「アタマの引き出し」は「雑学」ときわめて近い・・日本マクドナルド創業者・藤田田(ふじた・でん)に学ぶものとは?

◆「アタマの引き出し」つくりは "掛け算" だ : 「引き出し」 = Σ 「仕事」 × 「遊び」
◆酒は飲んでも飲まれるな! 本は読んでも読まれるな!◆ 
◆一に体験、二に読書、その体験を書いてみる、しゃべってみる!◆
◆「好きこそものの上手なれ!」◆

<旅先や出張先で本を読む。人を読む、モノを読む、自然を読む>
トについてのブログ
●「内向きバンザイ!」-「この国」日本こそ、もっとよく知ろう!●

■■ 「むかし富士山八号目の山小屋で働いていた」全5回 ■■
 総目次はここをクリック!
■■ 「成田山新勝寺 断食参籠(さんろう)修行(三泊四日)体験記 」全7回 ■■ 
 総目次はここをクリック!
■■ 「庄内平野と出羽三山への旅」 全12回+α - 「山伏修行体験塾」(二泊三日)を中心に ■■
 総目次はここをクリック!


「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!

「個」と「組織」のよい関係が元気をつくる!
ビジネス寄りでマネジメント関連の記事はこちら。その他の活動報告も。最新投稿は画像をクリック!



ご意見・ご感想・ご質問 ken@kensatoken.com にどうぞ。
お手数ですが、コピー&ペーストでお願いします。

© 2009~2025 禁無断転載!



ラベル 長崎 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 長崎 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年5月4日木曜日

企画展「大田南畝の世界 没後200年 江戸の知の巨星」(たばこと塩の博物館)に行ってきた(2023年5月2日)- 博覧強記の文人・大田南畝と幕府の能吏・大田直次郎は同一人物であった 

に行ってきた(2023年5月2日)。入場料は100円と破格の安さ。「たばこと塩の博物館」(墨田区)は、今回がはじめての訪問となる。専売公社以来のたばこと塩の常設展示も興味深い。

さて、本題の狂歌で有名な大田南畝(おおた・なんぽ 1749~1823)は、大田蜀山人(おおた・しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)、寝惚(ねとぼ)け先生など、複数のペンネームをつかいわけて大活躍した江戸時代後期の文人である。

生涯に残した膨大な書き物は、随筆も含めて岩波書店からでた全集で20巻にも及んでいる。
 
そもそも現在とは違って、名前が一つではなく、諱(いみな)や通称、さらに知識階層なら雅号など含めると複数の名前を同時に使用していたのが江戸時代の人間である。近代人とは違って、アイデンティティはひとつではなかったのだ。

(ミュージアムショップで購入した図録 1,980円也)

現代風にいえば複数の「アバター」(=分身)を生きていたというべきであろう。ミュージアムショップで入手した「図録」の巻頭論文「大田南畝の自由と「行楽」」で、江戸時代の漢詩研究の第一人者である揖斐高氏も「アバター」という表現をつかっている。

大田南畝というと、「世の中に かほどうるさき ものはなし 文武と言ひて 夜も寝られず」という狂歌が連想としてまず思い浮かぶが、そもそもの出発点は漢詩だったのであり、生涯を通じて漢詩を作り続けた人なのである。揖斐高氏の編訳による『江戸漢詩選 上』(岩波文庫、2021)には、大田南畝の漢詩が3つ採録されている。

大田南畝は文人ではあったが、どうじに武士であり官僚でもあった。武士比率の高い江戸に下級武士の子として生まれた大田直次郎は、文武両道であった。武士のたしなみとしての水練も得意で、25歳のことには将軍の前で披露してお褒めもいただいている。

「一足・二水・三胆・四芸」は武士のたしなみのこと。足は健脚、水は水練、胆は胆力、芸は武芸。「三胆・四芸」については知らないが、すくなくとも「一足・二水」には自信があったようだ。近代日本に登場した青白いインテリとはほど遠い。

とはいえ、武張った人ではなかったようだが、エラの張った顔つきだったようだ。
 
こういったことは、今回の企画展をみてはじめて知ったことだ。企画展は以下のような構成になっている。

第一章 南畝の文芸 
第二章 情報編集者としての貌 
第三章 典籍を記録・保存する 
第四章 歴史・地理を考証する 
第五章 公務に勤しむ 
第六章 同時代の証言者として 
第七章 雅俗の交遊圏 
南畝とたばこ屋

「たばこと塩の博物館」だからではあるが、「たばこ屋」との関係もあったわけだ。たばこ屋は、狂歌のグループの一員でもあった。


(四方赤良、寝惚け先生としての若き日の大田南畝 企画展ウェブサイトより)



