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2011年11月20日日曜日

宮崎滔天の 『支那革命軍談』 (1912年刊)に描かれた孫文と黄興の出会い-映画 『1911』 をさらに面白く見るために


 映画『1911』は、オリジナルの中文バージョンでは『1911 辛亥革命』となっている。1911年の「辛亥革命」とは、1949年の中国共産党による中華人民共和国成立にいたる「中国革命」の第一歩となった重要な歴史的事件である。

 その「中国革命」に人生をかけた日本人がいた。宮崎滔天(みやざき・とうてん:1871~1922年)である。

 宮崎滔天といえば、その半生の自叙伝である『三十三年の夢』(1902年刊)が有名であるが、残念ながらその記述は「辛亥革命」成功に至る十年前で終わっている。

 『三十三年の夢』で書かれなかったが、もちろん孫文は革命運動を継続し、全世界を飛び回って(・・いや、まだ飛行機のなかった時代だ、船で移動を続けていたのだ!)、革命のための軍資金調達に奔走していた

 さが、もちろんその後日談はある。それがこの『支那革命軍談』(1912年)である。

 1967年に法政大学出版会から復刊された『支那革命軍談』は、もともと辛亥革命の翌年1912年に東京で出版されたものである。いまだ「文化大革命」の最中にあって、中国を美化する言説があたりまえであった時代の復刊なので、その時代の匂いのつよい解説文であるが・・・

 これが読むとめっぽう面白いのだ。残念ながらそれ以後は版を重ねていないようですでに絶版状態だが、どこか文庫本で復刊してくれないものだろうか。

 文語体の『三十三年の夢』よりも読みやすく面白いし、「辛亥革命」に至までの孫文を知る上でも、宮崎滔天が当事者であっただけに、臨場感あふれた内容なのだ。

 「目次」を掲載しておこう。なお、孫逸仙とは孫文のことである。中国では孫中山先生と呼ばれることが多い。

1. 孫逸仙生ひ立ちの事
2. 一味の志士結社の車
3. 鄭頭目快撃を促す車
4. 孫逸仙欺かれて倫敦(ロンドン)の公使館に捕るゝ事
5. 公使舘の窓から命の綱の投文の車
6. 孫逸仙、公使館を脱け出さんと図る事
7. 両博士、孫の救助に苦心の事
8. 英政府の談判成功して孫 引渡しの事
9. 犬養毅 斡旋の事
10. 滔天、革命党員を尋ねて澳門(マカオ)行の事
11. 香港の革命党と秘密室に相語る事
12. 孫の入京を聞き、小村寿太郎吃驚(びっくり)の事
13. 壮士相会して対露清事業を約する事
14. 康有為、計策破綻して逃鼠の事
15. 亡命の康有為、梁啓超相抱いて泣く事
16. 比律賓(フィリピン)の志士、孫に大事を頼む事
17. 比律賓(フィリピン)志士の為に弾薬調達の事
18. 福州にて布引丸(ぬのびきまる)の沈没を聞く事
19. 布引丸の沈没に味方大損害の事
20. 革命党の頭目等、香港に会合の事
21. 三派連合の秘密会、意外の妨害に会ふ事
22. 滔天、同志の吃驚(びっくり)を鎮むる事
23. 三派愈々(いよいよ)合同して孫を首領とする事
24. 孫の一党、愈々(いよいよ)革命の大連動に着手する事
25. 康有為、滔天等を刺客と誤る事
26. 滔天、英国の警官に取調べらるゝ事
27. 滔天等、拘禁に先(さきだ)つて大酔する事
28. 滔天、新嘉坡(シンガポール)監獄に入牢の事
29. 英国官憲の命により新嘉披(シンガポール)追放の事
30. 孫等、又た香港を追放さるゝ事
31. 革命旗撃決行の事
32. 革命の挙、遂(つい)に敗るゝ事
33. 孫逸仙、黄興と初対面の事
34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事
35. 革命党、鎮南関攻撃の事
36. 鎮南関攻撃準備の事
37. 孫、黄 鎮南関の天険を陥るゝ事
38. 弾薬窮乏して鎮南関退陣の事
39. 革命軍再起して雲南河口を取る事
40. 汪兆銘、北京宮廷に撮政王を覗ふ事
41. 黄興、広東総督衛門焼打の事
42. 革命新政府樹立の事


