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2021年12月31日金曜日

書評『維新史の再発掘 ー 相楽総三と埋もれた草莽たち』(高木俊輔、NHKブックス、1970)ー 草莽の志士たちを民衆史から再発掘する

 

先駆的な仕事であるが、いかんせん出版は1943年の初版であり、いまから約80年前の作品である。その後の研究成果を知りたくなるの自然というものだろう。 

いろいろ探索しているうちに、『維新史の再発掘-相楽総三と埋もれた草莽たち』(高木俊輔、NHKブックス、1970)という本があることを知った。たまたま民衆史の鹿野政直氏の『日本近代史の思想』(講談社学術文庫、1986)をひさびさにパラパラめくってて、本書のの存在を知った。鹿野政直氏は、本書の帯に推薦文を書いている(・・下記に掲載の写真)。

  
古書価も高くなっているが、なんとか安く入手したので、さっそく読んでみた。さすがに民衆史の研究者によるだけあって、よく調べてあり、しかも読ませる内容の本だった。 


■1970年前後には「民衆史」の時代

どうやらこの本がでた1970年の前から相楽総三がちょっとしたブームになっていたらしい。

時代背景は1968年の「明治百年」にあったようだ。ときの日本政府による「上からの明治百年」への反発と、おなじ1968年に始まって世界中に拡散した学生運動もその時代のことである。「革命前夜」のような熱気があったというべきだろうか。

「民衆史」は現在では人気は下火だが、この時代には熱心な取り組みがなされていたのである。 『夜明け前』と同様に、演劇のテーマとしても取り上げられたようだ。

あれこれ調べているうちに、1969年には『赤毛』というタイトルの映画が製作され公開されていることを知った。監督は岡本喜八、主演は三船敏郎。

(英語版のタイトルは "Red Lion"  wikipedia英語版より)

ストーリーは、「幕末・王政復古の世。江戸に進撃する官軍の先駆「赤報隊」。沢渡宿で圧制を敷く駒虎一家を倒し女郎たちを解放する。先頭に立ったのは沢渡宿出身の権三だった。さらには代官屋敷から年貢を取り返し百姓も解放して意気揚々だったが…。赤報隊と官軍の戦いを通じて、維新の裏にある犠牲と矛盾を捉えた問題作。」(wikipediaより引用)

相楽総三を田村高廣。相楽総三とその同志の肖像画なり写真は残されていないので(*)、映画でも演劇でも、主演を喰ってさえしまえわなければ誰が演じても問題はないというわけだろう。

(*)活動家やテロリストなどは当然だが、相楽総三とその同志もまた「地下活動」をしていたので、肖像画や写真が残されていないのは当然だと考えるべき。渋沢栄一の丁髷姿の写真は、幕臣となってフランス渡航前のものであり、近藤勇の写真もまた正式に幕臣になる前だが、浪士隊時代のものではなく、新選組隊長時代のものである。

ただし、赤毛の被り物は時代考証的には間違いのようだ。江戸の無血開城後の戊辰戦争以降に官軍によって使用されたのであって、それ以前にはあり得ない話なのである。劇的効果を狙った演出と受け止めるべきだ。


■『維新史の再発掘-相楽総三と埋もれた草莽たち』

さて、本題に戻るが、この本じたいが、すでに50年前のものだが、それでも先駆者である長谷川伸のものより研究は進んでいる。いくつか興味深く感じたことを記しておこう。 

まず、相楽総三(そう名乗ったのは「薩摩藩邸焼討事件」前の挑発開始から)が企画した攘夷派による「関東挙兵計画」(1863年)について。 

小島四郎(=相楽総三)らの慷慨組による「赤城山挙兵計画」と、渋沢栄一らの天朝組による「高崎城乗っ取りと横浜洋館焼き討ち計画」は計画倒れに終わったが、楠音次郎らの真忠組による九十九里におけるは決行された。ただし、真忠組による九十九里における蹶起は世直し的性格を帯びたものだったが、幕府が差し向けた佐倉藩などの藩兵によって鎮圧された。

