(2006年に再訪した際のパドヴァの聖アントニオ聖堂 筆者撮影)
いまから34年前になるが、1ヶ月かけてイタリア半島を北から南まで、かかとからつま先まで、くまなく旅したことがある。
MBA取得のため留学していたアメリカの大学の夏休みを利用して、それまで訪れたことのなかったヨーロッパを回ったのである。自分の足で歩き、自分の目で見る。これをモットーにして。
最近のことだが、自分が属している小さなネットワーク(というか、人間関係)のなかで、「旅行先としてのイタリア」が話題になった。そこで、自分の旅の記録を披露したという次第だ。
「旅の記録ノート」を探したものの、取り出すのが大変なので今回は断念した。現在のようにスマホでなんでも写真撮ったりビデオ撮ったりという時代ではなく、当時の自分は写真はいっさい撮らないという主義をもっていたので、写真もいっさいない。記憶に刻みつけるためだ(と当時は思っていたが、それが正しかったかどうかはまた別の話)。
(イタリア地図 Google map より 画像をクリック!)
イタリアの地図をみながら、「記録」ではなく「記憶」を再現しながら記してみた。その文章に手を加えて、以下に再録しておく。「みちのく一人旅」ならぬ「イタリア一人旅」の記録。
なにぶんにも34年前なので、記憶違いもあることだろう。言い換えれば一世代より前ということになるのだ。当然のことながら、現在のイタリアはそれなりに変化していることを、あらかじめお断りしておく。
■34年前のイタリア見聞録(1991年夏)
1992年当時はアメリカ留学中で、やっと過酷な勉強から解放された1年目の夏休み、2ヶ月かけてヨーロッパを回った。そのうち半分をイタリアに費やしたのは、それだけの価値があると考えたからだ。
大学学部時代に「ヨーロッパ中世史」で卒論を書いているが、それまでヨーロッパに行ったことはなかった。あまのじゃくなわたしは、海外にはは背を向け、友人たちと1ヶ月かけて九州一周を行ったのだった。日本も知らないで、なにが海外だ、と。
さてヨーロッパ旅行に話を戻すが、当時は「ユーレイルパス」の使い勝手がよかったので、基本的に鉄道をフル利用、バックパックを背負った青春一人旅となった。予約なしで飛び込みの旅をするバックパッカーである。
格安チケットでニューヨークからロンドンへ飛び、英仏海峡をフェリーで渡ってフランスへ。パリからアムステルダム、ドイツを通ってオーストリアのウィーンへ。
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イタリアの旅はウィーンから始まる。ウィーン発ヴェネツィアゆきの夜行列車でイタリアへ。この列車はスリ列車として悪名高いことは後から知ることになる。なんせスリと目を合わせているからね。 トイレにいこうとしたときのことだ。
その男は「アックア、アックア」(水、水)と弁解がましいことを口にした。問わず語りで自分はスリだと行っているようなものだな(笑)
ヴェネツィア到着は早朝で、駅を降りたらいきなり目の間に大運河が登場したので、驚きとともに大感激! キャサリン・ヘップバーン主演の往年のハリウッド映画『旅情』(サマータイム)の世界がまだ残ってたなあ、と。
(ハリウッド映画『慕情』(1955年)のトレーラー)
あの頃はまだ、オーバーツーリズムによる観光公害も現在ほどひどくなかったとはいえ、当日になってからヴェネツィアで宿を確保するのは困難だった。そこで、内陸部にあるヴェネツィア後背地のパドヴァに滞在し、約1時間かけて毎日ヴェネツィアに通うことにした。
パドヴァは、あまり日本人はいかないようだが、自分としては気に入っている。「ミラノ 霧の風景」というと須賀敦子の小説のタイトルだが、8月の早朝のパドヴァも霧に包まれていた。パドヴァには、15年後の2006年にもヴェネツィアとあわせて再訪している。1991年当時は、スクロヴェーニ礼拝堂が修復中でジオットの壁画を見ることができなかったからだ。
イタリアは大学発祥の地であるが、パドヴァ大学もまた中世以来の由緒あるもので、地動説のガリレオ・ガリレイゆかりの大学だ。血液循環説をとなえたウィリアム・ハーヴィーもイングランドから留学していた。解剖教室は階段教室で、現在でも見学可能。
(2006年に再訪した際のパドヴァの植物園 筆者撮影)
ゲーテが訪れたという植物園(ボタニカル・ガーデン)もある。ゲーテが見たというヤシの木はもある。日本でいえば、東京都文京区にある小石川植物園のような感じだ。パドヴァの植物園は世界最古、小石川植物園は吉宗の時代。