附録 革命事情

湖北革命の発端
黄興の変装
孫及び黄等の砲台奪取事件
黎元洪(れいげんこう)の人物
支那の革命婦人
 革命の先駆者秋瑾(しゅうきん)
 男装剣を横ふる王夫人
 怪女優錦芝蘭

 映画『1911』に描かれているのは、本書の 41. 黄興、広東総督衛門焼打の事 と 42. 革命新政府樹立の事 が中心である。

 映画冒頭に出てくる女性革命家・秋瑾(しゅうきん)の処刑シーンについては、支那の革命婦人 革命の先駆者 秋瑾(しゅうきん) で触れられている。

 冒頭のシーンをみて、すぐにピンとこなければ、中国近現代史をもう一度、勉強し直したほうがいい。


映画『1911』にない、孫文とその盟友・黄興との出会いのシーンがこの本には臨場感たっぷりに活写されている

 映画『1911』は、ジャッキー・チェン演じる黄興と孫文との男の友情がメインテーマでもあるが、肝心要の二人の出会いのシーンがない。

 孫文と黄興が出会うキッカケをつくったのは宮崎滔天であったことはまったく触れられていないのは、じつに残念なことだ。

 孫文の盟友の一人として、多額の資金援助を行った陰徳の日本人実業家・梅原庄吉の名は知る人も増えてきたが、逆に宮崎滔天の名前が忘れ去られているのはじつに残念至極。

 事の次第はこのようなものだ。

 黄興が、宮崎滔天の「中国革命」奔走記である『三十三年の夢』の中文抜粋訳を読んで感激し、亡命目的で来日した東京で宮崎滔天と知り合いになった。その黄興に、来日した孫文を引き合わせたのが宮崎滔天であった。

 だから、映画『1911』では、せめて回想シーンでいいから、そのシークエンスがほしかったものである。宮崎滔天は中国共産党もお墨付きの日本人なのであるから。

 では、『支那革命軍談』から引用しておこう。33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 から。まさに、そこに居合わせているかのような臨場感あふれるシーンである。なぜなら、この一節を語った宮崎滔天(・・下の写真)自身がそこに居合わせているからだ。



33. 孫逸仙、黄興と初対面の事 

(前略)超えて三十八年(注:明治38年=1905年)春、孫逸仙(=孫文)は欧米の漫遊を終へて日本へ帰り、僕の茅屋を訪ひ僅僅(きんきん)一三年の間に非常に留学生の殖えた事より留学生中変わつた人物がないかと云ふ問であるから、僕は黄興と謂ふ偉い人のある事を話すと孫は、『夫(それ)ぢゃ是から其(その)人を訪問しやう』と云ふから、僕は黄興の処へ行つて黄興を迎へて来やうと云ふと『其様(そのよう)な面倒な事は要らぬ、是から一人で訪問しやう』と云ふので相携へて神楽坂附近の黄興の寓所を訪ふた、当時僕と寝食を共にして居た末永は此時(このとき)黄興と同棲して居た故、孫を表へ立たして置いて格子を潜(くぐ)つて『黄さん』と声を掛ると末永と黄は一緒に顔を出して表に立つて居つた孫の顔を見るや『イヤ孫さん』と叫ばんとすると、黄興は直ちに其れと心付き大勢の学生が来て居るので、手真似で孫の家内へ入ることを差止めた。僕もそれと察したから、直ちに戸外へ出て、其まゝ待つて居ると、間もなく黄興、末永、張継の三人が出て来て鳳楽園と云ふ支那料理屋へ案内した、彼等は初対面の挨拶もそこそこに既に、見旧知の如く互いに添加革命の大問題に向かつて話を始める、僕等は支那語は十分に解する力が無いので如何なる話をして居るか分らぬが兎に角支那の豪傑が茲(ここ)に一堂に相集まつて手を握ることの嬉しさに、末永と二人で頻(しき)りに盃を傾けて居ると稍々(やや)二時間ばかりと云ふもの孫と黄の両人は酒にも肴にも口を着けず議論を上下して居つたが、終に萬歳(バンザイ)を唱へて祝杯を挙げたのであつた。