じつはこの3つの蹶起は、おなじ日に同時多発で実行される計画だったらしい。オルグの中心にいたのが相楽総三だったのだ。

 失敗に終わった同時多発の「関東挙兵計画」をオルグしたのは相楽総三だが、その資金源は大富豪だった父親からもらった5,000両(!)だったようだ。成功に終わった「薩摩藩邸焼き討ち」の際の軍資金3,000両も、父親から言葉巧みに引き出したらしい。 

武器弾薬を調達し、浪人たちを喰わせるためには、カネが必要だからだ。自前の軍資金があったからこそ、民衆から掠奪することはなかったことは特筆に値する。しかも、「年貢半減」のスローガンを掲げて中山道を進軍した、相楽総三とその同志たちによる赤報隊は、先々で歓迎されたのである。

これは余談だが、「9・11テロ」の背後にいたウサーマ・ビンラディーンもそうだが、大義を掲げたテロ計画は大金持ちか、バックに大金持ちを抱えた者が多い。日本人が巻き込まれたバングラデシュのイスラーム過激派によるテロもそうだった。いずれも大金持ちの子弟で、しかも高学歴者。自前の資金によるテロであった。イスラーム過激派の思想も、ある意味では攘夷思想である。 

関東攘夷派においては、いわゆる豪農層がその中心になっている。相楽総三の父親は、下総相馬郡で物価高騰のなか困窮化していった旗本への貸し付けで巨富を築いたらしい。渋沢栄一の父親もまた豪農層であった。相楽総三も渋沢栄一も、いずれも利根川流域にかかわりがある。支配関係が入り組んでいたことが豪農を誕生させる地盤となったようだ。

なぜ豪農層が、攘夷というテロに荷担していくことになったのか? 

著者の説明を単純化すれば、貧農層と支配者のあいだにはさまれたミドルマン的立ち位置が、究極の二択を迫ったというもあったのだ。豪農としての「家」のポジションを維持するため、貧農層の側に立つか、支配者層の側に立つか、である。 前者は、攘夷という形の現状変革を選択したわけであり、後者は支配者の手先となって民衆を弾圧する側にまわった。

これまた余談だが、ロシア革命において大きな役割をはたしたユダヤ系のトロツキーが、黒海に面したオデッサの豪農出身であったことを想起する。 それ以外のユダヤ系の革命家は、豪商か金融業者の子弟か、ユダヤ律法学者ラビの子弟などの知識階層が多かった。


■「王政復古」後に「偽官軍」のレッテルを貼られたには赤報隊だけではなかった

相楽総三が「偽官軍」のレッテルを貼られて処刑され、その汚名が関係者の奔走によって名誉回復がされるまで60年もかかったわけだが、それでも名誉回復されただけマシなのである。 

著者の整理によれば、「王政復古」前後の「偽官軍事件」は、相楽総三とその同志たちだけではなかったらしい。列挙すると以下のようになる。 

●花山院一党(九州) 
●高野山隊(紀州高野山) 
●山国隊(丹波国山国郷) 
赤報隊(東山道進軍の相楽総三とその同志) 
●髙松隊(赤報隊と前後して東山道進軍) 
●遠州報国隊(東海道で神官を中心に組織) 
●駿州赤心隊(同上) 
●豆州伊吹隊(同上) 
●居之隊(豪農中心の北越草莽隊) 
●北辰隊(同上) 
●金革隊(同上) 
●生気隊(同上) 
●奇兵隊と諸隊(長州藩で正規軍再編の際に解隊) 

日本全国でこれだけ多くの「偽官軍」事件が発生していたわけなのだ。「相楽総三とその同志」についても、幅広いパースペクティブに位置づけて理解する必要があることを感じる。

相楽総三の右腕ともいうべき同志の金原忠蔵(=竹内廉太郎)が、攘夷派時代の渋沢栄一の同志でもあり、しかも下総国葛飾郡小金(現在の鎌ヶ谷市)の豪農の子弟だった。そんなこともあって興味は尽きない。 まだもう少し、調べを進めてみたいと思う今日この頃である。 