■下級武士の満たされぬ思いの代償行為としての文芸

狂歌や狂詩だけでなく、そもそもの出発点は漢詩であり、その漢詩は少年時代から培ってきた膨大な漢籍の読書のたまものであった。

下級武士の家に生まれた息子だが、神童とよばれていたらしい。そんな息子の得意分野を伸ばしてやろうという母親の思いによって、漢学の私塾で学ぶことができたのであるい。学んだのは「徂徠派」の儒学である。 

「蘐園学派」(けんえんがくは)ともいう徂徠派は、18世紀後半の江戸では主流であり、古文辞学という形で言語そのものに関心の重点を置いていた徂徠派のなかには、儒学そのものよりも漢詩文に重点を置いている人たちがいた。大田南畝は、後者の影響圏のなかにいたのであろう。

師匠がまた、シャレのわかる人だったことが幸いだったようだ。漢詩のパロディである狂詩でも才能を発揮、狂詩がさらにジャンルを超えて和歌のパロディである狂歌へとヨコ展開していく。大田南畝は、江戸時代後期の「狂歌ブーム」の立役者となったわけである。

下級武士の御徒(おかち)では満たされない思いが、文芸の世界で爆発したというべきであろう。身分制度のなかで生きる下級武士にとって、アバターをつかってイマジネーションの世界で生きることは、ある種の代償行為だったのではないだろうか。

(大田南畝 Wikipediaより)


■能吏であった後半生がまた興味深い

バブル経済の田沼時代が終わって内憂外患の動乱の時代に入っていくと、登場したのが松平定信である。18世紀末に定信が推進した「寛政の改革」が、本来は武士であった大田直次郎の人生を大きく変えることにとなる。

「寛政異学の禁」によって昌平坂学問所ではじめて朱子学が正式に官学化されると、幕臣を対象に「学問吟味」という公的な試験制度が導入されることになる。社会が複雑化し、変化のスピードの速い時代に対応できる人材を発掘し、登用するために開始された制度であった。朱子学による学問の規格化の始まりである。
 
この学問吟味を受験し、2度目のチャレンジで見事に首席となったのが大田南畝である。第1回目も受験しているが、試験を行う側で成績をめぐっての意思統一ができずに合格者がでなかったため、2年後に再度受験して結果をだしたのである。

徂徠学を修めた大田南畝であるが、朱子学の解釈による試験も突破しているわけであり、そうとうな学力の持ち主であったことがわかる。徂徠学をアンラーニングしているのである。

すでに数えで46歳となっていたが、学問吟味で優秀な成績をだしたことで、下級武士ではあったが、抜擢人事の対象となって支配勘定となったのである。御徒(おかち)の職では満たされることのない野心が、アバターとしてではなく、公的な場を得ることで解消に向かい始めたわけだ。

わたし的には、これから先の大田南畝のほうが興味深い。世の中が「知識社会」化し、幕府の人材活用方針が実力主義へと転換していくことで、身分制度が内側から崩れ始めたのである。そんな時代転換期に生きた大田南畝は、より若い世代の近藤重蔵などとともに考えるべきであろう。

漢学の素養をフルに発揮できる、文書管理と文書作成の仕事であった「孝行奇特者取調御用」や「御勘定所諸帳面取調御用」は、まさに適任であったというべきであろう。それらの業務をつうじて知識の運用能力と管理能力が認められ、輸出用の銅の精錬所であった大坂の「銅座」の監督官として赴任し、中国商人とオランダとの貿易港であった長崎奉行所にも赴任しているほか、関東では玉川の堤防調査にも従事している。文書作成能力だけでなく、計数能力もあったことがわかる。*

*大田南畝は息子の勘定所入りを願って、自腹を切って友人の小普請世話役の吉見儀助のもとで関流算術を学ばせていたと、『江戸の役人事情』(水谷三公、ちくま新書、2000)にある(P.185~188)。算盤と算術である。「大田南畝全集第17巻」(岩波書店)に収録されている「会計私記」を参照。(2023年6月9日 記す)

大坂赴任中には、民間博物学者ともいうべき商人の木村蒹葭堂(きむら・けんかどう)にも会っている。公務による大坂滞在中にも、あふれんばかりの好奇心を満たす機会は貪欲に追求しているわけだ。


■ロシア人レザノフと握手した大田直次郎

なんといっても興味深いのは、長崎赴任の時期(1804年)がロシアの「レザノフ来航」と重なっていることだ。

大田直次郎の基本業務は、長崎に滞在している中国商人の監督であったが、時代の変化が押し寄せてきていたのである。レザノフ(1764~1807)は、ロシア帝国の全権大使として、日本との貿易開設のミッションを帯びて来航していたのである。

(ニコライ・レザノフ Wikipediaより)

