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昨日(2010年11月13日)、「一橋大学昭和60年会(昭和56年入学)卒業25周年記念大会」に出席してきた。
昭和60年(1985年)の大学卒業からすでに25年、つまり四半世紀である。quater-century である。
会場は如水会館スターホール、時間は 18:00から2時間。如水会館という、自前の「OB会」の組織と建物をもっている点は、卒業生の大きな誇りである。
慶應義塾には、規模の点でははるかに及ばないが、卒業生の数が圧倒的に違うためだから仕方がない。
一橋大学は、現在でも学部は一学年1,000人程度、わたしが卒業した25年前は800人程度だったと記憶している。「数はチカラなり」という点ではパワーではないかもしれないが、少数精鋭だとは思いたい。
しかしなんといっても、「OB会」(・・といっても最近では女子比率が高いのでこの表現は適切ではないのだが・・)の名称「如水会」が、日本資本主義の生みの親である澁澤栄一翁の命名によるというのがうれしいものだ。
「如水」(じょすい)といえば、日本の戦国時代の軍師・黒田如水が一般には想起されるだろうが、出典は中国の古典『荘子』の一節であるという。
君子の交はりは 淡きこと水の如し
小人の交はりは 甘きこと醴(あまざけ)の如し
(君子之交淡若水 小人之交甘若醴 「荘子」山木篇第二十)
『論語と算盤(そろばん)』で知られる澁澤栄一であるが、『論語』にとどまらず、幅広く古典につうじた人であったことっが、この一点からもわかる。
一橋大学(旧 東京商科大学)の出発点は、いまから135年前に銀座尾張町にできた商法講習所。私学として出発したその創設にあたっては、提唱者の森有礼だけでなく、実業界の澁澤栄一、教育界の福澤諭吉も関係している。
■Tempus fugit(=Time flies)
実に早いものだ。まさに「光陰矢の如し」。
日本語の「光陰矢の如し」は、英語の「Time flies lika an arrow」とまったく同じ表現で同じ意味だ。
ラテン語なら tempus fugit だろう。このラテン語の格言は、大学本校の図書館に掲げられていた。「時は逃げる」か。逃走犯のことを英語で fugitive というが、その語源にあたる。
母校のことを米国では alma mater という。ラテン語だ。直訳すれば「育ての母」、古代ローマの女神ケレースやキュベレ、中世ヨーロッパにおいては聖母マリアのことを指した表現のことだと wikipedia には書かれている。
ちなみに卒業生のことは米国では alumini という。これもラテン語だ。アラムナイと読む。日本でよく使う OB は old boy の略だが、これは英国風の表現のようだ。OB や OG といった区分をする必要がないからであろう、米国では alumini 以外の表現を耳にすることはない。
■「卒業25周年記念同窓会」に参加しての感想
昨日出席したのは、当日もらった名簿によれば 119名とある。卒業時点で 800名だとすれば、1割強といったところか。同学年全体の会への出席は、卒業5年目に出て以来なので 20年ぶりということになる。
入学時点のクラス分けは第二外国語で行っていたが、当時は圧倒的にドイツ語とフランス語、このほか中国語とロシア語であった。現在ではドイツ語もフランス語も人気がなく、韓国語もあるらしい。
私はフランス語クラスであったが、何組であるかなど、とっくの昔に忘れていた。同じくクラスからは私を含めて5人、顔をみれば思い出す。髪の毛の状況に変化はあれど、顔の輪郭はあまりかわらないものである。
人間関係の濃淡というものは、同じ大学の同じ学年の卒業でも当然のことながら存在するもので、人間関係が濃いのは入学時点での同じ部活(あるいはサークル)か、同じゼミナール(=研究室)に属していたメンバーである。わたしの場合は、前者は社会学部の阿部謹也ゼミナール(歴史学・西洋中世史)、後者は体育会合気道部である。
こういう濃い人間関係をもった仲間とは、比較的ひんぱんに会っているのだが、同じ学年だからといっても、共通の体験や思い出がないとなかなかそう簡単に打ち解けるものではない。これは仕方がないといえば仕方がないことだ。
同じクラス出身か、同じ学生寮にいた人間と会うのは実に久しぶりである。同じクラスか寮生であれば顔もわかる。
大学時代を共有した仲間と会うのは、ある種の異業種交流会みたいなものだ。
年齢でいえば、48歳を中心に47歳から49歳が中心層となる。
面白いのは、メーカーにいった人間は、同じ会社でずっと過ごしているのに対して、金融は経済に翻弄されて合併によって名称が変更、あるいは異なるキャリアを歩んでいることが多いようだ。
われわれの卒業当時は「商社冬の時代」とかいわれて、多くの人間が金融業に就職した。これが正解だったかどうかはわからない。
基本的にメーカーの中心はエンジニアなので、いわゆる文系出身者ができることは限定がある。とはいえ、最初からメーカー志望にしぼって就職活動をした人間は、人生の選択の間違いがなかったということになるのだろう。
だから、メーカー勤務の同級生たちには、「そのまま最後までいたほうがいいよ、でもリタイア後のことは考えておいた方がいいんじゃないのかな」といっておいた。
定年が現在の法定上の 60歳であるとすれば、定年まであと 12年くらいだが、この年になってしまうと、主体的な転職も独立もなかなか難しいものがあろう。現実的にいって、会社があるならば最後までいたほうがいい。
わたしのような生き方がベストだとは言いきれない。
しかし、何がおこるかわからないのが世の中だ。カイシャから放り出されたときに、彼らはすぐに生きていけるワザを身につけているだろうか、と思わなくもない。あくまでも他人事ではあるのだが。
「いい大学を出て、いいところに就職すれば人生安泰だ」というのは、日本においては、ある意味においては正しいのだが、受け止め方は人さまざまだろう。「安泰」という意味もさまざまである。
フツーの一橋大学卒業生とは異なる人生を歩んできた私には、何ともいえないのだが。
全般的にいって、われわれの世代はまだまだ「恵まれた世代」であった、という自覚をもたねばならない。ロスジェネとよばれる、いまの若い人たちのことを考えるとそう思わざるを得ないからだ。
■次の四半世紀を迎えることができるかは・・・
昭和60年(1985年)の大学卒業からすでに25年、つまり四半世紀である。次の四半世紀まで生きているかどうかは、亀の味噌汁、もとい、神のみぞ知る。
とりあえず、卒業40周年の 2025年は、ちょうど大学創立 150周年にあたるという。
大学創立 150周年というのは、日本に近代大学教育制度が導入されてからとほぼ等しい期間であるが、ヨーロッパ中世史を専攻していた私からみれば、ごくごく最近の出来事のような気もする。
大学制度は、中世イタリアのボローニャに遡ることができるからだ。
<関連サイト>
一橋大学
財団法人渋沢栄一記念財団
<ブログ内関連記事>
大学と卒業生の関係とは?- Hitotsubashi University Homecoming Day 2010 (5月8日)で考えたこと
「一橋大学 昭和60年会(昭和56年入学)卒業25周年記念大会」(2010年11月13日)に出席
一橋大学合気道部創部50周年記念式典が開催(如水会館 2013年2月2日)-まさに 「創業は易し 守成は難し」の50年
書評 『「くにたち大学町」の誕生-後藤新平・佐野善作・堤康次郎との関わりから-』(長内敏之、けやき出版、2013)-一橋大学が中核にある「大学町」誕生の秘密をさぐる
・・第一章で「くにたち大学町」が「大学町」の代表例として取り上げられている
(2014年7月14日 情報追加)
(2012年7月3日発売の拙著です)
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