<関連サイト>

・・赤報隊に属して、相楽総三とともに下諏訪で捕縛され処刑された渋谷総司は、下総国佐津間村(現在の鎌ケ谷市)の名主の出身であった。

郷土の資料 ~赤報隊について~(鎌ケ谷市立図書館)

(2023年5月9日 項目新設)


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■相楽総三とその同志とのつながりのあった尊皇攘夷の志士であった渋沢栄一




■下総と平田国学



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2021年12月30日木曜日

書評『明治維新の研究』(津田左右吉、毎日ワンズ、2021)-「明治維新」を政治プロセスと政治道徳の観点から見た身もふたもない歴史評論

 
 『明治維新の研究』(津田左右吉、毎日ワンズ、2021)を読了。日本の近現代史のはじまりともいうべき「明治維新」を、政治と政治道徳の観点から俯瞰的に見た、身もふたもない歴史評論というべき内容の本。  

著者自身はそういう言い方はしていないが、「薩長史観」(=王政復古史観)と同時に「皇国史観」も否定している。 

歴史学者の津田左右吉(つだ・そうきち)が、戦後昭和20年(1946年)から没年の1961年まで雑誌などで発表した論考を編集して1冊にしたものだ。 

津田左右吉は早稲田大学教授だったが、戦前に古代史研究を皇国史観の学者たちから批判され、「不敬」だとして古代史関連の著書が発禁になるという被害にあっている。だが、あくまでも実証主義の歴史家であって、マルクス主義者ではなかった。 

いまから40年前の大学時代に『文学に現れたる我が国民思想の研究』という、岩波文庫で8冊にも及ぶ本を通読して大いに感心したことがあるが(・・われながら、よくあんな本を読んだなと思う。当時出たばかりの加藤周一の『日本文学史序説』のつぎに読んだと記憶する)、『明治維新の研究』もまた、やや平版な記述が最初から最初までつづく文体で、正直いって読みやすい本ではない。  

基本的に、「明治維新」の政治プロセスを解剖するかのように記述している論考が7つ収録され再編集されている。 以下に目次を紹介しておこう。

はじめに-明治維新史の取り扱いについて 
第1章 明治の新政府における旧幕臣の去就
第2章 幕末における政府とそれに対する反動勢力
第3章 維新前後における道徳生活の問題
第4章 トクガワ将軍の「大政奉還」
第5章 維新政府の宣伝政策
第6章 明治憲法の成立まで
おわりに-サイゴウ・タカモリ

初出情報がないのが残念だが、いずれも「戦後」に発表されたものだ。固有人名がカタカナ書きなのは著者独自の考えによるものだが、正直いって読みにくい。 

「明治維新」というのは、ある意味では偶然の産物であって、最初から見取り図があったわけではない

きわめて複雑な政治プロセスを経ていくなかで、勢いというか流れができあがり、最終的な勝者となったマキャヴェリストともいうべき薩長勢力が、強引に武力で政権を奪取したものの、政権奪取後にはさらに試行錯誤を繰り返し下からの民衆の動きを押さえるために、上からの憲法制定に至ったというのが、著者の考えている「明治維新」なのである。 そう読み取れる。

藩主という封建諸侯による主導権争いであり、ある意味では戦国時代の再現であった。ただし、違いといえば、長州藩あるいは薩摩藩が単独で制覇できず、薩長同盟という形での制覇となったことである。

したがって、新政府が誕生した時点では、いまだ「封建制」であり(この用語の扱いは現在では慎重を要するが)、「封建制」が解消されるには「廃藩置県」まで待たねばならなかった。

著者が歴史を見る見方は、「政治道徳」にもとづくものであり、ある意味では「人としての常識」にもとづくものだ。だから、道徳的観点から、実質的に朝廷を牛耳り、正統性を担保する天皇を「玉」として扱ったことには否定的な立場になる。

