専修大学の関係者でもないのにこの本を読んだのは、この小説の主たる舞台がアメリカ東海岸を代表する名門大学の数々であるからだ。
しかも、主要な主人公である目賀田種太郎(めがた・たねたろう)は最終的にハーバード・ロースク-を卒業することになるが、渡米して最初に学んだのがニューヨーク州トロイ(Troy, NY)にあるトロイ・アカデミーという学校だったからだ。トロイという地名ががなんども言及される日本語の本などめったにない。
トロイといっても、現代の日本人にはなじみのない名前かもしれない。だが、ハドソン川上流に位置するトロイはアメリカ産業革命発祥の地であり、そこに建学されたレンセラー工科大学は、ことし建学200年を迎えたアメリカ最古の工科大学だ。大学院時代のわが母校でもある。
■幕末の1850年代に生まれた「アメリカ留学第一世代 」
幕末の1850年代に生まれ、内戦となった「戊辰戦争」(1868~69)では旧幕府軍と官軍にわかれて戦った者もふくまれる若者たち。そんなかれらが、内戦後の新日本建設のため最先端の学問を身につけるべく、それぞれ別個にアメリカに留学する。当時のアメリカもまた、南北戦争という内戦を1860年代に経験した世界であった。
彼の地で出会い、それぞれ異なる大学で学びながら、しかも戊辰戦争の恩讐を克服し、「英語ではなく、日本語で法律と経済を学ぶことのできる学校を日本につくる」、そんな熱い夢を語り合い、実現にむけて志を固め合う若者たちであった。
その中心にいたのが、先にも名前を出した目賀田種太郎(旧幕臣)、相馬永胤(彦根藩出身)、田尻稲次郎(薩摩藩出身)、駒井重格(桑名藩出身)である。若き日の写真が見つからないのが残念だが、この4人はいずれもそれぞれの分野で名を成している。
(専修大学創立者の4人 Wikipediaより)
専修大学の創立者のひとりが目賀田種太郎であることは知っていたが。そんな建学ストーリーがあったのか! 専修大学関係者でなくても、近代日本の夜明けの青春小説として、留学ものとして大いに楽しめる内容といっていいだろう。
2011年には映画化もされていたとも今回はじめて知った。映画『学校をつくろう』である。
19世紀当時は米国でも、法律学習にはラテン語が必修だったことを知った。ローマ法をベースにした大陸法だけなく、英米法においてもそうだったのだ。目賀田種太郎もラテン語をマスターし、ハーバードロースクールに進学している。キリスト教徒ではなかったが、面接官を説得して入学にこぎつけたのだそうだ。
ちなみに、この小説でも高木貞作の名とともに言及されている、おなじく実学系の「商法講習所」は1875年に私塾として出発している。「専修学校」の5年前だ。その後は高等商業学校を経て、1920年に大学に昇格し東京商科大学となった。現在の一橋大学である。こちらは学部時代のわが母校である。
商法講習所も、専修学校も、ともに慶應義塾の創設者であった福澤諭吉との人間関係が大きな意味を持っていたことは特筆すべきことだろう。専修学校の出発点において教室を貸してもらっただけでなく、その後の発展期においても福澤の協力があってこそのものであった。また、森有礼やホイットニー、そして勝海舟なども、間接的にからんでくる。目賀田種太郎は勝海舟の娘と結婚している。
■1870年代のアメリカ東海岸を徹底的に取材
著者の志茂田景樹氏は、かつて奇抜なファッションが取り上げられタレントとして話題になっていた人だが、さすがに直木賞受賞作家であり、躍動感あるエンタメ作品として読ませる筆力はたいしたものだ。この人のものを読むのは今回がはじめてだが、いい作品を書いてくれたものだと思う。
現地取材も行っており、ハーバードやイエール、コロンビアなどアメリカ東部の超有名大学だけでなく、なんとトロイまで赴いて飛び込み取材を行っているのだ。さすがに現地を踏んでいるだけに、記述に説得力がある。この長編小説は法律が大きな要素を占めているが、著者自身が中央大学法学部卒だだけに、まったく土地勘のない世界ではないのだろう。
目賀田種太郎と、志茂田景樹氏によるトロイ取材のことを知った11年前に購入したものの、行方不明になっていたこの本。昨日再発見して読み始めたら、とにかく面白い。ぐいぐい引き込まれる。もっと早く読んでおけばよかった。
明治時代を舞台にした青春小説だが、司馬遼太郎には書けないテーマだろう。
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目 次雄飛一/雄飛二/雄飛三/雄飛四同期の友、トロイに死す岩倉使節団の珍事それぞれの試行錯誤挫折の連鎖出あいの交錯試金石燃ゆる志それぞれの帰国帰国に心ゆれる大志ふたたびたしかな飛翔あとがき参考文献年表(相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格)
著者プロフィール志茂田景樹(しもだ・かげき)1940年3月25日静岡県生まれ。中央大学部法学部卒業。1976年『やっとこ探偵』で小説現代新人賞受賞後、1980年に『黄色い牙』で直木賞、1984年の『汽笛一声』では文芸大賞を受賞するなど、作家としての地位を不動のものにする。1999年に初の絵本を発表、絵本作家としての著書も多数。同年に「よい子に読み聞かせ隊」を結成以来、現在も隊長としての読み聞かせ公演を続ける中、講演活動など多方面に渡り活躍している。株式会社志茂田景樹事務所代表取締役。(本書が出版当時のもの)
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学校略歴
1875(明治8)年相馬永胤が中心となり、渡米留学中の法学徒が集うクラブ・研究会、日本法律会社結成、「われわれが帰国後、われわれの法律上の計画を実行しようというのが、わが法律クラブの目的である」。相馬永胤、田尻稲次郎、箕作秋坪の子・箕作佳吉らと共に学術クラブ・興学社結成、法律と経済の環を繋ぐ1876(明治9)年代言人資格試験制度、法律実務を担う法律家の育成が急務となるも、司法省法学と東京大学法学部の官立2学校だけでは人材需要を十分にまかなうことができず、各地に試験準備のための私立法律学校が開校、私立大学発足の一大源流に1877(明治10)年東京大学法学部発足、英米人御雇教師により英米法が講じられる、フランス法学派と英米法学派との対立、後の民法典論争に大きく影響1879(明治12)年相馬永胤、日本に帰国、目賀田種太郎と共同で法律事務所開設、事務所の2階に同じく帰国したばかりの田尻稲次郎と駒井重格が寄宿、4人で起居を共にし、法律学校設立の準備に動き出す1879(明治12)年12月、福澤諭吉と親交、法律・経済の知識を日本語で学べる場が求められており、慶應義塾に慶應義塾夜間法律科設立1880(明治13)年1月、箕作秋坪の協力を得る、英学私塾・三叉学舎に三叉学舎法律経済科設立(以下、省略)
*なお、岡倉覚三(天心 当時20歳)が、「創立間もない専修学校(現・専修大学)の教官に。学校創立時の繁栄に貢献、学生達を鼓舞。」とある。英語を教えていたのであろうか?
(2026年4月1日、4月30日 情報追加)
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・・「全身全霊でアメリカから貪欲に学ぼうとしていた頃の日本と、日本びいきであったアメリカ東部の上流階級との交流を知ることは日米関係史の原点を知るうえで重要」
・・目賀田種太郎は米国留学から帰国後、伊澤修二と「音楽取調掛」の設置を建議、初代掛長として主幹の伊澤とともに近代日本の音楽教育の基礎を築いている
(2026年4月1日 情報追加)
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