なんと、大田南畝はレザノフと握手しているのである。レザノフが差し出してきた右手を握って、ことばを交わしているらしい。役人とはいえ、やかましいプロトコルとは縁の遠い下級武士出身で、しかも好奇心の塊のような人であったから、素直に握手できたのであろう。

江戸時代のロシア通といえば漂流民であった大黒屋光太夫だが、それ以外にも直接ロシア人と接した人物として、大田南畝を数えなくてはならないわけである。

ちなみに、レザノフは漂流民たちから日本語を習っていたらしい。ロシア人使節のレザノフ(当時40歳)と握手して、基本的に通詞を介してではあるが、ことばも交わすという得がたい体験もしている。56歳の幕府の役人・大田直次郎であった。日ロ交渉にも幕府側の一員として参加していた筆まめな大田南畝は、この経緯も含めて、ありとあらゆることを記録している。
 
ただし、定信失脚後の幕府とのあいだでは日本貿易開設が実現せず、「ナジェジダ」(=希望)という船にのってきたが、希望を打ち砕かれて失意のなか長崎を離れたレザノフ。

ロシア人が蝦夷地の択捉島で乱暴狼藉をはたらいたのは、帰還後のレザノフの命令によるものであった。ショック療法で幕府に揺さぶりをかけるためである。

だがその結果、幕府の対ロ警戒心がかき立てられ、海軍士官のゴロヴニンが日本側に捕らえられる。報復としてロシア側の捕虜となった商人・高田屋嘉兵衛の活躍で、日ロ間で捕虜交換につながっていく日ロ交渉史は、また別の話として語るべきであろう。


(晩年の大田南畝 Wikipediaより)


■「没後200年」の企画展の意味

企画展に出品されている展示品は、そのほとんどが印刷物や原稿であるが、そういった現物をたどりながら見ていくと、江戸時代後期に生きた一人の日本人が生き生きと蘇ってくるのを感じる。

「没後200年」の企画展である。まだ亡くなってから、たかだか200年しか立っていないのだ。感覚的にも、そうかけ離れた存在ではない。というよりも、武張った明治時代の人間より近しく感じるものがる。

江戸時代の文芸は、漢詩漢文を抜きにして語ることはできないが、それゆえに現代の日本人には、ややバリアが高いことは否定できない。だが、そういったバリアを取り除けば、そこに現れるのは、ごく当たり前に悩み、ごく当たり前に生きた一人の日本人なのである。
 
おなじ日本人として、200年前に生きた人物について考えるのは、じつに楽しいことである。そういえば、亜欧堂田善も「没後200年」だったな。この前後に没した著名人は少なからずいる。

「200年前」について考えるには、いい機会かもしれない。



画像をクリック!




*******

PS1 レザノフ側の資料から大田南畝こと直次郎を見る

海軍士官のゴロヴニンや作家のゴンチャロフほど有名ではないが、レザノフも日本滞在記を残している。『日本滞在日記 1804~1805』(大島幹雄訳、岩波文庫、2000)がそれである。


なぜか原書は、ロシア(=ソ連)では1994年まで公開禁止扱いだったらしい。ソ連時代末期のペレストロイカ時代にはじめて公開されたようだが、ソ連外交あるいはロシア外交にとって不都合な事実が記載されているためだろうか。

日本語訳の「5 梅が崎上陸」の章には、1804年12月6日(文化元年11月18日)付けの日誌に以下のような文章がある。

朝、町から来たふたりの役人が岸に面した門を開けた。この門から検使たちがやって来た。奉行からの挨拶を述べ、輸送用の荷船がすでに出発したと告げた。実際、輸送は驚くべき速さで始まった。最初の日だけでひとつの倉庫が一杯になってしまった。何千人もの人夫が駆りだされたということだ。
一日中ひっきりなしに、役人たちが次々と挨拶しにやってきた。彼らにコーヒーをごちそうした。みんなコーヒーがたいへん好きだった。

訳者の大島氏は、最後の文章の「役人たちが次々と挨拶しにやってきた」に訳注をつけて、大田南畝がレザノフと面会していることと、大田南畝の息子宛の手紙を引用している。出典は『大田南畝全集第19巻』。

手紙には、船室内を興味深げに眺め回したこと、一部にかんしてはメモをとったことが記されているが、大田南畝はなぜかコーヒーを飲んだことには触れていない。ロシア語の原文がどうなっているのかわからないが、「みんなコーヒーがたいへん好きだった」とあるので、大田南畝にとっては、はじめてのコーヒー体験ではなかったのかもしれない。

12月8日付けの日誌には、「いままで見てきたところ、日本人たちはコーヒーが大好物のようだ」とある。長崎奉行所勤務の役人たちは、オランダ商館ですでにコーヒー体験を済ませていたのであろうか?

