栄はそれはすごいものだったのだろう。その痕跡は市内の随所に残っている。アカデミー賞受賞の映画『おくりびと』のロケ地に選択されたのもむべなるかなと思わされる。私が生まれた、同じく日本海側の地方都市・舞鶴にも似たものを感じるのだ。

 食材の豊富さは、とくに庄内平野と出羽三山を背後にもつ酒田は、日本海の海の幸だけでなく、山の幸もともに供給できる素晴らしい土地なのである。こんな土地柄の地方都市で、名家の長男として生まれたのが本書の主人公・佐藤久一であった。遊び好きで、金に糸目をつけず感性を大事にする酒田っ子、「結構人」(けっこうじん)の系譜に連なる男であった。


 酒田の地で取り組んだ事業である「世界一の映画館」と「日本一のフランス料理店」。これらは戦前ではなく、戦後の酒田に存在したのだ。現在でこそ、「地方発の文化発信」は当たり前のものとなっているが、行政の働きかけではなく、経営者としての感性、こころざしによって、自らの意思に基づいて「文化事業」を実行し、成し遂げた男がいたのである。

 佐藤久一(さとう・きゅういち)が成し遂げたことは、ほぼすべてが時代を突き抜けて先駆けていた。進みすぎてはいたが、けっして地に足がついていなかったのではない。地方都市・酒田において、地域住民のニーズを先取りし、むしろ一歩進んだものを提供することで教育し、需要を作り出していったのである。

 私は、この佐藤久一という人物に多大な関心を抱いただけでなく、この本は「ビジネス書ではないビジネス書」として、多くの人に薦めたいと思った。サービス産業の生きた事例として、いやホスピタリティ産業の生きた事例として、大いに研究し、大いに学ぶべきものがこの一冊には凝縮して詰まっているからである。

 著者の岡田芳郎氏は、電通でイベントや CI を推進したビジネスマンであったとともに、自らの詩集も出版している詩人だという。主人公の佐藤久一と同年生まれだが、サラーリマンとして満ち足りたビジネス人生を送った著者は、自らしゃしゃり出ずに、佐藤久一という類い希な文化プロデューサーの人物を描き出すことに専念している。そしてそれは十二分に成功しているといっていいだろう。

 「世界一の映画館」グリーン・ハウスの支配人ではあったが映画製作者ではなく、「日本一のフランス料理店」ル・ポトッフーの支配人ではあったが料理人ではない。つまりものを創り出すクリエーターではないが、プロデューサーとして、またバツグンの目利きとして、海外の映画を、その土地に根付いたフランス料理を、地域住民を中心に提供することをつうじて、日本全国から集客することも可能にした男。映画館では満たされなかった夢を、舞台としての料理店、ライブとしての料理ともてなしで実現した男。

 経営は、夢と数字とのバランスを両立させることにあるのだが、佐藤久一の場合は、やや前者が勝りがちであったようだ。現実的だが、理想化肌の人だった。現実的なだけでは面白くない、理想を実現するためには現実の数字は無視できない。まさにバランスであるのだが、経営とは難しいものだ。パトロンとしてのオーナーがいたからこそ成り立った「日本一のフランス料理店」だったが、積もり積もった累積赤字のため、ついに引導を渡され、その後は燃え尽きるように消えて行く。

 子供の頃から最高の文化を享受し、ホンモノに触れて育った男が実現した夢。やりたいことをやり抜き、走り抜け、見果てぬ夢を抱きながらついに燃え尽き、倒れた一人の男。こんな人がいたのだということを知るためにも、ぜひ一読を薦めたい本である。


<初出情報>

■bk1書評「地方発の文化発信を実践した、類い希な「文化プロデューサー」の生涯とその時代」投稿掲載(2010年9月17日)
■amazon書評「地方発の文化発信を実践した、類い希な「文化プロデューサー」の生涯とその時代」投稿掲載(2010年9月17日)