また、著者の歴史に対する態度は、合理主義というか、現実主義といってもいいかもしれない。歴史をある種の特定の枠組み(フレームワーク)に当てはめたり、あるべき理想をそこに見たり、ロマンを見たりはいっさいしないのである。「身もふたもない」というのは、そういうことだ

なるほど、こんな見方や書き方では、必要以上に読者を不快にさせたであろうことは容易に想像がつく。戦前の「皇国史観」の時代にあっては、なおさらだろう。 




帯のウラには、「明治維新とは一口にいうと、薩長の輩が仕掛けた巧妙な罠に征夷大将軍がかかって了ったということである・・・」(本文より)という一節がある。つまり、「薩長史観」を否定しているわけである。

「開国」後の幕府の高級官僚たちによる開明的な政策を邪魔したのが、攘夷という妄想にもとづく志士たちのテロ行為であり、長州藩の動きだったとする。最終的に薩摩藩が長州藩と組んだことで討幕が実現したわけである。まさにその通りである。

岩倉具視や薩長関係者によるクーデターとして仕掛かけられた「王政復古イデオロギー」の虚妄性を暴き、その延長線上にあった「皇国史観」も否定しているのである。「天皇親政」という、日本史上において、ほとんど存在しない虚構を隠れ蓑にした虚偽宣伝であったのだ、という見方はその通りだろう。

さすが、先にもふれた『文学に現れたる我が国民思想の研究』(1916~1921)の著者ならではである。日本史を通観して研究して得た、日本人の天皇観を熟知している歴史家ならではである。

皇国史観の被害者ではあったが、マルクス主義者ではなかったこの歴史家は、戦前と戦後で論旨にブレがない。「津田史観」というものが存在するとすれば、それはそういうものだ。 

とはいっても、著者の立場は、旧幕寄りというわけではない。「薩長史観」が嫌いだという人が読んで、鬼の首を取ったように溜飲を下げる内容ではない。そういう観点から本書を手にとった人は失望するのではないか。

政治道徳的には否定される薩長による討幕であるが、政治におけるマキャヴェリズムという観点に立てば、ある意味では見事であるともいえる。水戸藩主斉昭の息子として生まれ育ち、尊皇姿勢を持ち続けた慶喜は、アタマの切れがすばらしかったが真情においてはナイーブに過ぎたのかもしれない。

幕府の開国政策の開明性については高く評価しているものの、廃藩置県を行って武士階級を解体した維新政府の功績についても語っている。功罪の両面について指摘しており、歴史に対して比較的フェアな態度だといえよう。 あくまでも醒めた精神の持ち主による是々非々の立場である。

とはいえ、あくまでも政治プロセスを観察した政治史であり、政治道徳の観点から「明治維新」を見たものであって、経済史や社会史の観点はいっさいない。ましてや、人物伝でもない。その意味では、面白みに欠けるものだ。 

薩長を結んだ坂本龍馬にであれ、幕府側に立った近藤勇にであれ、自分を投影して歴史上のヒーローたちを追体験したいという気分の持ち主には、不快感以外のなにものでもないかもしれない。司馬遼太郎などのヒーローものの歴史小説が大好きな人には不向きな本である。 

著者は、あくまでも戦後の1946年から1961年にかけての時点で、「明治維新」を振り返って上空から俯瞰しているのであって、その「渦中」にいた人たちには見えていなかったものを見ているのである。 

著者のように見ることのできる人は、当然のことながらリアルタイムには「明治維新」の時代には存在しなかったことに注意しなくてはならない。しかも、本書に収録された論考がは発表されてから、すでに60年以上もたっている。

歴史というものは、おなじ事実を対象に扱ったとしても、誰がどの時点で見たかによってもまた、違う絵が見えてくるものなのだ。 認知バイアスが働くからである。





PS 収録論文は、『維新の思想史』(津田左右吉、書肆心水、2013)と重なっている。こちらのほうは見ていないが、初出情報などが掲載されているのであろう。http://www.shoshi-shinsui.com/book-tsuda-ishin.htm