(ゲーテのヤシの木 筆者撮影)
ブログ記事に最初に掲載した写真は、パドヴァの聖アントニオ聖堂。2006年秋の撮影。丸屋根と尖塔がイスラーム風で、東方への窓口であったヴェネツィアの文化圏にあったことがよくわかる。
聖アントニオ聖堂のまわりは門前町で、なんだか「昭和の日本」のような雰囲気すらある。
幼子を右手に抱えた聖アントニオのフィギュアやお守りを売る露天が並んでいる。
知り合いのカトリック司祭によれば、ポルトガル出身の聖アントニオは、イタリアではもっとも愛される聖人らしい。なくし物が見つかる、子どもを守る聖人であるなど、御利益が多いから。
(2006年に再訪した際の聖アントニオ聖堂の壁 筆者撮影)
ヴェネツィア滞在を終え、パドヴァからヴィチェンツァを経由してヴェローナへ。
ヴィチェンツァは、ルネサンスを代表する建築家アンドレア・パラーディオゆかりの町。パラーディオ建築の生きた博物館のような町である。
ヴェローナは、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で有名だが、夏の夜は野外劇場でオペラを楽しめる。現地で当日チケットを入手して、ヴェルディの『リゴレット』を鑑賞。イタリアの一般庶民の、イタリアオペラへの熱狂ぶりが体感できた。
ヴェローナからブレシアを経てミラノへ。ミラノは基本的にイタリアビジネスの中心都市。スーツ姿が似合うデザインの町。大聖堂とダヴィンチの「最後の晩餐」(・・この作品も修復中で見ていない)。
ミラノからジェノヴァへ。中世には、ヴェネツィアと競い合ったジェノヴァ共和国。1991年当時は、治安のあまりよくない、赤さびた港湾都市となっていたが、さて現在はどうだろうか。
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ジェノヴァから、ピアチェンツァ、パルマを経てボローニャへ。
ボローニャは、中世に生まれた世界最古のボローニャ大学のある大学都市で、かつてソ連型とは一線を画した「ユーロ・コミュニズム」の首都であった(・・訪問した1991年当時はソ連崩壊直前であった)。日本でいえば、かつて革新府政が行われていた京都のようなものか。大学では学生食堂(メンサ)を利用した。
ボローニャは、イタリアの知的中心のひとつで書店も充実していた。平積みになっているイタリア語のタイトルを見ていたら、意外に英語の本からの翻訳本が多いことに気がついた。日本は翻訳大国だと言われることが多いが、イタリアも日本に劣らずそうなのだな、と。
ボローニャからラヴェンナへ。ユスティニアヌス帝を描いた、かの有名なビザンツ様式のモザイク画を見るためだ。ラヴェンナは、ビザンツ帝国(=東ローマ帝国)の都がおかれていたこともあるだけに、イタリア北部にあるが、その他の町とはだいぶテイストが違う。
ふたたびボローニャに戻ってから、フィレンツェへ。
フィレンツェは、ウフィッツィ美術館その他ポンテ・ヴェッキオなど観光資源の多い、日本人にもなじみの深い定番の観光地。かつて作家の塩野七生もここを拠点にしていた。ちなみに、ウフィッツィはイタリア語でオフィスのことだと、大学学部時代の美術史の授業で知った。
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フィレンツェから、斜塔で有名なピサへ。塔の町サンジミニャーノ、シエナを経てアッシジへ。
シエナは、町の中心に広場(カンポ)のある、こじんまりとしているが典型的な中世ルネサンス都市といった感じが好きだ。イタリアは大都市よりも、シエナやアッシジといった中小都市が個性的でいい。
アッシジは、イタリアのなかでは例外的でピュアな印象。言うまでもなく、アッシジのフランチェスコの町。青春映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』はここを舞台にしている。
教会にはジョットのフレスコ画。自分が訪れたあとになるが、大地震で教会も壁画も大きな被害がでている(・・その前後に訪問経験のある司祭によれば、素人目には修復で問題ないとのこと)。
アッシジからはバスでオルヴィエートへ。小高い丘の上にあるオルヴィエートもこじんまりとした、いい感じの町。 イタリアの中小都市が丘の上にあるのは、マラリアを避けるためだったようだ。地場のスーパーに入ると、なんと日本製の蚊取り線香が売っていた!