目次

プロローグ 酒田大火
第1章 グリーンハウスその1 1950~55年
第2章 グリーンハウスその2 1955~64年
第3章 東京・日生劇場 1964~67年
第4章 レストラン欅 1967~73年
第5章 ル・ポットフー(清水屋)1973~75年
第6章 ル・ポットフー(東急イン)その1 1975~83年
第7章 ル・ポットフー(東急イン)その2 1984~93年
第8章 ふたたび、レストラン欅 1993~97年
エピローグ 見果てぬ夢


著者プロフィール

岡田芳郎(おかだ・よしろう)

1934年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。1956年、電通入社。コーポレート・アイデンティティ室長(局長)を経て、電通総研常任監査役を務め、1998年、退職。1970年の大阪万博では「笑いのパビリオン」を企画。1980年代は電通の CIビジネスで指導的役割を果たす(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)



<書評への付記>

 この本の書評は、「庄内平野と出羽三山への旅」の番外編として掲載することとした。

 「庄内平野と出羽三山への旅」から帰ってきたら、講談社文庫の新刊として9月に本書が出版されたことを知った。まさに、シンクロニシティというべきか。
 おそらく、この旅をしなかったら、このタイトルを見ても記憶に残らなかったであろうし、ましてや読むことなどしなかっただろう。偶然によって本と出会うこと、これもまた多くある出会いのうちの一つである。その意味ではセレンディピティでもある。

 書評のタイトルに「文化プロデューサー」というコトバを使ったが、これはこの本の主人公である佐藤久一(さとう・きゅういち)が名乗ったわけではない。私が勝手に命名しただけだ。
 映画文化に食文化。ともにすぐれた知性を提供するサービス産業、いやホスピタリティ産業であり、経営者というよりも、すぐれたクォリティの文化を提供するjことで、顧客を啓蒙・教育し、市場を創造していったという点について「文化プロデューサー」というネーミングがふさわしいと感じたからだ。

 私と名前がそっくりだが、もちろん血縁関係はまったくない。


庄内地方は「食の国」

 酒田のある庄内地方の素材がすぐれていることは、私も実際にいろんなものを食べてみて実感した。



 車窓に拡がる水田風景。庄内平野はなんといっても量質のお米が生産されている。「庄内米」である。その庄内米の流通基地が、江戸時代以来の酒田港の繁栄を支えてきたのである。

 「さかた海鮮市場」で撮影した写真を掲載しておこう。撮影は、2010年9月2日。
 日本海ならでは、庄内浜ならではの魚が多数水揚げされ、販売されている。佐藤久一(さとう・きゅういち)もまた、かつて自ら足を運んで買い付けを行っていたという。料理は素材がすべてである。


 「はたはた」は秋田が有名だが、隣の山形でも水揚げされる魚。


 「すずき」も東京湾で獲れるありふれた魚だが、庄内浜でも水揚げされる。「ネジリ」とはどういう魚であるのか。


 「そい」という魚。


 「ホウボウ」に「甘ダイ」。

 「イワガキ」については、庄内平野と出羽三山への旅 (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性 に写真とともに書いておいた。
 だが、佐藤久一(さとう・きゅういち)は、イワガキは酒田産ではなく、吹浦(ふくら)産が最高であるとしていたという。なぜなら、鳥海山の伏流水が湧き水として海に流れ込み、ここで育ったイワガキが最高の味になるためであると。



<関連サイト>

たった1軒のレストランが庄内平野を変えた
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100914/216227/?P=1
・・鶴岡のイタリア料理店アル・ケッツァーノ。酒田のフランス料理店「ル・ポトッフ」を越える存在になるか?


<ブログ内関連記事>

「庄内平野と出羽三山への旅」 (2) 酒田と鶴岡という二つの地方都市の個性

書評 『わたしはコンシェルジュ-けっして NO とは言えない職業-』(阿部 佳、講談社文庫、2010 単行本初版 2001)
・・ホスピタリティとサービスの違いとは?