参考までに目次を掲載しておこう。太字ゴチックは、『明治維新の研究』(津田左右吉、毎日ワンズ、2021)とは重ならない論文である。タイトルを見れば、津田左右吉が「政治道徳」の観点から「明治維新」を見ていることがわかる。
  
幕末における政府とそれに対する反動勢力
幕末時代の政治道徳
維新前後における道徳生活の問題
君臣関係を基礎とする道義観念
明治の新政府における旧幕臣の去就
維新政府の宣伝政策
明治憲法の成立まで
近代日本における西洋の思想の移植 福沢・西・田口-その思想に関する一考察


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・・「明治維新は薩長土肥という「西南雄藩」が主導の革命だが、財政改革によって強化された経済を背景にした西日本の「人口圧力」が明治維新の主動力になったという「仮説」も興味深い(P.125)。人口が増大したのは北陸と西日本の大都市であり、同時代の関東地方や近畿地方には、そういった人口圧力は存在しないようなのだ。」


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2021年12月29日水曜日

江戸時代後期から幕末期の利根川下流域の「東総」では「平田国学」と「大原幽学の性学」は競合関係にあった


千葉県は東京都の隣にあるが、居住者や出身者のほかには意外にもあまりその内情を知られていないような気がする。 

わたし自身も京都府生まれで千葉県の出身ではないが、長年にわたって千葉県と東京都に生きてきたので、居住者としての土地勘や愛着といったものがある。 

とはいっても、関心の中心はどうしても房総半島まではあまり及んでいない。関心はもっぱら下総国(しもうさのくに)にある。律令制によって定められた下総国の国府は、現在も市川市の国府台(こうのだい)という地名で存在し、江戸川の東岸の高台に立地している。 


(下総国における葛飾郡の位置 「葛飾区史」より)

下総国を区分すると北総(ほくそう)と東総(とうそう)になる。南総(なんそう)は房総半島の上総国と安房国。わたしが現在住んでいる船橋市は「葛飾」であり、さらに限定していえば「東葛」となる。現在の東京都葛飾区だけが葛飾ではない。かつて 松戸や柏から船橋あたりは葛飾であった。真間の手児奈伝説のある市川市の真間も葛飾である。

(拡大図 同上)

■「東総」はかつて平田国学の一大中心地であった

「東総」の江戸時代後期から幕末維新に至る歴史は興味深いものがある。先にもみた利根川下流域の一帯である。ここには、「東国三社」とされる鹿島神宮・香取神宮・息栖神社鎮座まします地域。霞ヶ浦の水域でもある。 

東総が面白いのは、佐原からは日本全図を完成した伊能忠敬がでているように(・・かれは隠居後に天文学を学ぶため江戸に出た)、江戸時代においては河川物流によって栄えた地域であることだ。太平洋から銚子から利根川に入り、江戸までつながった水路は、かつてはロジスティクスのメインルートであった。 

そんな土地柄ゆえか、この地域は「平田国学」を支える重要な地域でもあったのだ。「平田国学」とは平田篤胤による国学で、幕末にかけては水戸学とならんで変革の原動力となったものだ。 


この事情については、かつて2004年に国立歴史民俗博物館で開催された「明治維新と平田国学」という企画展示で知られることになった。平田宗家から寄贈された史料を整理して展示したこの企画は、じつに素晴らしいものがあった。特別展でも取り上げられた平田国学と平田篤胤の遺品は、現在でも「常設展示」にその一部を見ることができる。 

平田国学というと、島崎藤村の『夜明け前』で知られているように、木曽路の馬籠宿がその中心であったが、東総もまた平田国学を支えた地域であったのだ。 その担い手は豪農層であった。名主や庄屋は、村を代表する存在で教育程度も高かった。しかも、この地域は消費社会化が進展していた。

一方ではこの地域には、農業改革家で教育家の大原幽学が活動した地域でもある。農業改革家としては小田原出身の二宮尊徳ほど知られていないが、「先祖株組合」という世界初(?)の農業協同組合によって地域農業立て直しを行った人物として知られている。教育家としても知られている。 