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さらに南下してローマへ。永遠の都ローマ。 ローマは、鴎外の訳で有名なアンデルセンの『即興詩人』の主要な舞台。『即興詩人』もまた、イタリア全土を回る作品である。
つい最近も「教皇選挙」で話題になったヴァティカンこと、ローマ教皇庁がある。 サンピエトロ広場では、信者の列に紛れ込んで、バルコニーに姿を現した当時の教皇でポーランド人のヨハネ・パウロ二世を拝謁。日本からの修道女の巡礼団には、なんと日本語で(!)祝福をあたえていた。
システィナ礼拝堂のミケランジェロによる壁画は、やはり現地で見るべきだろう。写真集では全体像が見えないから。このほかミケランジェロのモーセ像や、コロッセウムや『ローマの休日』(・・こちらはオードリーのほうのヘップバーン)のトレビの泉など、定番の観光地を回ったが詳細は省略する。ローマを訪れた日本人は、それこそ無数にいるだろうから。
ローマでは、満員の市内バスのなかでスリに遭遇、見事な手さばきで、子ども連れのジプシー女に、なんと10万リラ(!)入った財布を抜かれた。ただし、幸いなことに、パスポートは腹巻きのなかに入れていたのでノープレブレム。当時はまだユーロ導入以前であった。
ローマからナポリに南下。「ナポリを見て死ね」というナポリは、ギリシア語のネアポリス(新都市)がなまったもの。古代ギリシアの植民都市がその起源であり、イタリア北部とはずいぶんテイストが異なる。そういえば、桜島という活火山のある鹿児島湾はナポリに似ていると、鹿児島では宣伝していたな・・
ナポリでは当然のことながら、ポンペイの遺跡とカプリ島へ。太陽を遮る場所のない8月のポンペイは、じつに暑くてつらかった。
ポンペイ遺跡では、物売りから「アンニョンハシムニカ」と声をかけられたのは、1991年当時は韓国で海外旅行が自由化されたため、韓国人旅行者が急増したからだろう。旅の途中で韓国の大学生たちとは何度も会話をかわしている。現在なら「ニーハオ」だろうな。
カプリ島では、定番の観光地「青の洞窟」(グロッタ・アズーラ)に行った。いやあ、ほんと素晴らしかった。海の青さが、いまなお記憶に鮮明。 さきほど名前をあげた日本人司祭は、青の洞窟には2回チャレンジして、2回とも敗退したという。夏ならそんなことはないのにね。
ナポリからマテラ、奇妙な白い石造住宅の並んだアルベロベッロへ。最近は日本でも注目の観光地。
バーリ、そしてターラントから、イタリア半島のかかとの先のレッチェまで。 レッチェのスペイン風の風化したバロックの教会建築は、なかなか風情があった。1860年のイタリア統一前まで、イタリア南部はスペイン支配下にあった。
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イタリア半島のかかとまで行ったので、つま先のシチリア島に向かう。
シチリアというと、マフィアという連想が固定観念として根強いだろうが、シチリアこそゲーテが激賞しているすばらしい土地だ。「君知るや南の国 シトロンの花咲く・・」である。
シチリアは、けっこう大きな島である。メッシーナからパレルモ、南海岸のアグリジェント、シラクーザなど反時計回りで周遊。
パレルモでは、カプチン派の修道院を訪問。修道士の骸骨でつくった「カタコンベ」(=骸骨寺、地下墓地)は圧巻。ローマにもカタコンベがあり、『即興詩人』にもそのシーンがあるが(・・鴎外訳では「カタコンバ」)、残念ながらローマのカタコンベは訪ねていない。
ちなみにコーヒーのカプチーノは、カプチン派に由来する。カプチン派の修道士のフードが焦げ茶色で似ているから。イタリアでは、バールで小さなカップのエスプレッソをくいっと飲むのが粋なスタイル。
そうそう、パレルモではバイク2人乗りの若者たちにデイパックをひったくられそうになった。かなりの距離ひきずられたが、なんとか難を逃れた。たいしたものが入ってなかったので、身の安全を考えたほうが良かったかもしれない。
アグリジェントのギリシア神殿は、アテネのアクロポリスのようなものだ。ここも古代ギリシアの植民都市であった。枯れた大地で、風が強いのでオリーブなど樹木が低い。イタリア人がそれをさして「ボンサイ!」と言っていた記憶がある。ちなみに、イタリアでは昔から日本の「盆栽」は人気があるようだ。
おなじく古代ギリシアの植民都市だったシラクーザは、アルキメデスゆかりの町。 シチリアのどこか忘れましたが、サルディーネのグリルは最高。なんということもないイワシの網焼きが、レモン果汁とオリーブオイルをかけるだけであんなに美味くなるとは!