ちなみに、フランス革命が勃発したのは1789年であり、オランダはナポレオンによって1806年に占領され、オランダは消滅していた。その2年後の1808年に長崎で勃発したのが英国船フェートン号による乱暴狼藉事件であった。


*******


PS2 博覧強記の人・大田南畝は、おなじく博覧強記の全盲の大学者・塙保己一の友人でもあった

全盲の大学者の塙保己一が亡くなったのは1821年、大田南畝が亡くなる2年前のことである。いまから202年前のことになる。

塙保己一は、その死の2年前に畢生の大事業というべき「群書類従」を完成させている。その件については、「塙保己一史料館・温故学会」(東京・渋谷)を初めて訪問してきた(2019年7月3日)-ことし2019年は「群書類従」(全666巻)の刊行が完成してから200年! を参照されたい。

今回はじめて知ったが、博覧強記の人・大田南畝は、おなじく博覧強記の全盲の大学者・塙保己一の友人でもあった。たんなる同時代人ではないのである。

ネットで資料を探していたら、以下のようなものが見つかったので、一部引用させていただくことにしよう。

『群書類従』には、南畝の蔵書が八編も使われているように、南畝も蔵書家だった。塙保己一との関係は、群書類従の宣伝文を南畝が書くなど、親密な交流が行われていたようである。
保己一の母方斉藤家の「加美郡藤木戸村斎藤理左衛門」が奇特者ということで褒美を貰ったということは新編武蔵風土記稿にも記述されているが、この奇特者を載せた『孝義録』の編纂事業を担当したのは南畝である。
この際「此頃学問所にて撰ばせらるゝ所の『孝義録』を校正し、仮名のつかひざま詞ののべやうなど改むべき仰事ありて、あまねく校正して功なりにたればやがて開板となる。」と「温故堂塙先生伝」にあるように、塙保己一は校正を行っている。
この書状は大田南畝が文化元年(1804)に長崎奉行所へ一年間出役したときに、長崎から保己一宛に出したものである。内容は、九州の人たちに群書類従の宣伝をしたいので惣目録を長崎まで送ってほしいというものである。」

(温故学会の塙保己一の銅像 筆者撮影)


 

<ブログ内関連記事>


・・大田南畝は塙保己一の親友であり、群書類従プロジェクトのパートナーであった




・・頼山陽は大田南畝の一世代(=30年)あとの人

・・ツンベルク、桂川甫周、大黒屋光太夫

・・帆足万里の『東潜夫論』(1844年)の記述より。その40年前の1804年には、大田南畝はすでにコーヒーを飲んでいたことになる


(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2016年8月13日土曜日

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館)に行ってきた(2016年8月12日)-江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

(国立歴史民俗博物館にて)

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」(国立歴史民俗博物館・千葉県佐倉市)に行ってきた(2016年8月12日)。

「ミュンヘン五大陸博物館」(旧ミュンヘン国立民族学博物館)所蔵のシーボルト収集の日本関連グッズが150年ぶりに里帰りしたのである。明治になってから大量に海外に流出した浮世絵などの日本絵画の「里帰り展」は多いが、日常生活で使用する工芸品や、美術品としてはそれほどのカチが高いわけでもない品々が展示されるのは、考えてみたら珍しいことかもしれない。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダ東インド会社所属の医師として19世紀前半の江戸時代後期に来日した。来日したのは1823年、27歳の若さ(!)であった。長崎を拠点に高野長英など医学上の日本人弟子たちを養成、かれらをつうじて、じつに幅広く日本関連グッズを収集し、1828年の帰国に際してヨーロッパに持ち帰っている。

シーボルトは、その当時の日本人の生活関連や工芸品、植物や地図からなにからなにまで収集して日本学研究を行った植物学者であり博物学者でもある。日本人ならシーボルトの名を知らない人は、まずいないのではないだろうか。

(ドイツの切手に採用されたシーボルトの肖像画 wikipediaより)


■シーボルトの来日の背景と当時の欧州情勢

オランダは、1602年に設立された世界最古の株式会社「東インド会社」の拠点をバタフィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。

17世紀はオランダの黄金期であり、欧州における貿易と情報流通の中心地であったが、西欧諸国のなかで日本貿易を独占していたオランダの黄金期は意外と短かった。急速に勃興してきた英国に覇権を奪われたからだ。

フランス革命の混乱のなか、1799年には東インド会社は解散、しかもフランス革命後のナポレオン戦争時代には、混乱に乗じてオランダはフランスに占領され、海外植民地のオランダ領東インドは英国に占領されている。

(国立歴史民俗博物館の展示より「江戸時代の対外関係」地図)

ナポレオン戦争後に回復した国際秩序のウィーン体制(1814年)のもと、英国とオランダの関係は回復し、オランダは共和制から王政に転換する。戦後混乱のなか財政危機に陥ったオランダ本国は、植民地であった東インドの過酷な収奪によって財政再建を図る