平田国学と大原幽学の性学の関係はどうだったのか、よくわからなかった。ほぼ同時期の現象でありながら、この両者が同時に論じられることがないからだ。 



興味深いことに、大原幽学と宮負定雄は、同年に生まれ同年に死んでいる。生年は1797年に生まれ、没年は1858年である。いずれも黒船来航で混乱する幕末期に生き、生涯を終えているのだ。ちなみに二宮尊徳(1787~1856)は、かれらより10年年上で、2年早く死んでいる。 

大原幽学は尾張あたりに生まれた武士だが、故あって浪人となり4000人強(!)の友人に支えられて生きてきた人だ。最終的に定住したのが東総、その土地に生まれ名主として地域のリーダーであったのが宮負定雄。大原幽学も宮負定雄も、その当時の主要産業であった農業立て直しに尽力した点は共通している。

『大原幽学と幕末村落社会-改心楼始末記』(高橋敏、岩波書店、2005)によれば、 18歳で勘当されたが、父からは「死ぬまで武士として生きよ」と言われ、そのことばを終生守りきったらしい。

大原幽学は、その教団ともいうべき集団の求心力として建設された「改心楼」が、幕府の疑惑を呼び起こして破壊された「改心楼事件」が、足かけ6年にもおよぶ江戸裁判が決着したあと自決している。

ただ一人で、見事なまでに作法に則り、介錯ないしで割腹自殺したのである!

腹を切ったあとは服装をただし、さらに短刀で喉を突き、流れ込む血を吐き捨てたあと、静かに瞑目して息を引き取ったとのことだ。介錯なしの割腹!であったことには驚きを禁じ得ない。三島由紀夫が霞んでしまう。

(大原幽学 「大原幽学記念館」のウェブサイト画像を加工)

東総の平田国学は、平田篤胤自身が二度にわたって来訪していることもあって、早い段階から門人が誕生しているが(・・船橋大神宮の大宮司も門人であったようだ)、大原幽学の盛名があがりはじめた時期に、平田国学の門人の新規加入者の動きがぱたっと止んだらしい。なるほど、両者は競合関係にあったわけである。 

平田国学が「復古神道」であったのに対し、大原幽学の性学は「儒教をもとにした通俗道徳」であった。前者は知識階層にはアピールしても、一般庶民には通俗道徳のほうがしっくりきたのかもしれない。 

(宮負定雄 『平田国学と明治維新』より)

平田国学から大原幽学に鞍替えした有力者もいたなかで、宮負定雄は平田篤胤の熱心な門人であることはやめず生涯を貫いている。名主という豪農層の出身であったが、農政家のみならず、国学者として数々の著作をものしている。柳田國男も参照している『奇談雑史』は、平田篤胤の異界研究の系譜にあるフィールドワークの成果で、ちくま学芸文庫として文庫化されており、現在でも入手可能だ。


それやこれやで書いていると長くなるので、ここらへんでやめるが、東総における平田国学と大原幽学は面白いテーマであるので、ひきつづき細々とフォローしていきたいと思っている。 

ただ残念なのは、千葉県の地方出版であった崙書房が廃業してしまったため、過去の出版物も入手困難となっていることだ。地方史をささえてきた地方出版の意味はもっとよく意識したほうがいい。 できれば、あらたに立ち上げる人が現れてきてほしいものだ。




<関連サイト>

・・宮地正人氏の基調講演「平田国学の幕末維新」ほか発表資料が Pdfファイルで読める。

「飢饉のとき餓死者を出さないように努めるのが村長の役目だと言い続けてきた下総国香取郡松沢村の名主宮負定雄が気が狂ったと一八三四年三月に手紙で気吹舎(いぶきのや)に急報した同村熊野神社の神職宇井出羽は、大原幽学の性理学に基づいた農村復興運動に参加することになりました。・・」との記述がある。

(2022年2月15日 情報追加)


<ブログ内関連記事>


・・利根川中流域の布川で、柳田國男は少年時代を過ごしている

・・平田篤胤関係の遺品の一部が常設展示されている

・・二宮尊徳は、成田山で21日間の断食修行を行っている


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2021年12月28日火曜日

書評『百姓たちの幕末維新』(渡辺尚志、草思社文庫、2017)-「百姓」抜きで幕末維新は語れないハズではないか!

