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2021年11月30日火曜日

書評『「論語と算盤」 渋沢栄一と二松学舎 - 山田方谷・三島中洲から渋沢栄一への陽明学の流れ』(学校法人二松学舎編、朝日新聞出版、2021)-なるほど渋沢栄一は「陽明学」の影響を受けていたわけだ

 
2021年度のNHK大河ドラマ「青天を衝け」も終盤に入ってきたいま、こういう機会を逃すのはもったいないので、つい最近知ったばかりの『「論語と算盤」 渋沢栄一と二松学舎 - 山田方谷・三島中洲から渋沢栄一への陽明学の流れ』(学校法人二松学舎編、朝日新聞出版、2021)という本を読んだ。  

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一だが、教育事業に大きく関与していることは、その学校の関係者ならよく知っていることだろう。主要なものとして一橋大学、日本女子大学、そして二松学舎大学がある。いずれも渋沢栄一が大きく関与して、現在につながっている大学だ。 

自分自身は一橋大学の関係者だがが、二松学舎大学の関係者ではない。にもかかわらず、この本はじつに面白かった。 この本を見つけて読んだのはじつに正解だった。

というのは、「論語と算盤」で有名な渋沢栄一の「道徳経済合一説」は、二松学舎の創設者で陽明学者の三島中洲の「義利合一論」と密接な関係があることが本書で示されているからだ。ここでいう「義利」とは「義理」のことではなく、儒教の徳目である「義」と「利」の組み合わせである。

どちらが先行しているかはわからないが、「道徳経済合一説」と「義利合一論」は、互いに影響を与えながらシンクロし、共鳴しあって育っていった思想である。このことが説得力をもって語られている。 

備中松山藩で藩政改革を主導した陽明学者・山田方谷(やまだ・ほうこく)の弟子であった三島中洲水戸学の影響下にありながら陽明学の大きな影響を受けていた渋沢栄一。山田方谷は、長岡藩の河井継之助がその下で学んだことでも有名だ。 司馬遼太郎の歴史小説『峠』の読者なら知っていることだろう。

渋沢栄一と三島中洲の二人は、ともに富農出身で漢学の素養も深かった

だが共通点は、それだけでなかった。それぞれ、渋沢栄一は西欧文明のなんたるかをフランス滞在中に肌身をつうじて感じ取って帰国後には大蔵省で仕官し、三島中洲は語学はできなかったものの司法省でフランスの法学者ボワソナードのもとで民法典の編纂に従事していた。
 
共通の友人(=玉乃世履 たまの・せいり)をつうじて若き日からの知り合いであった。 渋沢栄一は、三島中洲の私塾であった漢学塾・二松学舎の経営を引き継いでいる。

陽明学者・山田方谷の弟子である司法官・三島中洲が唱えていたのが「義利合一説」。実業の世界での渋沢栄一への陽明学の実践。この両者が互いに影響し合い、かの有名な「道徳経済合一説」が生まれたわけである。 

なるほど、そういう流れがあったわけかと大いに納得する。

陽明学というと、三島由紀夫や彼が礼賛する大塩平八郎や、大塩の影響を受けた西郷隆盛などが連想されるが、「知行合一」といっても革命の実践だけが実践ではない経済や財政における「知行合一」の実践もまたきわめて重要なのである。 

むしろ、後者の経済や財政のほうが重要といえるだろう。なぜなら、人間生活においては有事よりも平時のほうがはるかに時間的なウェイトが大きいからであり、なんといっても経済のもつ意味合いは政治よりも大きい人の上に立つリーダーとして心しなければならない重要事項である。

