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2018年2月28日水曜日

書評 『彦九郎山河』(吉村昭、文藝春秋、1995)-「戦前」は賞賛され「戦後」は否定され忘却された高山彦九郎という人物を現代に蘇らせる


高山彦九郎といっても、いまの世で知る人はあまりいないかもしれない。日本史の教科書に大きく登場する人物ではないからだ。

京都御所にむかって土下座して拝礼する高山彦九郎の銅像が、京都の三条大橋の袂にいまでも設置されている(・・筆者撮影の写真)。

「王政復古」を願った狂信的な尊皇派というイメージが出来上がっているが、この人はいったいなにをした人なのか、わたしも名前だけは知っていたが、じつはよく知らなかったのだ。

(京都の三条大橋の東岸にある高山彦九郎の銅像 筆者撮影)

高山彦九郎といえば、「戦前」の「皇国史観」の時代には尊皇の心深き人として、その名を知らぬ者はいない存在であった。だが、「戦後」になってから、いっさい顧みられぬ存在になってしまい、高山彦九郎について書かれた本は戦後には皆無に近い。

歴史小説家・吉村昭氏に『彦九郎山河』(文藝春秋、1995)という小説があるのを知ったのは5年ほど前のことだ。歴史小説ではあるが、高山彦九郎について知るには、この本を読むのがよかろうと思って入手しておいたのであった。高山彦九郎は、ずいぶん以前から気になる人物であったからだ。

『翔ぶが如く』をいま読んでいるのだが、その最初のほうの巻に、「鎖国」内「鎖国」ともいうべき薩摩藩に入国できずに高山彦九郎が詠んだ歌が紹介されていた個所を飛んだ際、思い立って『彦九郎山河』を読んでみたくなった。そんなキッカケでもないと、なかなか読み出すことはない。ちなみにその歌はこういうものだ。「薩摩びと いかにやいかに 苅萱の 関も鎖きぬ 御代と知らずや」。

高山彦九郎は18世紀の上州の人(・・現在の群馬県)農の家に生まれたが先祖は武家で、神道の信仰の厚い家に生まれ育った。学問好きのため勉学に専念することを許され、儒学を中心に様々な学問を学んだ学者であった。

しかも、交友関係はきわめて広く、『解体新書』の翻訳に携わった蘭医の前野良澤、『赤蝦夷風説考』の著者・工藤平助や『海国兵談』の林子平などとも親しかったことを知った。 この縁でロシアの南下政策に多大な関心を抱いて蝦夷地訪問を思い立ち北方に向かったが、松前藩の方針ゆえ蝦夷地への渡航は断念、天明の飢饉から数年の東北地方を歩いて、人肉食にまで至った悲惨な実態を現地で聞き取り、民の暮らしが念頭にない武家政治への反発を強め、あるべき理想の世としての文治を希求することで、尊皇の思いをさらに強固にする。

尊皇派ではあったが、攘夷派というわけではなかったようだ。攘夷派の一歩手前にいたかもしれないが、いわゆる攘夷派ではない。「尊皇攘夷」とい四字熟語にまつわる固定観念で物事を捉えようとすると足をすくわれる。

蝦夷地行きを断念した彦九郎は三度目の京都上洛を行い、革新派の公卿たちとの交遊から、光孝天皇の父にかんする「尊号問題」推進のため、薩摩藩工作の特使として密命を帯びて薩摩藩に向かうことになったのであった。

だが、「尊号問題」解決のための薩摩藩説得工作は失敗に終わる。すでに幕府から「反体制派」とみなされ、隠密によって京都からずっと尾行されていた彦九郎にとっては、京都に戻ることは捕らえられて処刑されることを意味していた。現代風に言えば指名手配が出ていたからだ。

追われる身となって九州をさまよい歩くものの、命をかけていた「尊号問題」が幕府によって否定されたことを知って生きる目的を失い、旅先の久留米で自刃して果てる。夢みていた「王政復古」が実現する74年前のことであった。

辞世の歌は、「朽ちはてて 身は土となり 墓なくも 心は国を守らんものを」吉田松陰の辞世の歌、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」。この二つの辞世の歌を並べてみると、吉田寅次郎(=吉田松陰)は。明らかに高山彦九郎(=高山正之)を踏まえていると思われる。

なるほど、彦九郎は寅次郎の先駆者なのである。彦九郎もまた儒者であり、しかも全国を歩き回り、さまざまな人たちとネットワークつくりに励んだ人であった。それだけでなく、海外事情にも多大な関心を抱き続けた人であった。寅次郎(=松陰)は米国に密航しようとしたが失敗、彦九郎は南下するロシアの最前線である蝦夷地を踏査しようとして果たせなかった。


『彦九郎山河』は歴史小説とはいえ、やけに描写が細かく具体的だなと思いながら読んでいたのだが、途中で吉村氏の「あとがき」を読むと、高山彦九郎が遺した詳細な日記を材料に執筆したのだということがわかった。

彦九郎が尊皇派ではあったが、かならずしも攘夷派ではなかったのは、生きた時代がまだ18世紀後半であったからだろう。むしろ海外事情についての知見も深めていた高山彦九郎は、狂信的というイメージとはほど遠い。対外的危機がさらに強まった19世紀前半から幕末にかけての、単細胞な印象さえある攘夷派の志士たちとの違いであろう。彦九郎は、何よりもまず学者であったのだ。

吉村昭の小説は、司馬遼太郎のような解説好きで説教癖の強いタイプとは異なり、事実を連ねていきながら対象とする人物を生き生きと鮮やかに浮かび上がらせるタイプの小説家だ。

いい本を読んだ、という感想をもつ。







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