 

帯の宣伝コピーにもあるように「武士だけを見ても「幕末」は見えてこない」のである! なぜなら、当時の人口の8割は「百姓」だったからだ。 

この本は、江戸時代の「百姓」研究の第一人者が、「幕末維新期の農村と農民たち」について一般読者向けに解説したものだ。とくに時代転換期に入ってきた1830年代以降の「平時の農村」と、1860年代の幕末動乱期の「有事の農村」について知ることのできる好著である。 

新選組の近藤勇や土方歳三だけでなく、「偽官軍」のレッテルを貼られて処刑された相楽総三や、もともと攘夷派であった渋沢栄一もそうだったが、豪農層出身の志士たちがいたことは、ことし2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で日本人の「常識」になったのではないかと思う。下級武士だけが「志士」となったわけではないのだ。「草莽の志士」たちである。 

もちろん豪農だけが農民ではない。江戸時代後期、とくに19世紀以降には農民層は分解し、豪農層が誕生した一方で小作人が生まれてきているように、農民層のあいだでもすでに「格差社会」が誕生していた。とはいうものの、江戸時代をつうじて、「村」を単位とした農村は百姓による「自治」が行われていたことは重要だ。 

近世に入ってから「兵農分離」によって、武士が農村から切り離されて城下に集住することとなり、それにともなって商工関係者が城下町に集められたが、それ以外の人間は一括して「百姓」として農村や漁村で生活していたわけである。村落に居住していた知識階層もまた「百姓」のなかに入っている。百姓イコール農民ではない

本書の前半では、時代転換期に入っていたとはいえ、まだまだ平和であった時代であった。その時代の「百姓」たちの日常が取り上げられ、くわしく解説されている。 

読んでいてがぜん面白くなってくるのは、後半の幕末維新という激動期に入ってからである。すでに博徒や無宿人の発生によって農村の治安状況が悪化しており、しかも「開国」による自由貿易によって物価高騰が農民を苦しめる事態となっていた。 

だが、武士は人口の1割しか占めていなかったため、武士だけではとても手が回らない状況だったのだ。そこで支配者層による「農兵」という形での組織化が、日本各地で開始されることになる。上昇志向の強い豪農層には、武士になりたいという者たちもでてくるようになる。先にあげた近藤勇や渋沢栄一などがその代表的存在だ。 

国内が内戦状態に入っていくと、長州征伐やその後の戊辰戦争においては、非戦闘員としてロジスティクスを担った「軍夫」(ぐんぷ)という形だけでなく、戦闘員としての「農兵」が戦争に投入される事態となっていった。 

内戦状態が終結し平和が回復してくると、「地租改正」が実行され、江戸時代以来の農村も「百姓」も、大いに変化を余儀なくされていったのである。身分制度が解体していっただけでなく、かつて存在した「無年季質地請け戻し慣行」は廃止され、村という単位も、長い時間をかけて崩壊していくことになる。 

この本は「幕末維新」と銘打っているので「自由民権」時代までは扱っていないが、自由民権運動の担い手は、薩長藩閥体制に不満を抱いた下級武士層だけではなく豪農層もそうであった。その意味を考えるためにも、江戸時代の「百姓」がどんな状態だったか知っておく必要がある。 

この本には、歴史的な有名人は誰ひとりとして登場しないが、読んで面白い内容の本になっている。史料にもとづいた具体的なディテールに面白さがあるからだろう。 

著者が文庫版で嘆いているように、2012年の単行本の初版から5年たっても、残念ながら「百姓」視点の幕末維新史はまだまだ少ないのが現状だ。その意味でも、この本は必読書といっていいだろう。読んでいて「百姓」にかんする「常識」が崩されていく快感(?)を覚えることになるはずだ。 




