伊東深水といえば美人画。着物姿の日本美人を描いた日本画家というのが、わたしのもっていたイメージだった。
それまでまったく知らなかったのだが、先週のこと三菱一同館美術館で開催されている「浮世絵トワイライト新版画 ― 小林清親から川瀬巴水まで」を観覧して、伊東深水が新版画作家でもあることを知った。そうだったのか、美人画だけではないのだな、と。
先日たまたま instagram の投稿をみていたら、この企画展「市川市収蔵作品より 伊東深水 南方風俗・1943」のことを知った。伊東深水が南方でスケッチしてるとはまったく知らなかった。
Wikipediaで伊東深水の項目を読むと、「1943年(昭和18年)、召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする。」とあった。作家だけでなく、画家もまた戦地に派遣されていたのか。
今回の企画展は、市川市の「芳澤ガーデンギャラリー」での開催だという。芳澤なんて名前がついているから個人ギャラリーのようだが、名前の由来は「享保年間から市川市真間で地域文化の発展に寄与してきた石井家が営んでいた文房具・書店「清華堂」の屋号「芳澤」にあるのだそうだ。2004年に開館したこのギャラリーは、市川市が所有し運営しているとのこと。
今回の企画展は、市川市がインドネシアのスマトラ島にあるメダン市と姉妹都市の関係にあることから、伊東深水の「南方風俗スケッチ」のうち271点を収集し所蔵しているからとのこと。
市川なら船橋から近いではないか。芳澤ガーデンギャラリーはその存在は前回の市川散策でその存在を知るにいたったが、スルーしていたのだった。では、今回は行ってみようと思った次第。
■なぜか懐かしい気持ちになる1943年当時のインドネシア
伊東深水は、ジャワ島だけでなく、スラウェシ島(=セレベス島)やボルネオ島など大きな島だけでなく、バリ島まで訪問しており、シンガポールにも足跡を記している。
スラウェシ島の「トラジャコーヒー」のコーヒー農園まで訪問して、彩色のスケッチを残している。
バリ島では「キンタマニ」*まで訪問していることが今回わかった。「キンタマニ展望台 バトール火山活火山」」というスケッチを残している。この地名が伊東深水の笑いを誘ったとに違いない、そんな想像をしてみるのも楽しい。
*キンタマーニ(Kintamani)は、インドネシア・バリ島北東部のバンリ県にある標高約1,500mの高原地帯にある村。活火山のバトゥール山とバトゥール湖がつくる雄大なパノラマ絶景で知られる人気の観光エリアとのこと。気候は涼しく、コーヒーの産地でもあるそうだ。
かつて1995年頃だったと思うが、自分もジャワ島にはいったことがあるので、懐かしい思いがした。そのときはジャカルタやジョグジャカルタまで行っている。ジョグジャカルタは世界三大仏教遺跡のボロブドゥールで有名だが、なぜか伊東深水のスケッチにはボロブドゥールがない。
伊東深水のスケッチは、デッサン力が確かなことはいうまでもないが、あらゆるものに好奇心をそそいでスケッチとして記録しようという画家のマインドが感じられた。
■なぜ美人画家の伊東深水が「海軍報道班員」としてインドネシアに派遣されたのか?
伊東深水にかんしては、 wikipedia のインドネシア語版(Bahasa Indonesia)で Shinsui Itō もあって、以下のような記述がある。
Pemerintah Jepang merekrut Itō untuk memproduksi seni propaganda selama Perang Pasifik. Selama periode itu, ia berhasil menyelesaikan 3000 sketsa sepanjang perjalanannya ke berbagai pulau di Pasifik Selatan dan Hindia Belanda yang diduduki Jepang.