クレド(Credo)とは
・・ホスピタリティ産業のなかでも代表的なホテルである、リッツ・カールトンの「クレド」とその背景


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2010年9月26日日曜日

「ナマステ・インディア2010」(代々木公園)にいってきた & 東京ジャーミイ(="代々木上原のモスク")見学記




 ナマステ!

 きょう9月26日(日)、 「ナマステ・インディア2010」(代々木公園)にいってきた。
 代々木公園で開催される恒例のお祭り。「タイ・フェスティバル」はこのところ毎年いっているが、「インド・フェスティバル」は今回が初めて。

 「ナマステ!」(Namaste !)とは、インドだけでなく、ネパールでも使われる合掌スタイルをしながらする挨拶のコトバのことだ。

 中央ステージでは、大音響のインド音楽にあわせて、インド舞踊のパフォーマンス。
 見て、聞いて、そして・・・


「ナマステ・インディア2010」会場をぶらつく

 会場は、物販や飲食が中心で、日本にいながらにしてインド気分を味わえる。
 来ているのは日本人が圧倒的に多いが、インド人の姿もかなり見られる。インド人は男どうし、カップルや家族などで来ている。
 もちろん、白人の姿もちらほら見られる。このエリア一帯は、東京でも有数の国際的観光スポットんあおで、在住者以外に観光客らしい姿も見られる。

 まあ、なんといっても楽しみはインド料理だろう。


 まず、マサラ・チャイ(masala chai)をホットで一杯 200円。紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れたインドティー。ここで売っているのはインスタント粉末のもの。
 チャイはホットに限る。インド北部のラダックで飲んだ一杯の甘いチャイを思い出す。小さなグラスで飲むチャイは、寒いときに飲は、ほんとうにカラダとココロが暖まる。きょうは晴天でそれほど寒くはなかったが。


 昼は軽く食べてから出かけたのだが、せっかくこれだけ本格インド料理店が出店しているのに、まったくカレーを食べずに帰るのももったいない。
 というわけで、シディークという店で、サグ・チキン(Saag Chicken)カレーとナンのセット500円を買って食べる。これで500円なら安い、うまい、早い。
 ほんとうは一緒にラッシー(=ヨーグルト飲料)でも買いたいところだが、すでに食べる場所は占拠されて見つけにくいので今回は断念。また、今度どこかインド料理店でもいった際に食べることとしよう。

 KingFisher という銘柄のビールも売っているが、今回は飲まない。きょうは休肝日としているので。
 このビールは、インドで飲んだことはあるが、わざわざ日本でも飲みたいとは思わない。味は悪くないが、プレミアム・プライス払ってまで飲むことはあるまい。ちなみに、KingFisher 社は、同名の格安航空会社の一事業である。

 また、インドのワイン(!)を扱っている出店も複数あった。ワインも前回2~3年前に仕事でインドにいった際に飲んだが味は悪くない。とはいえ、あえて日本国内でインド・ワインを飲みたいとは思わないのは、とくに不思議ではないだろう。安くてうまいワインは南半球からいくらでも入ってくる。

 しかし、私がはじめてインドにいったのは、いまから15年前だが、敬虔なインド人は酒を飲まないという好印象を抱いた。ところが、前回仕事で行ったときはまったく様変わりしていた。
 「酒を飲むインド人」というのは、どうもしっくりこないのである。


セレンディピティ(偶察力)を大いに発揮!