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シチリアまで行ったので、帰途はメッシーナ発トリーノ行きの長距離列車でイタリアの西海岸を一気に北上。メッシーナ駅では、肩車された小さな女の子が「チャーオ~、チャーオ~」といいながら、手を振って見送る光景に、ああイタリアだなあ、むかしのイタリア映画のようだなと感慨にふける。
列車ごとフェリーに乗りこんで、シチリアから本土へと海峡をわたる。その間は、乗客は列車から降りて甲板にあがる。そこで買って食べた土地の名物アランチーニというライスコロッケがうまかった。
トリーノからヴァレ・ダオスタへ。そこからはモンブランの長いトンネルを抜けてフランスへ。
ということで、34年前の「イタリア一人旅」は以上のとおり。記憶違いがあろうが、あしからずご了承を。
当時のイタリアの列車は、むかしの日本もそうだったが、夏でもエアコンなし。窓を開けっ放しで、乗客は窓から顔や手を出していて、往年のイタリア映画の世界そのものだった。 さすがに現在はそんなことはないと思うが・・・
■イタリア再訪(2006年秋)
その後、イタリアには2006年に再訪している。 今度もウィーンから列車で。ただし、スロヴェニアの首都リュブリャーナ経由でヴェネツィア、パドヴァへ。ただし、須賀敦子の小説のタイトルにもなっているトリエステに行くことができなかったのは残念。
(ホテルのある狭い路地 筆者撮影)
このときは事前に予約していて、ヴェネツィアに宿を確保した。狭い路地に面した宿には、電子蚊取り(vape)が設置されていたことを思い出した。イタリアも蚊取り線香の時代ではないのだな、と。
(海から見たサンマルコ寺院 筆者撮影)
ヴァポレット(=水上バス)で沖合にでて、トーマス・マン原作の映画『ベニスに死す』の舞台であるリド島へ。海から見たヴェネツィアは最高だ! (ちなみにゴンドラは2回とも見るだけで乗っていない)
前回は修復中だったため見学できなかったスクロヴェーニ礼拝堂のジョットの壁画を堪能。予約制なので日本からサイトで予約。観光客が多くて見学時間に制限があるのが残念だ。
というわけなので、コロナ後のイタリアは知らない。はたして再訪することはあるかどうか・・・
(以上)
(画像をクリック!)
(付録)独断と偏見に満ちた考察と教訓などなど(順不同)
●イタリアは、ヨーロッパだが非ヨーロッパ的な面もあって、それが魅力的。 (個人的な見解としては、「東洋のラテン」と言われる韓国人やタイ人がイタリア人に近い) (気質的には、イタリア人よりスペイン人のほうが日本人に近いという印象あり)
●イタリアは、北部と南部でずいぶん雰囲気が違う。
南部は完全に地中海世界で、中肉中背で黒髪で黒目、褐色の肌が多く、男性のある種の仕草がトルコ人と共通。(ただし、シチリアには金髪青目で長身のノルマン系の人がいる。
●イタリアは全般的に、日本より朝が早いので、現地では生活習慣は朝型に変えるべき。
(そのかわり昼休みが長いことは、みなさんご存じのとおり。夕方の営業時間がひじょうに短い)
●郵便局や鉄道関係ふくめて、役所つとめのイタリア人は、杓子定規で融通が利かない官僚的な人が多い。民間とはあまりにも対照的。民間人は、基本的によく働き、よく遊ぶ。
●とくに南部では、平気な顔して釣り銭ごまかしてくるヤツがいるので要注意。
●当時もすでに、アフリカ人の路上物売りが多くて、現地のイタリア人が嫌っていた。詐欺には要注意。
●夏は暑いので、疲れを癒やし、涼むために教会を利用させてもらったが、平日の教会には、おばあさんしかいなかった。
●イタリア男子は、外国人女性にはよく声をかけているが、観察していると現地のイタリア人女性は声かけしていない。(狭いコミュニティに生きているので、「世間」の目があるためでしょう)
ご参考になるかどうか、わかりませんが・・・
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・・ボゴール植物園のボゴールはもともと「無憂」という地名
銀杏と書いて「イチョウ」と読むか、「ギンナン」と読むか-強烈な匂いで知る日本の秋の風物詩
書評 『そのとき、本が生まれた』(アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ、清水由貴子訳、柏書房、2013)-出版ビジネスを軸にしたヴェネツィア共和国の歴史
・・ヴェネツィアの後背地としてのパドヴァはヴェネツィア共和国の知的中心であった
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