タイトルだけみたら、二松学舎の関係者ではない自分が手に取ることはまずなかっただろうが、読んでみてこれは予想外に良書であることがわかった。思わぬ収穫であった。 

読みやすく、内容がよく整理され、かゆいところにも目配りきいた新書サイズの本である。関心のある人にはぜひ薦めたい1冊だ。 




目 次 
刊行に寄せて 
プロローグ 『論語と算盤』の絵と由来
第1章 山田方谷-幕末の大改革者
 1. 山田方谷とは
 2. 山田方谷の改革
 3. 山田方谷の改革の評価
 4. 幕府瓦解と備中松山藩
第2章 三島中洲-漢学者・漢学塾二松学舎の創設者
 1. 明治維新以前
 2. 裁判官・法学者としての三島中洲
 3. 二松学舎の創設
 4. 二松学舎創設期の門人
第3章 渋沢栄一-資本主義の父は「社会福祉事業の父」でもあった
 1. 富農階級出身の渋沢栄一
 2. 一橋家とのかかわり
 3. 官吏として資本主義のインフラを整備
 4. 実業家、渋沢栄一の誕生
第4章 山田方谷・三島中洲・渋沢栄一の思想-陽明学の系譜
 1. 山田方谷と陽明学
 2. 三島中洲と渋沢栄一の邂逅
 3. 三島中洲の「義利合一論」と渋沢栄一の「道徳経済合一説」
 4. 利益追求と道徳律の両立
 5. 西欧ではどう考えられてきたのか
 6. 「道徳経済合一説と「義理合一論」の現代的意味
第5章 山田方谷・三島中洲・渋沢栄一-三人の絆
 1. 山田方谷・三島中洲の故郷岡山県と二松学舎との絆
 2. 渋沢栄一恩顧の大学のつながり
エピローグ
結びに
主な参考文献


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(2021年12月4日 情報追加)


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2021年11月29日月曜日

書評『世渡りの修養 処世訓言集』(渋沢栄一、徳間書店、2021)-「論語と算盤」の渋沢栄一はフリーメーソンを評価していた!

 
今年2021年4月に国立歴史民俗学博物館にいったとき、たまたまミュージアムショップで見つけて購入した『世渡りの修養 処世訓言集』(渋沢栄一、徳間書店、2021)を読んでみた。晩年の渋沢栄一が講演などで語った内容を1冊にまとめたものだ。  

『世渡りの修養』は、1918年の出版、『処世訓言集』は、1929年の出版。徳間書店版には編集の手が加わっているとはいえ、いずれも100年近く前のものなので、正直なところやや読みにくいのは否定できない。 

内容は、渋沢栄一の持論である「道徳経済合一説」にもとづいたものいわゆる「論語と算盤」である。いろんなところで語った講演を集めたものなので、内容的に繰り返しが多いが、渋沢栄一のナマの語り口を味合うことができる。 

面白いのは、「論語と算盤」というフレーズだが、本格的に意識して覚悟を決めたのは、明治6年(1873年)に大蔵省を辞職し、完全に民間人としての後半生のスタートを切ったときのことだと本人が述べていることだ。 

もちろん、論語をはじめとした儒教の古典を素養として身につけていた渋沢栄一だが、実業家として生きるにあたって自分のバックボーンになるものはなにかとあらためて考えたときに、仏教でも神道(≒国学)でもなく、儒教(≒論語)だとしたのは、たまたま自分はそういう人生を送ってきたからだと語っていることだ。けっして「論語先にありき」ではないのだ。 明治6年の自覚から始まったのである。

だから、講演のなかで聴衆に向かって、自分の場合は儒教だが、自分以外の人にかんしては儒教でもキリスト教でもいいのだと明言しており、かならずしも儒教にこだわっているわけではない。その点は、本質論を押さえたうえでの謙虚で誠実な態度というべきだろう。 


■米国人実業家のバックボーンであったフリーメーソンを評価

人から薦められて「新訳聖書」も読んでみたと語っている

その話のからみで、交流のあった米国の実業家が「フリーメーソン」の会員であると聞いて、自分でもその内容について調べてみたらしい。「精神の真修養法」にでてくる話だ。結論としては、フリーメーソンの説くところと儒教の教えには共通性があると言う。

フリーメーソンは日本ではまだまだ誤解されているようだが、歴史的な経緯はさておき、現代においては、慈善活動に力点をおいた、ある種の修養団体だといっていい。フリーメーソン会員になることは、米国社会では名士と見なされることでもある。

