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2009年9月13日日曜日

人間の身体感覚というものは実に面白い。インターネットは高速に限るが、散策はスローに限る。


            
 サクサクと春の桜にあらねども 秋桜待つコスモスの道 (里犬)

などと即興の戯れ歌(ざれうた)を脳内で口ずさみつつ(・・まるで意味のない歌だな)、周辺の散策に乗り出した。
 秋桜(=コスモス)などまだ全然咲いていないのだが・・・。高速インターネット開通がうれしくて、サクサクというコトバを読み込んでみたかっただけのことなのだ。

 新居のすぐ近くには県立高校がある。正門まで歩いてみたら、ちょうど「文化祭」をやっているようだったが、なんと本日の午後3時でおしまいということで、残念なことにちょろっと見ただけで終わってしまった。
 「学園祭」というのが大学のものだとすれば、「文化祭」というのは一般に高校のものをさした日本語の表現である。歳時記にのっているのかな?

 そうねえ、秋なんだんなあ、文化祭の季節か、懐かしいねーなんて、私から見ればまだまだ初々しい高校生の姿を見ながら思ったのだが、実はわが母校の文化祭は秋ではなかったんですなー。
 「たちばな祭」というネーミングのとおり、季節は初夏、高校の文化祭では珍しいかもしれない。

   五月(さつき)まつ 
   花(はな)橘(たちばな)の香(か)をかげば 
   昔の人の袖の香ぞする  (紀 貫之)

 これは昔つきあった女性を匂いで思い出すという、嗅覚記憶を歌い込んだ、表現は平易だが、かなり高度な内容を歌い込んだ和歌である。
 洋菓子のマドレーヌの匂いに子供時代を思い出した『失われた時を求めて』の著者マルセル・プルーストより千年(!)近く前の話だ。
 日本という国は、実に高度文明国なのだなあー、ほれぼれするねー。私の戯れ歌とは千倍どころか、無限大倍くらい中身が違います。

 さて「たちばな祭」に戻るが、一説によれば大学受験に専念できるように文化祭は秋にやらないのだ、という"学校伝説"(?)があったが、高校3年生のときも文化祭にかかわったから、必ずしもそうではないのだろう。
 神奈川県の某進学校では、高校3年間の授業を2年までに終わらせて3年生は受験勉強に専念するという話を聞いたことがあるから、千葉県というのはおっとりした土地柄(?)だったのかもしれない。
 いやただ単に田舎というだけのことか。チバラギ(=千葉+茨城)なんて蔑称もあるしね。でもダサイタマ(=ダサい+埼玉)よりかはましだな、なんていうのも目クソ鼻クソを笑うのたぐいで恥ずかしい・・・
 進学校でも男女共学だったし、アファーマティブ・アクションのクォータ制なんて馬鹿な考えはいっさい無視して成績順に入学者を決定していたから、学校によっては女子が極端に少なかったり、またその逆の高校もあったことから考えると、世の中の風潮には媚びずに原理原則に筋を通していたといえる。
 その意味では、その当時の千葉県の、我が道をいくという姿勢はたいへんよろしい。現在も県知事は森田健作だしね。時代遅れの青春一直線という路線もまた悪くないではないか。筋を貫いてもらいたいものだ。
 私は幸いなことに某国立大学にスレスレの成績で滑り込むことができましたが・・・まあ長い人生、浪人して回り道してもよかったかなとも思う。
 いまこうして人生の寄り道しているから、というより道なき道を手探りで歩いているからだが、人生を均らしてみれば(=levelize してみれば)同じ事かもしれないな。何が幸か不幸なのか一概にはいえないのが人生ですねー。これは私の座右の銘である「人間万事塞翁が馬」のことであります。

 しばらく歩いて行くと、ボックス型の野菜直売所がある。ちょっと覗いてみたら無人ではなく、農家のおばあちゃんが一人で店番をしていた。
 きうりが5本で100円、というのは実に安い! 今年は冷夏で長雨が続いて野菜が高いのだ。スーパーで買ったら2倍はするのが、たったの100円、さっそく購入することとした。
 中間流通を中抜きして、生産者がダイレクトに消費者に販売するのであれば、小売価格は劇的に(!)下げることが可能だ、というよき実例である。


 お金を払いながら見ると、ラグビーボールのような、見事な深緑色の冬瓜(とうがん)が置いてある。これも一個100円(!)とめちゃくちゃ安いので、重いけど買って、そのまま散策を続けることとした。なんせワンコインだからね。それも500円玉ではなく、100円玉ひとつだ!

 数日中に、冬瓜に鶏肉とドンコ(=堅い干し椎茸)で、沖縄風というか、台湾風のスープを作ることにする。これが実に美味いんだなあー。しかし夏なのになぜ冬瓜(winter gourd or winter melon)なんだろうか?いまだに解けぬ謎である。

 おばあちゃんに聞いてみると、いつもは火木土の午後にやっているとのことだが、昨日は大雨だったので日曜日に急遽変更にしたとのことだ。口べたなおばあちゃんにあまりしゃべらすのも気が引けたので、会話を打ち切ることに。

 農業というのは、自然の天候に大きく左右されるのだなあ、と深い感慨をいだく。

 古本屋に入ってみる。ネットで存在を探索してから本日確認しにいったのが、実は本日の散策の主目的である。
 いい本を置いてるなあ、と感心するが、いまはとても本など買う気にはなれない。なにせ、本を整理して大幅に処分している最中なのだ。
 隣にあるブックオフもひやかしてみたが、just looking のみ。
 ところで、本は古本屋には売るのだが、自分が住んでいる近所では売らないことにしている。
 自分が売った本が安く買いたたかれて、しかも買い取り価格より高めの売価がついて売られているのをみるのがイヤだからだ。
 だから、本は自分が住んでいるところから離れた、おそらく一度も店を訪ねることがないであろう店に売ることにしている。最近は着払いでダンボール送ったら査定した上で買取金額を銀行口座に振り込んでくれる古書店も少なからずあるので重宝している。
 自分が売った本を買い戻したことなど、いまのいままで一度もない。自分の手を離れたあとは、売価がつくことによって、中古品として流通制度のなかで回流してくれればいいと思っている。ほんとうに必要なひとの手に渡るならば、手放した人間にとっては冥利につきるというものだ。
 一対一で手渡しで本を人にあげることもあるが、金銭を介在させないそういう関係も悪くはない。しかし、金銭を介在させないとその関係には人格が反映してしまう。これにはメリットもあれば、デメリットもある。人間関係というのは思っている以上に面倒なこともあるからだ。
 その点からいうと、手放したものが人知れず別の知らない誰かの手に渡るという、金銭を媒介にした関係もけっして悪いものではない、とは思う。匿名性というか、無人格性のメリットということだ。

 などと考えつつゆっくりと散策を続けること約三時間、大きめの日系GMS(=スーパーマーケット)でコメなど食料品を買い込んで自宅に戻る。
 冬瓜だけでなく、重い荷物が肩に食い込むので、優雅とはいえない散策ではあったが。

 インターネットは高速に限るが、散策はスローに限る。使い分けも必要なわけだ。
 人間の身体感覚というものは実に面白い。要はバランス、なんだな。