Google で自動翻訳にかけると、以下のような日本語文となる。修正後の訳文を以下に示しておこう。
伊藤は太平洋戦争中、日本政府からプロパガンダ画の制作を依頼された。この期間、彼は南太平洋の様々な島々や日本占領下のオランダ領東インド諸島を旅し、3000点ものスケッチを完成させた。
伊藤は伊東の間違いであるが、ローマ字からも漢字変換でミスが出るのは仕方あるまい。確率論がベースの自動翻訳であるから。また、こちらではスケッチは3000点となっているが、これは記載ミスであろうか。
また、「日本占領下のオランダ領東インド諸島」という表現にかんしては、1942年(昭和17年)3月に日本軍が占領してオランダを追放、1945年8月の敗戦まで軍政を敷いていた。今村均大将が軍政のトップにいたことも幸いしていたのかもしれない。
ノンフィクション作品の名作『責任 ラバウルの将軍今村均』(角田房子、新潮文庫、1987)がいま手元にないので、今村均にかんするWikipediaの記述から引用しておこう。
オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放して資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。
ジャワ島やスラウェシ島などの現地人の生活を描いた作品が、戦意高揚につながったとは思えないが、日本の軍政下で平和な暮らしが可能になったという宣伝活動にはつながったことだろう。
基本的に善政が敷かれていたことは、上記の通りであるが、もちろん個人レベルでは異なる待遇もあったことは否定できない。、『西欧の植民地喪失と日本 ― オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)や『五十年ぶりの日本軍抑留所-バンドンへの旅-』(F・スプリンガー、近藤紀子訳、草思社、2000 原著出版 1993)などを読むと、個人レベルではかならずしもそうでなかったこともわかる。
たまたま読んでいた『東京美術学校物語 ― 国粋と国際のはざまに揺れて』(新関公子、岩波新書、2025)の「第12章 戦時下の東京美術学校とその終焉」に、「戦時下の画家たち」が迫られた生き方について触れられている。
従軍戦争画家になるか否かは自分の意思よりも、そのときの社会的地位と年齢、それに描写力の有無による。2、30代は才能の有無にかかわらず戦闘員、4、50代は従軍画家、6、70代以降は銃後にあって「民族の気概」や「国土の美や文化的優越」を描く。
当時の日本画界の頂点に立っていた横山大観(1868~1958)についての以下の記述も、1943年当時45歳であった伊東深水(1898~1972)が、なぜ「海軍報道班員」として現地に派遣され、けっして戦意高揚には直接つながらないようなテーマで描くことが許されていたか、その理由を考えるヒントになるだろう。
優れた画家はすぐれた言語感覚の持ち主であることも多い。何を描くべきかは言語によって考えるからであろう。大観の言語能力は(・・・中略・・・)「彩管報国」という四文字熟語の創出こそは、その最高の表現はないかと私は思う。(・・・中略・・・)戦争に燃える若さのない大観が美術界の頂点にたったことは、日本美術界の幸運だった。(・・・中略・・・)
「国体の精華」をしか描かないと決めている大観は、昭和19年の「文部省戦時特別美術展覧会」において、具体的な戦争主題に加えて、美しい日本の風景や国民生活を明朗闊達ならしめ戦意の昂揚に資するものならなんでもよいとする、いたって緩やかな規制を情報局に打ち出させたのではないか。先に紹介した14の課題は、とても情報局独自の考えとは思えないので、私は大観がそのように情報局を誘導した 推定する。その結果、美人画でも花畑でもお芋ほりの図でも許されたのだった。
「美人画でも許された」とは、まさに美人画家の伊東深水もその一人であったということなわけだ。
そして、「美人画」以外の画題でもあった、占領下の現地人の日常生活がスケッチとして残されることになったわけなのだ。
戦時中の従軍画家については、もっと知りたいと思う。従軍画家についてはある種のタブー視がされているためだろうか、なかなか表だって評価の対象となっていないのではないかという印象をもっている。
従軍作家の作品については、林芙美子や井伏鱒二のものなど、中公文庫が中心になって復刊が行われているのだが・・・
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・・『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』の2年後に日本で翻訳出版された。ともに健忘症の日本人への警鐘と受け取りたい。
・・「第二次大戦中、軍属として「海軍」に徴用され、インドネシアのジャカルタで通訳官として海軍に勤務していた鶴見俊輔の「お守りことば」というフレーズを紹介してある
・・村上一郎の東京商大時代の高島善哉ゼミの先輩であった社会科学者の水田洋は、戦時中は「陸軍」軍属としてジャワ島に駐在、その地でのちに翻訳を完成させることになったホッブスの『リヴァイアサン』の原本を入手したことが、『ある精神の軌跡』(水田洋、現代教養文庫、1985)に記されている。Wikipedia情報には「1942年東亜研究所入所。戦中は大日本帝国陸軍軍属として帝国陸軍南方軍第16軍(ジャワ軍政監部)調査室で農村事情の調査を行う。戦後、日本降伏交渉の通訳として訪れたスラウェシ島で8ヶ月の捕虜生活を経て・・」と書かれている
・・著者は最終的にオランダ領東インド陸軍植民地軍に投降して武装解除され、無事帰国することになった。インドネシア独立戦争においてオランダ軍がふたたび再上陸するが、最終的に1949年にオランダは撤退する
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■現代インドネシアと日本との関係
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