34. 孫、黄を首領とせる大同盟組織の事

 此(この)黄、孫二人の握手が革命運動に対して非常なる発展の動機となつた、・・(以下略)・・

(出典:『支那革命軍談』(西田勝編・解説、法政大学出版会、1967) 引用は P.71~72。ただし、旧字体の漢字は新字体に直し、引用者(=わたし)の判断で( )内に読み仮名を補足した)

 孫文と黄興は、東京・神楽坂(かぐらざか)の中国料理店ではじめて胸襟(きょうきん)を開いて革命について熱く語り合ったのである。宮崎滔天は当事者としてそこに立ち会っていたというわけだ。

 『三十三年の夢』を書いたあと、革命の志やぶれて浪花節語りの桃中軒雲右衛門に弟子入りして、桃中軒牛右衛門と名乗っていた宮崎滔天の語りである。

 自由民権運動と浪花節は密接な関係にあったが、宮崎滔天の本意がどこにあったのかはうかがい知ることは難しい。

 しかし、苦労は報われたのだ。

 西田勝氏による解説は「文化大革命」の渦中に書かれたものだけに、現在からみると違和感を感じるトーンがあるが、「辛亥革命」成功を知って、孫文に会いに行くことになった宮崎滔天のことを長男が回想した文章が引用されているので、孫引きさせていただこう。

「・・・この年の秋(明治44年)になって俄然四川省に変乱か起り、それから武昌の義挙となり、革命運動はそのドン底の苦しみから一時(いっとき)に成功の火の手を見ることが出来るやうになりました。革命の烽火(のろし)が上がった時、孫(文)さんはフランスにをられました。滔天等も急いで行かなければならなかったのですが、何しろこの上ないの貧乏ですから、おいそれとはたてません。その内幾分か工面のよかった菅野(長知)氏は、加納清蔵、杉浦和介、金子克巳、亀井一郎、三原千尋等の諸氏を連れて先発されました。
 滔天は折よく駆けつけて来られた石丸鶴吉、島田経一両氏の心尽しを得て出発する事になりました。中でも永年の貧乏時代を見捨てもせず出入りしてくれた江戸ッ子紺屋の川城七太郎氏は
 『旦那! 私が見込んだ眼に狂ひはねえや、ポッチリですが気は心、あんまり少なくて旅費の足しにもなりますめえが、船ん中で煙(煙草)にして下さい』
 と心からの餞別を贈ってくれました。滔天は盃に一杯傾け、
 『二十五年の苦しみがやっと報いられた。空想だ、夢想だと笑はれた革命が、どうやら出来た。これからが大変だ』
 と哄笑しながら、旅装も簡単に大きな身体をのそりと旅立ちました。滔天は上海に直行し、フランスから帰る孫さんを迎へに香港に転航しました。上海に着いた孫さんは同志と共に南京に入り、臨時大総統に就任されて、いよいよ革命の基礎が築かれたのです。」(昭和十八年四月三十日、文藝春秋社刊『三十三年の夢』所収の宮崎龍介『父滔天のことども』による)


 宮崎滔天は 1922年に亡くなっている。その 3年後の 1925年には孫文も亡くなった。「辛亥革命」後、意見対立から孫文とは袂を分かった黄興は「辛亥革命」から3年後の1915年には病死している。






<関連サイト>

■『1911』の予告編比較

日本版予告編(YouTube映像)

外国版予告編(英文・中文字幕)(YouTube映像)

香港版(中文字幕)(YouTube映像)



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・・柳原白蓮の不倫の恋の相手となり、のち結婚した宮崎龍介は宮崎滔天の長男であった

(2014年8月21日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)








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