なるほど、自分のなかに確たる「原理原則」(プリンシプル)をもっている人は、他者の教えに対しても柔軟な姿勢を示すことができるわけだ。 


■若き日の情熱を否定しない

そんな渋沢栄一だが、若き日の幕末に「攘夷家」であったことを、後年に至っても、けっして全面否定しているわけではない。「国民将来の覚悟」にでてくる話だ。 

幕末の日本で教師として越前藩に滞在していた米国人ウィリアム・グリフィスが、渋沢栄一が使節団を率いて明治42年(1909年)に米国を訪問した際、その歓迎式典で述べた内容に対する反論だ。 

反論の主旨は、たまたま開国当時の米国に日本侵略の意図がなかっただけで、その当時においては、異国に対して「攘夷」の姿勢をとることは、けっして間違っていたわけではないのだ、と。 大英帝国もフランスもまたアジアで植民地を拡大する最中であったことは、当時の日本人には周知の事実であった。

渋沢栄一は、最後の最後までナショナリストであったというべきであろう。確固たる自信をもつナショナリストだからこそ、国際人となりうるのである。

理想肌で血の気の多い人だったことはたしかだが、たとえ外国人であっても言うべきことは言うという姿勢が好ましい。それこそ国際人というものだ。 たとえ通訳を介してであっても、自己主張はしなくてはならないのである。
  

「古人の後を求めず、古人の求めたる所を求めよ」

講演集なので、おなじ話が何度も繰り返されていたり、やたら難読漢字が多い(・・ただし編集部によってルビがつけられ、意味も解説されている)し、この本を読んでも、100年後に生きる読者にとっては、すべてが直接役に立つとは思わない。 

とはいえ、肉声で語る生身の渋沢栄一が感じられて面白い本である。渋沢栄一を無批判的に礼賛するのではなく、彼が生きてきた時代のなかで理解することが重要なのだ。 

大事なのは、「古人の後を求めず、古人の求めたる所を求めよ」(芭蕉)である。 渋沢栄一の人生の軌跡をたどって、教訓として受け取るべきものは受け取って自分の人生に活かすこと。それが重要なのである。取捨選択するのは、あくまでも読者自身である。




<関連サイト>

・・1918年刊の原文。旧かな旧字体で読みにくいが口語体

(2022年7月25日 項目新設)


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・・フリーメーソンについて解説


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2021年11月28日日曜日

書評『渋沢栄一伝』(幸田露伴、岩波文庫、2020)ー 江戸っ子だった明治の文豪が書いた渋沢栄一伝

 

『渋沢栄一伝』(幸田露伴、岩波文庫、2020)をスキマ時間をつかって断続的に読む。昨日読了。  

明治を代表する文豪・幸田露伴が渋沢栄一の伝記を書いていたことは、この文庫本が昨年出版されるまでまったく知らなかった。原本は、1939年の出版。頼まれて執筆を引き受けたのだという。 

さすが漢文漢籍の豊かな素養の持ち主であった幸田露伴のものだけに、格調が高い名文だが、難読漢字のオンパレードである。だが、漢字にはルビが振られているので心配無用だ。文脈に沿って意味を取れたらそれで十分だろう。ただし、小見出しもなく、行替えが極端に少ないのが問題ではある。 

渋沢栄一がつくった漢詩を引きながら、漢詩に託された真情を描けるのも、明治の文豪ならではだろう。ちなみに、渋沢栄一(1840~1931)は幸田露伴(1867~1947)より27歳年長である。約1世代の違いとなる。 

渋沢栄一には、みずからが語って口述筆記でまとめられた『雨夜譚(あまよがたり)』という自伝がある。語り口の面白さもあって読ませる本なのだが、自伝ならではの問題点もある。記憶違いや、都合の悪い話は省略してしまう傾向があることだ。  

この点にかんして露伴は、執筆の最中にこう語っていたという。 文庫解説から引用しておこう。

今までもらっている資料も、若い頃のものはいいが、晩年のは渋沢が自分で話したことが主になっているから、人間六十を過ぎると確なようでも、どうもひとりよがりになり勝ちなものさ

さすが『努力論』など人生論も書いている、人生の大家ならではの洞察力だ。

渋沢栄一を称賛することを期待しているはずの依頼主に忖度することなく、資料にもとづいて、事実を事実として淡々と記しながらも読ませる伝記になっているのは、さすがに見事な筆力だと大いに感心するものがある。