1823年にシーボルトが日本に派遣されたのは、まさにこの時期のことであった。オランダ本国政府は財政再建の一環として、オランダ領東インド政庁を介した対日貿易の再建を考えており、シーボルトは日本市場の市場調査がミッションとして与えられていたのである。だからこそ、カネに糸目をつけずに日本の物産を購入することが可能で、地図などの軍事情報の収集も精力的に行ったのであった。

伊能忠敬作成の日本全図をひそかに国外持ち出しを図ったことが露見し、国外追放になった。いわゆる「シーボルト事件」である。1828年のことだ。国外追放処分となったシーボルトは、さらなる日本への渡航を希望していたが入国禁止となっており、「開国」後の日蘭通商条約締結後の1858年まで再来日はできなかった。

「シーボルト事件」にかんしては、『文政十一年のスパイ合戦-検証・謎のシーボルト事件』(秦新二、文春文庫、1996)に詳しく書かれている。同書によれば、幕府自身も地図の一件は知りながらシーボルトを泳がせていたようだ。日本国内の政争も背景にあり、なかなか複雑な構図があったようだ。

ともあれ、シーボルトは地図そのものは持ち出せなかったものの(・・ただし密かに写しを作成し持ち帰っている)、それ以外の日本関連グッズは収集品として大量に持ち帰ることができたのであり、その収集品をもとに「日本博物館」」として展覧を実現したのである。

(国立歴史民俗博物館にて)

医師・博物学者として優秀であったからこそオランダ政府から絶大な信頼を受けていたシーボルトであったが、シーボルトが、オランダ人ではなくドイツ人であったことは意外と知られていないかもしれない。シーボルトの収集品がドイツのミュンヘンで保存されているのはそのためだ。

ドイツ南部のミュンヘンは、当時のバイエルン王国の首都。シーボルトが生まれたのはヴュルツブルクだが、1814年にはバイエルン王国領となっている。そういうわけで、シーボルトはバイエルン王とは関係もあり、展示品のなかには、かの有名なルートヴィヒ2世あての書簡もある。


■江戸時代後期(=19世紀前半)の日本をモノをつうじて捉える

まあ、そういったシーボルトのバックグラウンドはさておき、19世紀前半の日本を、そっくりそのままモノをつうじて知ることができる興味深い企画展になっている。

展示品のなかには、カツオの形をした木製の刺身皿もあり(・・下図参照 『目録』より)、魚の腹の部分がフタになっており、開け閉めできるのが面白い。これなど復刻したら現在でも商品になるのではないかな。とにかく日本人は、小さなモノにかんしてはバツグンの能力を発揮していることが、あらためて確認できる。

(上は弁当箱、下はフタを閉めた状態の刺身皿 『目録』より)

常設展示の江戸時代の展示室とあわせて見学すると、江戸時代の日本がいかにすぐれていたかが実感されることになるはずだ。今回の企画展は、その意味でもおおいに意義のあるものだといえよう。


PS なお、今回の企画展の目録は、『よみがえれ! シーボルトの日本博物館』として青幻社から市販もされている。会場だけでなく、amazonなどのネット書店での購入も可能。






<関連サイト>

「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」 特別サイト


<ブログ内関連記事>

国立歴史民俗博物館は常設展示が面白い!-城下町佐倉を歩き回る ①

すでに5月にアジサイの花-梅雨の時期も近い
・・「シーボルトとお滝さんのエピソードが知られているように、アジサイのラテン語の学名にはオタクサが含まれることになった。」

書評 『オランダ風説書-「鎖国」日本に語られた「世界」-』(松方冬子、中公新書、2010)-本書の隠れたテーマは17世紀から19世紀までの「東南アジア」
・・「当時のオランダは、世界最古の株式会社といわれる「東インド会社」の拠点をバタフィア(・・現在のインドネシアの首都ジャカルタ)に構えていた。17世紀はオランダの黄金期であり、欧州における貿易と情報流通の中心地であったが、最盛期は意外と短く、覇権は英国に奪われる。」 

書評 『西欧の植民地喪失と日本-オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所-』(ルディ・カウスブルック、近藤紀子訳、草思社、1998)-オランダ人にとって東インド(=インドネシア)喪失とは何であったのか

9月になると紫色の実をつけるムラサキシキブの学名(Callicarpa japonica)はツンベルクの命名
・・「スウェーデン人のツンベルク(Carl Peter Thunberg 1743~1828)は、「分類学の父」であるカール・フォン・リンネ(1707~1778)の弟子。18世紀後半にオランダ東インド会社の商館に医師として来日することに成功し、日本滞在はわずか一年間であったが、精力的に日本の植物を調査した。日本では19世紀になってから来日したドイツ人のシーボルトの方が有名だが、学問世界、とくに分類学への貢献という点ではツンベルクはきわめて大きな存在である。」

(2017年10月14日 情報追加)




(2012年7月3日発売の拙著です)






Clip to Evernote 


ケン・マネジメントのウェブサイトは
http://kensatoken.com です。

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!



end

2013年8月9日金曜日

書評『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅、文春文庫、2013 単行本初版 2009)ー "最初の被爆地" 広島と "最後の被爆地" 長崎の背後にあった違いとは?