 今回はほとんど何も期待せずに出かけたのだが、本屋が何店か出店しているので覗いてみる。


 そのうちの一つで、インドで出版されている Lord Buddha という、子供向けの絵入りの英語版仏陀伝を 380円にて購入。インド人がインド人のために書いた仏陀伝は、インド色が色濃く出ているので興味深い。
 インドでは仏教は完全にマイノリティだが、ブッダはヒンドゥー教の聖者の一人になっているので、インド人にとっても違和感のない存在のようである。


 もう一軒で、「スリランカの王子様セレンディップ」ではないが、これこそセレンディピティ、なんと『星の王子様』のヒンディー語版を発見、600円にて購入。とくに探していたわけではないが、向こうから飛び込んできた表紙絵は、まさに「星の王子様」。偶然がもたらした、うれしい発見。

 なぜこれがセレンディピティかというと、実は私は各国語版の『星の王子様』(サン・テグジュペリ)を収集しているのだ。
 これまで集めたのは、フランス語オリジナル(Le Petit Prince)は本と朗読CD、翻訳版は日本語(・・もちろん内藤櫂の古典的名訳+池澤夏樹訳など)、英語版、ドイツ語版、スペイン語版、イタリア語版、ラテン語版、ポルトガル語版、ロシア語版、チェコ語版、韓国語版、タイ語版、である。

 もちろん、ヒンディー語版を買ったところで読めるわけではないのだが、読まなくても中身はわかっている(!)。まあ、威張ってみたところで意味ないな(笑)。さすがに、この本の内容を知らない日本人は少ないだろう。あくまでもコレクションに加わった一冊です。


 このほか、アパレル関係やインドグッズ関係、それから少なくないのがヨーガ関連。ヒンドゥー教の聖者ラーマ・クリシュナ関連グッズのお店なども出店していた。



天気がいいので明治神宮へ。本日もパワースポット「清正井」は満員御礼

 天気がいいので明治神宮へ。明治神宮はいついっても杉木立の参道が歩いて心地よい。


 相変わらず「清正井」は入場者の列ができているが、本日は整理券終わり。いつ来てもこうだなあ、というよりもこれを見る目的で明治神宮に来るわけではないので、当然といえば当然だが。
 自分の目で見たことがないので何ともいえないが、湧き水がでているこの井戸は、東京都内では有名なパワースポットらしい。しかしまあ、猫も杓子もパワスポ流行りですな。それもたいへんお手軽な。

 参道を歩いていると、シャッターを押して下さいというジェスチャーをされたので快くOKする。写真を撮ったあと、「どこから?」と聞いてみたら「インドネシアから」という。逆に「どこから?」と聞かれたので、「日本だ」と答えると、思わず二人でニコっとしあう。無意識にでる笑顔はアジア人ならではのもの。
 まあ、明治神宮においては、私が日本人であるという保証はまたくないわけだ。国際的観光スポットなので、中国人も台湾人も韓国人もタイ人も、その他西洋人も実に外国人が多いから。「ナマステ・インディア2010」が代々木公園で開催されていたからだろう、参拝客にはインド人も多かった。



東京ジャーミイ(="代々木上原のモスク")を見学

 今回は、代々木には何度もきているのに、いまのいままで行ったことがなかった「代々木上原のモスク」にいくのも目的の一つとしていた。
 地下鉄千代田線の明治神宮前駅から二駅目、終点の代々木上原駅で下車、西に歩いて数分の坂の上にある。

 戦前から親しまれてきたという「代々木上原のモスク」は老朽化のため取り壊され、現在のものは、建て直されて、2000年に完成したもの。
 正式名称を「東京ジャーミイ & トルコ文化センター」という。トルコ共和国政府が多額の資金提供をして再建された、それはもうたいへん立派な、まさに壮麗なモスクである。


 ミナレット(尖塔)のあまりの高さに、近くからでは全体像が写真に納まらない。道路の反対側にいって、離れた位置からだと、ようやくレンズに納まった。


 内部は自由に見学できるということなので、入ってみる。イスラーム関連の各種のパンフレット類、「アッラーの使徒ムハンマドの40のハディース」をいただいて帰る。
 お祈り前にカラダを洗う洗浄ルームがあり、水道の蛇口やシャワーが完備している。禊ぎではないが、イスラームは神道とよく似て、何よりも清浄であることを重んじる宗教である。