小説家の露伴ではあるが、想像力を膨らませて小説にすることなく、随筆的に取り組んだという。おなじく明治の文豪であった 森鴎外的にいえば「歴史其儘(そのまま)」というやつだろうか。

露伴は、渋沢栄一は「むしろ時代の児(こ)として生まれたと云った方が宜しいかとも思われる」と書き、この姿勢を最後まで一貫させている。 まさに時代が生み、時代が育て、時代を切り開いたのが渋沢栄一であった。これまた、見事な歴史把握であり、歴史解釈であるというべきだろう。 

事実を淡々と記したこの伝記だが、読んでいると「江戸っ子・露伴」の旧幕への感情がにじみ出ているのが垣間見られて面白い。栄一が仕えた一橋慶喜との関係だけでなく、慶喜とのあいだをつないだ平岡円四郎の取り上げ方に、それがよく現れているのだ。 

幕末から明治維新までの激動期を生き抜いて「日本資本主義の父」となった渋沢栄一。「時代の児」であった渋沢栄一という傑出した人物を描くことは、いっけん断絶しているとみえる明治維新前後の時代を、じつは連続したものと捉えることを可能にしているのである。 

NHK大河ドラマ「青天を衝け」も終盤に入ってきたが、この本でその復習をしてみるのもいいかもしれない。 時代が現代に近いだけに、今年2021年の大河ドラマは脚色がありながらも、かなり歴史的事実に忠実に描いているだけではない。 

渋沢栄一を描くことは、「最後の将軍・慶喜」を描くことであり、「薩長中心史観」へのアンチテーゼにもなっているのである。 

大河ドラマの放送にあわせて初めて文庫化された作品だが、意図せず時代の空気の変化を反映しているのかもしれない。 文庫版につけられた「人名解説」が索引の役割も果たしているので、一粒で二度おいしい本になっている。




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2021年11月24日水曜日

太宰治の『人間失格』における「世間」と「世の中」 についてー主人公はいかにして「視線恐怖」(=対人恐怖)を克服したのか

 
昨日のことだが、丸善のリアル店舗でレジ待ちをしているときに目に入ってきたのがこのトートバッグ(上掲の写真)。 

おお、『人間失格』ではないか! いったい何度繰り返し読んだことか、この本は。これはいい! 

税込み165円なら安いので即購入することに決定。トートバックに購入した本をいれてもらって帰宅した。

*** 

このトートバッグに引きつけられた理由は、「世間というのは君じゃないか」というフレーズが印刷されていたからだ。

そうか、太宰治は『人間失格』でそんな発言を主人公にさせていたのか! と。

帰宅してから、さっそく『人間失格』をチェックしてみることにした。

発表からすでに70年以上もたっているので著作権は切れているから、ネット上に無料公開されている「青空文庫」の出番だ(・・逆にいえば、そんなに昔の本なのに、いまだに読み続けられているというのもスゴイことだ)。

電子化されていることのメリットは、なんといっても検索できることにある。

「世間」で検索すると全部で28箇所あった。

「世間」ということばが連続して登場する場面があるので、まとめて取り出してみよう。


 「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、  
「世間というのは、君じゃないか」 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。 
 (それは世間が、ゆるさない)
 (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
 (そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ) 
 (世間じゃない。あなたでしょう?)
 (いまに世間から葬られる)
 (世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?) 
 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、 「冷汗、冷汗」 と言って笑っただけでした。 
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。 そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。 ・・・


「世間」は、一般に「世間の目」というフレーズで使われることも多い。いわゆる「視線恐怖」の原因である。「対人恐怖」である。

主人公は、「世間とは特定の個人のことだ」と認識することで、「視線恐怖」(=対人恐怖)から逃れるすべを身につけることができるようになったようだ。


 世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称ていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋(オーシャン)は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。
 高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド・バアのマダムに、
 「わかれて来た」
 それだけ言って、それで充分、つまり一本勝負はきまって、その夜から、自分は乱暴にもそこの二階に泊り込む事になったのですが、しかし、おそろしい筈の「世間」は、自分に何の危害も加えませんでしたし、また自分も「世間」に対して何の弁明もしませんでした。マダムが、その気だったら、それですべてがいいのでした。
 自分は、その店のお客のようでもあり、亭主のようでもあり、走り使いのようでもあり、親戚の者のようでもあり、はたから見て甚だ得態の知れない存在だった筈なのに、「世間」は少しもあやしまず、そうしてその店の常連たちも、自分を、葉ちゃん、葉ちゃんと呼んで、ひどく優しく扱い、そうしてお酒を飲ませてくれるのでした。
 自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。・・・