ヒロシマは全世界的に有名になっているのにかかわらず、ナガサキはかならずしもそうではない。その理由の一つに目で見てさまざまな思いを感じることのできる原爆遺跡が残っているかどうかがあるのかもしれない。

爆心地に近い浦上天主堂は、じつは13年間も廃墟のまま放置されていたらしい。そのまま保存していれば「世界遺産」となったことは間違いないが、結局は取り壊されてしまったのはなぜか? 

本書は、そんな疑問から、"最初の被爆地" 広島と、"最後の被爆地" 長崎の違いの背後にあったものについて考えていくノンフィクション作品だ。

個人的な話だが、大学時代に『人間を返せ』というドキュメンタリー映画をみていたものの、実際に被爆地を訪れたのは長崎のほうが先である。いまから28年前、うまれてはじめて長崎にいったとき原爆関連施設を見学したが、そのとき目にしたモノクロの写真パネルの数々に大きな衝撃を受けた。

原爆の炸裂で破壊されたカトリックの教会堂、首が吹きとんだ聖母子像。本書にも何枚か収録されているが、なぜキリスト教国のアメリカは、日本でもキリスト教にゆかりの深い長崎にあえて原爆を投下したのか? 28年前のそのとき、まったく理解できない思いをもった。

長崎は、「鎖国時代」の日本においてオランダにも中国にも開かれていた、坂の多い異国情緒豊かな港町である。一般にはこの「観光イメージ」が前面に打ち出されている。坂本龍馬やグラバー邸、長崎ちゃんぽんに眼鏡橋といったイメージである。

だが、一方ではキリシタンの故地でもあり、二十六聖人の殉教などさまざまな記憶が刻まれている土地でもある。長崎といっても土地によって刻まれてきた歴史は同じではない。これは外部の人間にはわからないことだ。広島とは違って原爆遺跡保存が市民全体の運動にならなかった理由がここらへんにありそうだ。

浦上天主堂の廃墟は原爆投下から13年後、教会堂の再建と引き換えに撤去されたのであるが、その背後には複雑な要因がからみあっていたことが解き明かされている。

米国は、独立回復後の日本における「反米運動」に手を焼いていただけでなく、原爆遺構が反核運動のシンボルとして使用され、共産諸国を利することを恐れていた。この点においては、米国政府とバチカンは「反共」という価値観と利害を共有していたことも指摘されている。

当初保存に積極的だった市長は、米国政府による招待旅行で米国各地を外遊後に考えをひるがえしている。そこでは「文化外交」(public diplomacy)という高度な情報戦が行われていたのである。

第二次大戦における爆撃によって廃墟となった教会堂を、廃墟をそのままを活かして再建されているベルリンの例もあることを考えれば、浦上天主堂の廃墟が保存されなかったのはまことにもって残念だ。

だが、そう一筋縄でいかないのが人間世界。それなりの事情があったのだと知ることはきわめて重要だろう。思わず熱中して読んでしまうすぐれたノンフィクションである。ぜひ一読を薦めたい。



目 次

追憶
第1章 昔、そこに天主堂の廃墟があった
第2章 弾圧を耐え抜いた浦上の丘
第3章 原爆投下-浦上への道
第4章 浦上の聖者と米国の影
第5章 仕組まれた提携
第6章 二十世紀の十字架
第7章 傷跡は消し去れ
第8章 アメリカ
第9章 USIA
第10章 天主堂廃墟を取り払いしものは
あとがき
関連年表
主な参考図書・資料
文春文庫のための追記
歴史の残り香(星野博美)

著者プロフィール  

高瀬毅(たかせ・つよし)
1955年長崎市生まれ。明治大学政治経済学部卒業後、ニッポン放送入社。記者、ディレクター。1982年ラジオドキュメンタリー『通り魔の恐怖』で日本民間放送連盟賞最優秀賞、放送文化基金賞奨励賞。1989年よりフリー。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』で2009年に平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたもの)。


<ブログ内関連記事>

「原爆の日」-立場によって歴史観は異なって当然だ

書評 『原爆を投下するまで日本を降伏させるな-トルーマンとバーンズの陰謀-』(鳥居民、草思社、2005 文庫版 2011

書評 『原爆と検閲-アメリカ人記者たちが見た広島・長崎-』(繁沢敦子、中公新書、2010)