 礼拝場は階段を上がって二階。これはもう壮麗の一言に尽きる。すばらしい。イスタンブルのブルー・モスクよりは規模は小さいが、内装はよく似ている。新しいので、ブルーの色彩がとくに美しい。
 さすが、トルコ政府がカネ使っただけのことはあるが、果たして建設費はいったいどれくらいかかったのだろうかと、ついついそういうことを考えてしまう。

 地下鉄千代田線の終点である代々木上原駅で下車したのは今回が初めてだが、駅前には「古賀政男音楽博物館」という建物があった。音楽著作権管理の JASRAC の施設らしい。
 入場料が 525円と半端であったが、無料ではないので入るのはやめた。もちろん、古賀政男の名前と音楽は知らないわけではないが、とくだんファンというわけではないので。
 もし古賀政男の名前を若い世代にも伝えたいのであれば、入場無料にしたらいいのに。

 想定外の明治神宮参拝を加えたために、本日は万歩を越えて 15,000歩 になった。


インドの多様性について一言。まさに Incredible India !

 ところで、インドはヒンドゥー教と思い込んでいる人も多いだろうが、実はインドの総人口の1割以上がムスリムである。
 パキスタンとバングラデシュ(・・かつては東パキスタン)が分類した際に、ムスリムは大多数が移住したが、いまでもインド国内にはムスリムはキリスト教徒や、仏教徒よりも多く居住しているのである。
 英国の植民地になる前のムガール王朝がムスリム王権であったことを考えれば、不思議でもなんでもない話なのである。


 これは、「ナマステ・インディア2010」の会場に出店しているインドグッズ販売店で売っていた、ムスリム男子がかぶる帽子である。

 多様性の国インド。インド政府観光局のキャッチフレーズではないが、まさに Incredible India ! である。

 
 
<関連サイト>

●インド関連

 「ナマステ・インディア2010」(代々木公園)公式サイト

Incredible India(インド政府観光局 音声に注意!)

KingFisher Airline
・・インドの新興格安航空会社
KingFisher Beer
・・こちらはビール


●イスラームとムスリム関連

「東京ジャーミイ & トルコ文化センター」 (音声に注意!)

日本最大のモスク「東京ジャーミイ」イスラムの扉を開ける社会暮らし文化(nippon.com シリーズ 日本で見つけたイスラムの世界 2013年5月8日)
・・この記事によれば、ロシア革命(1917年)で難民となったタタール人が創建にかかわっているらしい。「日本の歴史で、残念ながら長い間、イスラム世界との直接の接触はありませんでした。イスラム教徒がある一定の集団で日本に入って来るのは、20世紀に入ってからです。東京にモスクができたのも、ロシア革命(1917年)で難民となったタタール人の手によるものでした。彼らは中央アジアのトルコ系の民族で、シベリア、中国を経由し、日本にやって来ました。イスラム教徒である彼らが日本で行ったことは、子供たちの学校やモスクを建てることでした。1928年に日本政府から学校設立の許可を得て建設に取り掛かり、1935年に開校しました。礼拝堂(東京回教礼拝堂)の完成は、学校開校から3年後の1938年でした」と話すのは、東京ジャーミイのイマーム(礼拝を先導する導師)である、ヌルラフ・アヤズ(Nurullah Ayaz)さん」

(2018年7月15日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

●インド関連

書評 『インドの科学者-頭脳大国への道-(岩波科学ライブラリー)』(三上喜貴、岩波書店、2009)

アッシジのフランチェスコ (4) マザーテレサとインド

書評 『男一代菩薩道-インド仏教の頂点に立つ日本人、佐々井秀嶺-』(小林三旅、アスペクト、2008)

タイのあれこれ(17) ヒンドゥー教の神々とタイのインド系市民


●イスラームとムスリム関連

書評 『日本のムスリム社会』(桜井啓子、ちくま新書、2003)

書評 『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略-』(関岡英之、祥伝社、2010)

本日よりイスラーム世界ではラマダーン(断食月)入り


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