「世間」について見ていくと、「世の中」という類似語が登場してきた。「世の中」で検索すると17箇所みつかった。

「世間」と「世の中」は似ているが、ニュアンスの違いだけでなく、意味の違いもあって使い分けられていることがわかる。よく読んで確かめてみてほしい。

「世間」は具体的に想定できる範囲の人間関係であるのに対して、「世の中」は不特定多数の人間が構成している人間集団全体をさしていることがわかる。ただし、前者においても、後者においても、その範囲は漠然としていて明確な輪郭をもっているわけではない

集合論的にいえば、「世間」は「世の中」に包含されていることになる。具体的な人間関係は、不特定の人間集団より小さいのは、当たり前といえば当たり前だろう。

ついでに、その他の関連語もみておこう。「世渡り」は4箇所だ。

かつて、『世間論』において、阿部謹也先生によって「世間」と対比的に説明された「社会」は、『人間失格』では 0箇所である。つまりただの1回も出てこないのだ。

資産家の息子として、帝大の大学生時代に「社会主義」にかぶれて左翼活動にかかわった太宰治であっても、最後の長編小説となった『人間失格』(1948年)においては、面白いことに「世間」はでてきても「社会」はまったく出てこないのだ。


トートバッグから始まった「世間」への関心の再発。こういう偶然のキッカケでいろいろ調べてみえるのも面白い。165円の出費が、思わぬ副産物をもたらしてくれたわけだ。




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2021年11月23日火曜日

書評『ない仕事の作り方』(みうらじゅん、文春文庫、2018)-笑わせながら本質に迫る内容のビジネス書

 
 『ない仕事の作り方』(みうらじゅん、文春文庫、2018)をようやく読んだ。リアルタイムでみうらじゅんのファンであれば当然だが、そうでなくても読む価値のある本だ。 

単行本がでたとき読もうと思いながらも、タイミングを失していた。文庫化されてもまたタイミングを失し・・。昨日、書店の店頭で見て即購入。面白いのですぐに読んでしまった。*

*(注) これは6月4日時点の話。この投稿はFBで最初に公開したものを加筆修正したもの

「ない仕事」を「作る」ということは、むずかしく言い換えれば「市場創造」ということになる。個々のアイテムとしては世の中には存在しているのだが、それをまとめてカテゴライズしてコンセプト化し、記憶に残るネーミングによって1つの「市場」を浮上させる。 

みうらじゅんが作りだして、もっとも有名になったのが「マイブーム」と「ゆるキャラ」だろう。すでに市民権を得ており、だれが最初に言い出したのかさえわからなくなっているほどだ。 固有名詞の普通名詞化である。

この本で、その手の内をぜんぶさらけ出してくれているだけでなく、糸井重里とのスペシャル対談もいい。みうらじゅんの発言にも、糸井重里の発言にも、なかなか含蓄のあるものがあって読ませるものがある。 

よくできたビジネス書として読むのもいいかもしれない。 




目 次 
第1章 ゼロから始まる仕事-ゆるキャラ
第2章 「ない仕事」の仕事術
第3章 仕事を作るセンスの育み方
第4章 子供の趣味と大人の仕事-仏像
スペシャル対談 糸井重里×みうらじゅん I don't believe me. 