原爆記念日とローレンス・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜』

『大本営参謀の情報戦記-情報なき国家の悲劇-』(堀 栄三、文藝春秋社、1989 文春文庫版 1996)で原爆投下「情報」について確認してみる

広島の原爆投下から66年-NHKスペシャル 「原爆投下 活かされなかった極秘情報」 をみて考える

書評 『バチカン近現代史-ローマ教皇たちの「近代」との格闘-』(松本佐保、中公新書、2013)-「近代」がすでに終わっている現在、あらためてバチカン生き残りの意味を考える
・・「米国にとっては正式な外交関係はなかったものの、実質的な「反共」のパートナーとしてのバチカンの存在は大きかったのだ。カトリック地帯であるポーランドをはじめ、カトリック国であるハンガリーやチェコが共産主義国家ソ連の影響下である共産圏に入ってからは、バチカンのもつネットワークが米国にとっては大きな意味をもったからだ」

(2014年8月8日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどうぞ。
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!








end

2011年8月9日火曜日

書評『原爆を投下するまで日本を降伏させるな トルーマンとバーンズの陰謀』(鳥居民、草思社、2005 文庫版 2011)- きわめて大胆な仮説的推論。じっさいに自分で読んで内容が是か非か判断してほしい


 本日(2011年8月9日)、いうまでもなく「長崎の原爆記念日」だ。

 そしてまた、スターリンが「日ソ中立条約」を一方的に破棄して、ソ連軍が怒濤の如く満洲と北方領土に攻め込んできた翌日でもある。

 この二つの「記念日」にかかわる内容の本として、きわめて大胆な仮説を展開した『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』 という本を、文庫化されたのこの機会に紹介しておきたいと思う。

 もともとは、6年前の 2005年に『原爆を投下するまで日本を降伏させるな-トルーマンとバーンズの陰謀-』(鳥居民、草思社、2005)に「トルーマンとバーンズの陰謀」という副題をつけて出版されたものだ。トルーマンはいうまでもなく原爆投下を意志決定した大統領、そしてバーンズとは国務長官の名前である。

 日本降服後の1946年7月にトルーマン大統領に提出された「米戦略爆撃調査団の総括報告」には、原爆を使用しなくても、「1945年12月31日以前、あらゆる可能性を考えに入れても1945年11月1日までに」は、無条件降伏していただろう、と述べられているという。

 ではなぜ、米大統領トルーマンは、原爆投下という人類に対する犯罪行為を「正義」の名のもとに行ったのか? 

 これまでもさまざまな説明がなされてきた。その代表的なものといえば、以下のものがあげられるだろう。

 敗戦当時の首相・鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を、いわゆる「黙殺」したから、あるいは、日本本土上陸作戦が実行された際には、米軍側に大量の死傷者が発生することが予想されたので原爆投下によって日本の敗戦を早めることを意図した、あるいは、同じ枢軸側であっても、白人国家のドイツとは違って、日本は黄色人種の国だからだ、などなど多数ある。現在でもそのような説明がなされてことも多い。

 著者は本書で、これらの通説を真っ向から覆すことを試みている。

 著者は、原爆投下にいたる 4つの重要な日付に着目している。すなわち、「原爆実験の日」、「原爆投下準備完了の日」、「ポツダム会談の開催日」、そして「ソ連参戦の日」である。最後の「ソ連参戦の日」とは、まさに長崎に原爆が投下された前日の 8月8日のことだ。

 これらの日付をめぐって、ルーズベルト大統領の急逝後、副大統領から急遽新大統領となったトルーマンと、その最側近であった国務長官バーンズが、いかなる言動を行っていたかを、著者はさながら推理小説のように綿密に追跡し跡づけていく。


 著者の結論はこうだ。結論を知ったうえでぜひ読んでほしいと思うので、あえて書いておこう。

 トルーマンとバーンズの二人は、日本の降伏を早めたいという考えなど当初から念頭にはなかったのだ。

 ルーズベルト大統領の指示によって研究開発が行われ、完成するに至った原子爆弾を、前大統領の急逝という偶発的な事情で手にすることになった二人は、政府や軍の高官たちを欺いてまで、極秘のうちに巧妙な計画を立て、原爆投下を実行させたのである。

 日本降服よりも、原爆投下さきにありきだったのだ!

 そのため、原爆投下のまえに日本が降服してはならなかったのだ! 

 そしてまた、それはソ連が対日戦争を始めるまでに実行しなくては意味がないというタイムリミットが存在したのだ! 

 なんという恐ろしい、卑劣でかつ愚劣な、悪魔のような意志決定とその実行であったことか!