目 次
はじめに 
第1章 幕末の百姓の暮らし
 1 江戸時代の「百姓と村」
 2 出羽国の村山地方は、どんな地域だったか
 3 格差社会を生き抜く百姓たち-村山郡山口村の事例より
 4 幕末の百姓の「衣・食・住」-信濃国の事例より
 5 「村人の団結」で暮らしを守る-河内国の事例より
第2章 土地と年貢をめぐる騒動
 1 観音寺村とは、どういう村か
 2 「抜地」(ぬきち)という死活問題-観音寺村の事例より
 3 観音寺村で続発する事件
 4 抜地が招いた「年貢の滞納問題」
 5 村山郡全体に拡がる土地問題
第3章 村々が守った「定」(さだめ)
 1 近畿の百姓による集団訴訟-「国訴」
 2 村山郡の「郡中議定」では何が定められたのか
 3 郡中惣代ら村役人の活動-村山郡の場合
第4章 農兵と百姓一揆
 1 百姓たち、「農兵」となる
 2 百姓一揆の実像
 3 村山地方の大規模一揆「兵蔵騒動」とは
 4 兵蔵騒動とは何だったのか
 5 兵蔵騒動で揺れた観音寺村のその後
第5章 百姓たちの戊辰戦争
 1 幕長戦争の勝敗を決めたのは「百姓」だった
 2 東北戦線における百姓たち-『戊辰庄内戦争録』より
 3 「農兵」として戦った百姓たち-『戊辰庄内戦争録』より
第6章 明治を迎えて
 1 土地をめぐるせめぎ合いは続く-村山地方と天草地方の事例より
 2 地租改正が村に与えた影響-関東の事例より
 終章 百姓にとって幕末維新とは何だったのか
おわりに
あとがき
文庫版あとがき
参考文献


著者プロフィール
渡辺尚志(わたなべ・たかし)
1957年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。国文学研究資料館助手を経て、現在、一橋大学大学院社会学研究科教授。今日の日本の礎を築いた江戸時代の百姓の営みについて、各地の農村に残る古文書をひもときながら研究を重ねている。著書に『百姓たちの幕末維新』『武士に「もの言う」百姓たち』(いずれも草思社)、『百姓たちの江戸時代』(ちくまプリマー新書)、『東西豪農の明治維新』(塙書房)、『百姓の力』『百姓の主張』(柏書房)などがある。


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2021年12月25日土曜日

幕末の志士たちが掲げたスローガン「盡忠報國」は12世紀の中国生まれのフレーズだ

 
幕末の志士たちがスローガンとして掲げていた「尊皇攘夷」(あるいは勤王攘夷)についてはよく知られている。 

だが、「尊皇攘夷」と並ぶもう一つのスローガンはあまり知られていないかもしれない。それは「尽忠報国」だ。正字体では「盡忠報國」となる。 

いまから15年以上前のことだが、大陸中国の浙江省の杭州にいったことがある。広州ではなく杭州だ。中国ビジネスがらみの日本人は、区別するために「くいしゅう」のほうだという。いわゆる江南、つまり長江(=揚子江)の南側に拡がる地域である。

(杭州の位置 google map による)

杭州は、上海からやや内陸に入った、西湖で有名な地方都市だ。現代なら中国を代表するIT企業アリババ(Alibaba)の創業者ジャック・マー(=馬雲)の出身地といったほうがわかりやすいかもしれない。 


杭州にいった際、ついでに観光で訪れた「岳王廟」で驚いたのだ。

岳王廟とは、南宋時代(12世紀)の武将・岳飛を祀った廟だが、そこに「盡忠報國」の4文字を見いだしたからだ(上掲の写真)。 

そうか、「尽忠報国」(=盡忠報國)は、幕末の志士が考え出した用語ではなかったのだな、と。現代でも中国人が尊敬して愛してやまない愛国の英雄・岳飛(がくひ)にまつわる故事から生まれたフレーズだったのだ。 


漢学の素養を欠いた世代に生まれたわたしは、自分の無知蒙昧ぶりには恥じ入るばかりである。まだまだ勉強しなくてはならないことが多いと痛感するばかりだ。 





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