著者プロフィール
みうらじゅん
1958年京都市生まれ。武蔵野美術大学在学中に漫画家デビュー。以来、漫画家、イラストレーター、エッセイスト、ミュージシャンなどとして幅広く活躍。1997年、造語「マイブーム」が新語・流行語大賞受賞語に。2005年、日本映画批評家大賞功労賞受賞。2018年、仏教伝道文化賞沼田奨励賞受賞。興福寺「阿修羅ファンクラブ」の会長。音楽、映像作品も多数ある。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)


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2021年11月22日月曜日

映画『ジョーカー』(2019年、米国)-まさに現在、米国だけでなく、日本でも韓国でも、世界中のどこでも進行している事態をドラマ化した作品だ

 
「あなたが興味ありそうな映画」だと amazon が薦めてくるので、『ジョーカー』(2019年、米国)を見ることにした。日本でも大ヒットして話題になっていた映画だ。だが、視聴するつもりはなくシカトしてきたのだったが・・・ 

ちょうど先日(10月31日)には、東京の私鉄の列車のなかで「ハロウィーンの惨劇」が起こされたばかりだ。現行犯逮捕された若者は、この映画に影響を受けているという報道がされていた。 そういうことであれば、見ないわけにはいくまい。

視聴してみての感想は、「バットマンの登場人物ジョーカーの誕生物語」という枠組みで捉える必要はまったくない、ということだ。 


介護が必要な母親と二人で大都会に暮らす心優しき青年アーサー。コメディアンを目指して孤軍奮闘するものの、なにをやってもうまくいかない。大きな挫折と耐えがたいまでの屈辱。まったく癒やされることのない非条理。超格差社会の底辺でもがくアーサーは、精神的に病んで疲弊し、不満が鬱積していく。そして、ついに閾値を超えた鬱積が列車内で爆発し、暴走が始まる。

アーサーは主人公の名前で固有名詞だが、みずからをジョーカー(Joker)と名乗りを変えることで普通名詞の存在となる。いうまでもなくジョーカーはトランプに登場する道化だ。しかも攻撃的道化である。心優しきピエロは、攻撃的なジョーカーに変貌する。

この名乗りが意味しているのは、バットマンの登場人物ジョーカーという特異なキャラクターは、けっして唯一無二の存在ではないということだ。いくらでも模倣者を招き寄せ、再生産されていく普通名詞の存在なのだ。

まさに現在、米国だけでなく、日本でも韓国でも、世界中のどこでも進行している事態をドラマ化した作品というべきなのだろう。 だから、この映画は「バットマンの登場人物ジョーカーの誕生物語」という枠組みで捉える必要はまったくない

見終わってもカタルシスをまったく感じない映画。おそらく、多くの視聴者にとってはそうだろう。従来のハリウッド的ハッピーエンドとは無縁の世界。ある種の感情が澱のように内面にたまっていくのを感じる。

カタルシスを感じるのは主人公アーサーと、ルサンチマンを鬱積させている民衆だけだろう。もちろん、主人公のアーサー(=ジョーカー)に感情移入できる無数の人びとがいる。もしかすると、無意識レベルでは自分もまたそうかもしれない・・・

そして現実は虚構を模倣し、ルサンチマンは解消されることなく社会に鬱積していく・・ 

そしてアタマのなかをフランク・シナトラの That's Life(それが人生ってものだ)が鳴り響きリフレーンする。この曲はこの映画のテーマソングといってもいい。


歌詞を引用しておこう。英語としてはやさしいので訳はつけないが、人生の浮き沈みを歌った内容の歌詞だ。


That's life (That's life), that's what all the people say 
You're riding high in April, shot down in May
But I know I'm gonna change that tune
When I'm back on top, back on top in June
I said, that's life (That's life), and as funny as it may seem
Some people get their kicks, stompin' on a dream
But I don't let it, let it get me down
'Cause this fine old world, it keeps spinning around

 [Chorus] 
I've been a puppet, a pauper, a pirate, a poet, a pawn and a king
I've been up and down and over and out, and I know one thing
Each time I find myself flat on my face
I pick myself up and get back in the race

That's life (That's life), I tell ya, 
I can't deny it I thought of quitting, baby
But my heart just ain't gonna buy it
And if I didn't think it was worth one single try
I'd jump right on a big bird and then I'd fly 

[Chorus] 
I've been a puppet, a pauper, a pirate, a poet, a pawn and a king
I've been up and down and over and out, and I know one thing
Each time I find myself laying flat on my face



「pで始まる普通名詞」がたたみかけるように歌われる。pawn とはチェスのコマのことだ。pawn と king が対比的に使われることが何を意味しているか説明する必要はないだろう。

また、映画のなかで流される Send In The Clowns(道化師を呼べ)もまたシナトラの曲である。




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