 以上が本書の内容の要約だが、著者の仮説的推論はじつに興味深い。ただ、この推論が正しいかどうかは、公式文書にも、秘密文書にも基づいていない部分が本書には含まれているので、裏付けも検証のしようがないのは残念なことだ。

 すくなくとも、日本人が非白人だったからという理由よりは説得力があるよう思われる。

 すでにわたしも、書評 『原爆と検閲-アメリカ人記者たちが見た広島・長崎-』(繁沢敦子、中公新書、2010) に書いておいたが、米陸軍航空軍の上層部は、「原爆を投下しなくても日本は降伏した可能性がある」ことを十分に認識していたのである。

 わたしもまた、ドイツのドレスデン大爆撃と同様、いやそれ以上に、原爆投下は人道に対する犯罪行為以外の何者でもないと考えている。

 原爆投下の最終決定を下したトルーマン大統領の座右の銘が「The Buck Stops Here」(最終責任は自分ががとる)であったことはよく知られている。

 しかしながら、トルーマンが最終的に下した決断が道義的には是とされなかったことは、本人が一番よくわかっていたようだ。死ぬまで良心の呵責に苦しめられていたという話もある。

 わたしは単行本が出版された2005年に、すぐに購入して本書を読んだのだが、内容的にはおそらくそうだろうと思いつつも、イマイチ納得しかねるものを感じながらも最後まで読んだ。

 ぜひ直接手に取って、著者の推論をじかに味わってもらいたいと思う。そのうえで、結論が是か非か自分で考えてみてほしい。



<初出情報>

 このブログのオリジナル記事です。


像をクリック!


目 次
序章 六月二十二日、天皇、「時局収拾」を求める
1. 一号作戦
2. グルーか、スターリンか
3. トルーマンとバーンズ


著者プロフィール
鳥居民(とりい・たみ)
1929年、東京生ま れ、横浜に育つ。日本および中国近現代史研究家。夥しい資料を渉猟し、徹底した調査、考察をもとに独自の史観を展開。2004年に上梓した『「反日」で生きのびる中国』では、1995年から始まった江沢民前国家主席による「愛国主義教育キャンペーン」の狙いを、毛沢東、鄧小平がおこなってきた統治手法に比して考究。反日デモで現実化した恐ろしい事態を正確に予測した。その分析は、日本における対中認識の一つの趨勢をつくった。ライフワークの『昭和20年』は現在もなお刊行中。2013年に逝去(本データは単行本が刊行された当時に掲載されていたものに増補)。


<関連サイト>

ハーバードでは「トルーマンと原爆」をどう学ぶのか サンドラ・サッチャー教授に聞く(1) (佐藤智恵、日経ビジネスオンライン、2014年11月5日)
・・HBS(ハーバード・ビジネス・スクール)の「リーダーシップと倫理」で取り上げられるケーススタディ。日米双方の視点を踏まえたうえで、指導者の意志決定と倫理の問題が教室で討論される

(2014年11月5日 情報追加)


<ブログ内関連記事>

広島の原爆投下から66年-NHKスペシャル 「原爆投下 活かされなかった極秘情報」 をみて考える

書評 『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(高瀬毅、文春文庫、2013 単行本初版 2009)-"最初の被爆地" 広島と "最後の被爆地" 長崎の背後にあった違いとは?

書評 『原爆と検閲-アメリカ人記者たちが見た広島・長崎-』(繁沢敦子、中公新書、2010) 

書評 『アメリカに問う大東亜戦争の責任』(長谷川 煕、朝日新書、2007)
・・「・・やがていつかは、あの絶対的軍事力に支配された被占領期の対米奴隷根性も日本人の間から消えるのだろう。しかし、その時に日本人は被占領期の先祖の姿に嫌悪をもよおし、GHQへの阿諛追従(あゆついしょう)も、対日無差別絨毯爆撃指揮者への勲一等叙勲も弾劾されずにはすまないと予感する」(P.99)。 

原爆記念日とローレンス・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜』

「原爆の日」-立場によって歴史観は異なって当然だ

書評 『ランド-世界を支配した研究所-』(アレックス・アペラ、牧野洋訳、文藝春秋社、2008)

64年前のきょう、ソ連軍が「対日宣戦布告」して侵攻を開始した(2009年8月8日)

(2014年8月6日 情報追加)


(2025年1月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2023年11月25日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年12月23日発売の拙著です 画像をクリック!

(2022年6月24日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年11月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2021年10月22日発売の拙著です 画像をクリック!

 (2020年12月18日発売の拙著です 画像をクリック!

(2020年5月28日発売の拙著です 画像をクリック!

(2019年4月27日発売の拙著です 画像をクリック!

(2017年5月19日発売の拙著です 画像をクリック!

(2012年7月3日発売の拙著です 画像をクリック!


 



ケン・マネジメントのウェブサイトは

ご意見・ご感想・ご質問は  ken@kensatoken.com   にどう
お手数ですが、クリック&ペーストでお願いします。

禁無断転載!







end